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小説『Endless story』#10-5

#10-5【終わりなき物語へ】

 

 

 

 穏やかな午後の日差しが照らす窓際で、彼女は大きく膨らんだ腹を柔らかく撫ぜていた。網戸からはそよ風が入り込み、白い薄手のカーテンを揺らしている。

 

「こんな私ですから、ちゃんと正しい親として、この子を育てられるか自信が無いんです。彼がどこかへ行ってしまったのも、こんな私だから仕方ないって、実は少し思っています」

 

 彼女は自嘲気味に微笑みながら、どこか愛おしげな視線は自分の腹に、いずれ生まれて来るであろう子供に注がれていた。

 本当はまだ、彼女自身も現実を受け入れ切れていない。突然に我が子を身籠ってしまい、その矢先、恋人には逃げられてしまって。どうすればいいのか、自分を支えてくれる人が誰も居ない中で、自分はどのように道を模索していけばいいのか。

 ただこの身に宿ったいのちの存在だけは確かだった。

 

「思ったことを言ってしまうし、メンタルも弱いし、すぐ感情的になるし……自分の境遇を、いずれこの子のせいにしてしまう日が来るんじゃないかって、それさえも予想出来てしまって」

 

 自分の弱さを、嫌と言うほど知り尽くしていても、どうしようもないことが多すぎて。自分を変えようと決めて立ち上がろうとするほど、傷付き、折れて、誰よりも自分のことが嫌いになってしまって。

 変えようもない、変わりようもない、どうしようもないと、崩れ落ちもするし、逃げもするし、迷いもするし、戸惑いもするし、悲しみもするし、暴走もするし、絶望もする。どうして、と切実な叫びをぶつけたくもなるし、言葉もなく呆然と夜空を見上げもする。

 人間とは往々にして、そういうものだから。

 

「ただ、少なくとも今は、どんな子が生まれて来るのか少し楽しみで。少し、本当に少しだけ、愛おしいって気持ちがどんなものか分かるから」

 

 けれど一方で……――たとえ終わらない絶望の連続に打ちひしがれても、どうしても、願うことをやめられない。何かを変えたい、何かが変わって欲しいと願っていたい。

 それもまた人間という、意志ある生物の姿だから。

 だから彼女は言った。

 

「この子の名前は縁(ユカリ)にしようと思います。いつか私がダメになってしまっても、どうか沢山の良い縁に恵まれて、支えられて、支えながら生きていけますように、そんな願いを託して」

 

 

 

 

 

 

 考えるより先に――私は飛び出していた。

 飛び降りた縁を目掛けて一直線に、彼女を追って、その手を掴みながら。二人の身体は嫌な浮遊感を伴って勢いよく落ちていく。内臓が締まるような、それはそれは嫌な感覚だ。縁は驚きのあまりに目を見開いて、そして怒鳴りつけるように言う。

 

「なんでっ……あなたまで飛び降りてるの!?」

「私だって分かんない!」

 

 深い理由なんてない。ただ気付いたら飛び出していた。

 縁につられて私も大声を出しながら、どこか思考のまとまらない頭で、けれど一つだけ確かなことを彼女に向かって告げた。

 

「だけど、あなたは死なせない!」

 

 届け、届け、届けと願った指先で――縁の指先を、しっかりと掴む。

 しかし実際問題ここからどうする。

 たとえエーテルの力どうこうで。全身を強化したり衝撃を和らげたって。いくら何でもこの高さは無理があるんじゃないのか。よしんば私が耐えられたとしても、縁は着地時の衝撃に無事耐えられるのか。

 どうにかここから2人で助かる方法は無いのか、真下から吹き上げる空気抵抗に煽られながら、必死で頭を回す。縁も私も無事に助かる方法は無いのか、と――。

 

 

 

「……――っにゃあぁあああああっしゃいおぉらあああああいッ!!」

「ユカリ――こっちに、掴まって!」

 

 

 

 落ち続ける虚空、視界に飛び込んできたのは、小型の乗り物。

 そしてそれを操縦するアルトと――こちらに手を差し伸べる、アルーシュの姿だった。

 

 何か言うよりも先に私も手を伸ばす。縁の手をしっかりと掴んだまま。

 落下の衝撃で両腕が千切れそうなほどの痛みを味わいながら、全力で歯を食いしばって、乗り物が大きく傾く瞬間を端目に捉えながら、それでも耐え抜く。それからエーテルを肩から腕にかけて集中させ、縁を乗り物の上へ投げ込むように放る。

 乗り物は大きく飛行体勢を崩しはしたものの、無事に持ち直したらしく、アルトは私を目を合わせると「してやった」みたいな表情で口の端を上げてみせた。

 

 乗り物はアルトとアルーシュと縁と、ついでに無理やり私も乗せ、ゆらゆらとふらつきながらもゆっくり地上へと降下していく。降り立ったのはエスカタワー前にある広場で、そこは見晴らしのいい空間に芝生が敷き詰められていた。

 緊張のあまり、呑み込んでいた呼吸を一気に吐き出す。深いため息が音を伴って流れていく。良かった、縁も私も死なずに済んで。良かった、アルトとアルーシュが、たまたまあの場に出くわして良かった。

 

「良くないわよ! あなた……ユカリ、あの場でたまたま私たちがライドロイドの試運転で通りがからなかったらどうする気だったの!?」

「ヒエッごっごごっごめんなさい!?」

 

 アルーシュの恫喝を受けて思わず委縮する。私は条件反射で謝り、しかしアルーシュは自分の額に指先を当てて深くため息をついてから、改めて彼女の方へと向き直る。

 私も意図を察して、そちらへと視線を向けた。その先に力なく座り込む縁の姿があった。

 彼女は激しく抵抗するでもなく静かにへたり込んで、芝生を見つめるように俯いていた。縁の近くまで歩み寄って行くと、ようやく彼女は口を開く。

 

「何で、私を助けたんだよ……」

「……だから言ったじゃん、殺す理由も無いって」

 

 言い放った私に、縁が思い切り掴みかかる。アルーシュやアルトを始め世界群歩行者達のメンバーが思わず身構えたけれど、私は左手を差し出し、無言の内にそれらを制止する。

 縁は悲痛な表情で、あるいは懇願するように掴みかかって、私に叫んだ。

 

「殺してよッ!」

 

 心を打つ叫びだった。

 

「今までゴミみたいに生きて来て、存在価値なんてどこにも無くてさぁ! 初めて誰かに期待されて、それすらも応えられなかった! 生きている理由なんて、私にはもう、どこにも無いんだよ! クズみたいで、生きていたって何かをどうかすることも出来なくて! 生きているだけ、何もかもが無駄で! 私の物語なんて、もう終わっているんだ!」

 

 それは私の心の叫びだった。

 

「殺してよ! 死なせてよ! 私なんて、生きていたって死んでいたって! 誰も何も、何も変わらないでしょ!? 誰も私を必要となんてしない! 死んだって気にしない! だったら……どうでもいいじゃない、私のことなんて!」

 

 そして俯いて、表情は長い前髪で隠れながら、しかし確かに流れる。ぽろぽろと次々と、涙のしずくが、次から次へと追って伝うように流れる。

 

「私なんて……こんな物語、早く終わればいいのに……死ねばいいのに……」

 

 かつて自分が強くそう思ったからこそ、その言葉が響いた。

 それを言わざるを得ない程に、苦しかったから、ぐるぐると悩んで、苦しんで、ワケが分からなくなりそうな程に悩んだから、だからこそ胸が痛んだ。

 今の彼女が抱えている気持ちは、縁の気持ちは、痛いほど分かるんだ。かつては私自身だったのだから。かつて私は、彼女から生み出されたのだから。

 けれど、だからこそ――……。

 

 

 

 ……――彼女に渾身の平手打ちを見舞った。

 

 

 

 小気味いい音の後、縁は呆然とした表情で私を見上げる。

 その場にいたアルトも、アルーシュも同様に、呆気に取られた様子だった。しかし気に留めず私は言い放った。腹の底から叫ぶように、どうにかして彼女へ届くように。

 縁の襟首を掴んで、至近距離で真正面から彼女の、透き通るように漆黒の目を見据え。

 

「あなたは死なせない!」

 

 縁は何が何だか分からないまま、私を見る。けれど私も何も知らない。縁が何に驚いているのかも、彼女が何に絶望しているのかも、私にしてみればもうずっと遥か遠くの……ちっぽけな出来事だった。

 走り出せば、全ての世界は変わるんだ。歩みを進めれば、何もかもが違って見えるんだ。たったそれだけを伝えたくて、私は縁に向かって怒鳴り散らす。

 

「あなたは言うほど、世界を見渡したの!? 自分の足で歩いて、色んな人と話しながら、自分が生きていた、今までの世界が変わってしまうような体験をしたの!?」

「そんなの――……」

「まだ無いなら、何もかも分からない内から、手っ取り早そうな答えに飛びつかないで!」

 

 かつて自分が救われた言葉を、ルベルから託された言葉を、全身全霊で彼女に叩き込む。

 たとえ自分がどれだけ世界中を知ったつもりになっても、どれだけ世界中の悪意を内包した気分になっても、絶対に、私たちはこの世界の全てを知り尽くしてなんて居ないんだ。

 なのにこの世界は絶望に満ちているだって。優しさも希望も無い、救いも無くて、ただ絶望に満ちているだなんて……――そんな主張、馬鹿げている。

 

 だから透藤縁の絶望なんて、ちっぽけなものだったんだ。

 たったの一歩踏み出してみれば、たまたま巡り合わせた見知らぬ世界へと飛び込めば、そこはまるで見知らぬ世界へと繋がっていた。自分が生きていた世界からは、まるで想像も出来ない人々が生きている。

 

 大切な人たちを、必ず守り抜きたいという「願望」。

 自分の命ある限りは、そう生きてみせる「意志」。

 怖くとも、歩み出すべきだと思った「勇気」。

 二度と大切なものを失って、後悔はしたくないという「決意」。

 自分が信じた仲間と共に、歩みを続ける「絆」。

 そして望む未来を必ず勝ち取って見せるという「信念」。

 

 人の数だけ、それぞれ違う「生きる理由」。

 それを知るだけで世界の見え方は変わる。それを透藤縁は知らない。

 迷っても、傷付いても、何度だって悲劇の夜をやり過ごしても、ほんの一歩でも新しく踏み出してみれば、見える景色は劇的に変わるんだ。

 紛い物の私でも、それをこの身で知った。

 私を生み出した、血肉も通った人間のあなたが、それに触れられないハズは無いだろう。私が知れたのに、あなたが触れられないハズは無いだろう。温かい絆を、今までの世界が割れて砕けるような新しい景色を、思わず泣きだしてしまうほどに優しい誰かの心を。

 だというのに、あなたは、透藤縁は。

 

「そんな軽薄に死にたいだなんて、殺してだなんて言うな!」

「軽薄になんて!」

「だったら、まだ生きてよ!」

 

 今度はこっちが、透藤縁の襟首を掴む番だった。

 あの時、確かに縁は「私もあなたみたいになりたかった」と言った。

 死にたいって言っているのは、生きたいって言っているのと同じなんだ。この世界に、期待したいって叫んでいるのと一緒なんだ。光の差す場所へ飛び出したいっていう切実な願いを、思い切り打ち明けているのと変わらないんだ。

 

 それで良いんだよ。私たちは期待して良いんだよ、縁。

 この世界は何が起こるか分からない。それは悪い方向にも、そして良い方向にも。

 生きている限り、何だってどうとでもなるんだ。

 だから期待して良いんだ、私たちがこれから生きていく、未来の全てに。

 だから。

 

「まだ、あなたの物語は、私が終わらせない!」

 

 大粒のしずくが零れる縁の瞳を見据え、私自身も涙を流しながら、言いたいだけ、思い切り言い放つ。腹の底から、心の底から、思いの丈を十全に吐き出す。

 私が言いたいことを、先に察したからだろうか。縁は漆黒の瞳を見開いて、そしてその光は……潤んで、揺らぎ始めた。

 

「あなたは、私たちは、生きていて良いんだ! 幸せになって良いんだ! 生まれてきた誰にだって、幸せになりたいって願う権利はあるんだ! その為に歩み続けて良いんだ!  それを諦めなくちゃいけない程、私たちの、私たちが生きる世界の、可能性は閉ざされてなんかいないんだよ! だから……」

 

 私も、縁も、大粒の涙を零しながら、嗚咽を漏らしながら、やっとの思いで伝える。

 

「……だからまだ、一緒に生きてみよう? 生きていて良かったと思えるまで……」

 

 私は透藤縁を、強く、強く抱きしめた。

 縁も私を抱き締め返しながら、涙を流し、やがて大声を上げながら赤ん坊のように泣く。みっともなく、恥も外聞も無く、大声を上げて泣く。これまで心の内に抑えつけて来た、切実な叫びを、ここで打ち明けるように泣いた。

 泣いて、そして嗚咽を洩らしながら、縁は私に聞いた。

 

「あなたは今、幸せ?」

「うん。とても幸せ。でも、これからもっと幸せになるかもしれない」

「……私も、あなたみたいになれるかな」

「もしかしたら私よりも、ずっと、幸せになるかもしれないよ」

 

 後から辿り着いた世界群歩行者達の誰もが、邪魔せず割り込まず、ただ私たちを見守る。

 そして夜明けの――黎明の穏やかな日差しだけが、柔らかく辺りを照らし始めていた。

 

 

 

 

Capter10『終わりなき物語』End.Next『#Epilogue

 

 

 

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