手の内からこぼれる世界


 5

「俊樹ぃ!」
 悲鳴のように俊樹の名前を呼び、瑠華は倒れてぴくりとも動かない俊樹の元へと走った。滑り込むように俊樹の傍にしゃがみ込む。溜まっている血溜まりがばしゃっと大量に跳ね飛んで撒き散らされた。
「俊樹! しっかりして!」
 ただ瑠華は俊樹の体を無我夢中で抱え起こした。俊樹の背に手を回す。瑠華の身体に大量の血が付いたけれども、瑠華はその事に構いはしなかった。
「くっ……」
 俊樹の身体はとても重かった。どこにも力が入っていない。まるで死人のように、重い。
 俊樹の体はずたずたに裂かれていた。左腕は肩のすぐ傍で断ち切られていた。左の脇腹はえぐられていてへこんだ形になっている。白い肋骨と、内臓。左足は太股からとんでもない方向に曲がっている。そして、止めようもない血が流れていた。それは誰の目からしても、もう助からないほどの致命傷だった。
 赤い血は、二種類流れていた。赤黒い血と、鮮やかな赤い血。鮮やかな血は動脈から流れ出ている血だ。そして、鮮やかな赤い血の方が流れている量が多かった。

 もう、助からない。

 なぜだろう。自分が死ぬことには大した抵抗もなかったのに、俊樹が死ぬことには耐えられないくらいの拒絶感があった。俊樹が死ぬなどと信じたくなかった。
 なぜそう感じるのか、理由は全く解らない。俊樹は、瑠華にとって敵であるはずなのに。
 その時、俊樹が血まみれの顔で力のない笑みを浮かべた。しかし、目の焦点がどこにも合っていない。何かを見ているようで、何も見えていないようだった。
「瑠華ぁ、何で、俺の方にくんだよ、早く逃げろよ……」
 ごふっ、と俊樹が血を吐いた。俊樹の喉と瑠華の上着の袖が血に染まる。
「俊樹! 死んじゃダメ! 死なないで!」
「何で……?」
 瑠華は言葉につまった。
「に、任務だからよ!」
 瑠華は何でもいいから言葉を吐き出した。その言葉を聞いて、俊樹はふふ、と力なく笑った。
「それは……嘘だね……」
 瑠華は俊樹の体を抱く力を強めた。
「そんな理由なら……泣かない……だろ?」
 瑠華の頬を涙が伝っていた。流れた涙がやがて滴となって俊樹の首に落ちる。
「いやぁ、死なないでよ……」
「何で……?」
 俊樹はもう一度、同じ質問を繰り返した。瑠華は嗚咽(おえつ)を漏らしながらも答えた。
「紅茶……」
 瑠華は嗚咽を漏らした。
「紅茶……俊樹と一緒に飲んだのと同じの飲んだはずだったのに……俊樹と一緒に飲んだのよりも……苦かったのよ……」
 俊樹が力のない笑みを浮かべる。
「一緒にまた飲んでよぉ……もっと、私としゃべってよぉ……お願いだから、私を置いていっ、いかないで……置いててっ、いっ、行かないって、い言ったじゃじゃない……」
 瑠華は俊樹の胸に額を押し当てていた。
 それは、俊樹が瑠華は人間だよ、と言ってくれたときに瑠華の心の奥底に生まれた感情だった。
 この人ならば、私を“人間として”接してくれる。この人ならば、私を怖がらないでいてくれる。この人ならば、私と話をしてくれる。この人ならば、私と一緒に笑ってくれる。
 この人は、私を拒絶しない。この人の傍にいるだけで、気分が安らぐ……。
 俊樹に対して怒りを感じた時でさえも、瑠華は安らぎを感じていた。それは今まで生きてきた中で感じた事のない温かなものだった。
 それが今、失われようとしている。きっと、もう永遠に手に入らないものが目の前で消えようとしている。瑠華はその事が怖くて悲しくて寂しくて辛くて……、それらの感情が瑠華に涙を流させていた。
 なんで、俊樹に立たせてもらったあの時に、あの言葉が言えなかったのだろう?
 あの時に言っておけばよかった。
 その言葉を言う機会が、
 失われる。
「なあ……一つ約束してもらっていいか……?」
 俊樹がつぶやく。瑠華は俊樹の顔を見た。
「……な、に?」
「ちゃんと、守ってくれよ……?」
「……いや、よ」
 瑠華が言葉をひねり出した。
「そ、そんな、さささいごのの、ずっ、こ、ことっばっみたいななの、ひっく、まもららいから、いや、しなな、」
 涙声で瑠華が嗚咽を漏らしつつ首を振る。
「いいから……守ってくれよ……」
「守る! まもるからら、しし死なないで!」
 その瑠華の誓いの言葉を聞いた瞬間、俊樹が“にっこりと”笑った。
「約束だよ」
 俊樹が深くゆっくりと息を吸い、事もなげに俊樹を包んでいた死の気配が消えた。あっさり。さっぱり。

「今の言葉、もう一度俊樹様にあなたの口から言ってくださいね?」

 いきなり、知らない“女の”声が俊樹の口から漏れた。いたずらっぽい笑みを浮かべて、体に受けた傷もどこ吹く風の調子で起き上がった。
 瑠華が呆けている間に俊樹の身体がきりっと修復され、流れ出ていた血が逆流して俊樹の足元から体の中に吸収されていく。瑠華の体に付いていた俊樹の血も、全部染み出て俊樹の足へと流れていく。全て吸収され終わると、俊樹の姿をしたそいつは瑠華からぴょんと跳んで後ろに下がった。
 そして、
 そいつの体が変化しだした。色が消え、水の塊のような状態になって一回形が崩れ、そこからまた形が再構築されて色が付く。
 そこに立っていたのは見たことのない綺麗な女の人だった。年は二〇代後半か。腰まである長い藤色(ふじいろ)の髪の毛をストレートに流していて、服は若草色の上着とロングスカートを着ている。髪の毛には結び目を前にして、ヘアバンドのように黄色いスカーフが巻かれている。
 場違いな格好をしたその女の人は場違いに呆けたままの瑠華に優しい笑顔を向けて、場違いに礼儀正しく綺麗にお辞儀をした。
「初めまして。私は俊樹様の身の回りの世話をさせていただいています、真(さな)と申します。字はマコト、真実のシンです。どうぞお見知り置きを」
 オール場違いなその姿を見て、瑠華の中でつながったものがあった。
 けれども、体が動かない。どこにも力が入らない。涙その他でくしゃくしゃになった顔も拭こうとしない。ほとんど瑠華は呆けていた。ペたりと床に座って、両腕を人を抱えていた時の状態のまま固めて、ただ目の前に現われた女を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
 真と名乗った女が少し心配そうに瑠華に声をかけた。
 そしてようやく、瑠華が唇を動かした。
「ああ……感じていた、違和感は……これだったのね……」
 そう、なんて事はない。今まで俊樹に感じていた違和感の正体。種明かしをされればなんて事はなかった。
 “偽物だった”のだ。そばにいた俊樹は。
 本物ではなかった。だから、妙な違和感を感じていたのだ。俊樹ではないことを無意識に感じ取って、それで不安に駆られていたのだ。その不安が恐怖をあおった。だから、余計に恐怖を感じたのだ。
 目の前に真と名乗った女の人がいる。彼女は確実に人間ではない。だから、《闇》が俊樹を襲う理由を聞いたときに“同族同種”での殺し合い、なんて言ったのだ。
 死にそうになったときに感じた寂しさは、傍に俊樹がいなかったからだ。俊樹が傍にいないことが、無性に寂しかったのだ。

 笑い出したくなった。

 そこにあるのは、何物にも換え難い安堵。俊樹は死んではいない。それが判っただけで、気絶しそうなほどに安堵した。
 と、目の前の真という女がとても嬉しそうに笑った。
「あら、違和感を感じてらっしゃったのですね、瑠華様は」
 ふふふ、と笑う。そして何かを納得するかのように、うんうんと二回頷いた。
「さっ、早く顔を拭いてください。もうすぐ俊樹様がいらっしゃいますよ」
 真がハンカチを瑠華に渡した。瑠華は涙で濡れた顔を拭いた。
 拭き終わると同時に馬鹿らしさが込み上げてきた。いったい、私はなぜ泣いたのか。何のために涙を流したのか。
 けれども……偽物とはいえ、俊樹の死にかけた姿を見せられたのは相当にショックだった。俊樹が体を貫かれている姿が脳裏に焼き付いていた。いつ、本当の俊樹がそうなるのか判らないのだ。次も、その次も、死にかけるのが偽物とは限らない。
 もしかしたら、私は自分の手で……。
「あ、来られましたよ」
 真の言葉に瑠華は体がびくっと反応したのを感じた。
 隣の校舎から、俊樹が跳んできた。屋上に着地して瑠華の姿を見て、ちょっと安堵したような表情を見せた。
「遅れてごめん。“扉”をこじ開けるのに時間がかかっちゃって……大丈夫か?」
「……あなたは、本物の俊樹?」
「……え? そうだよ?」
 俊樹は瑠華の質問に戸惑った顔で、訝しげ(いぶかしげ)に瑠華を見つめている。
 瑠華はゆっくりと立ち上がり、俊樹に歩いて近づいて、

 パァーン!

 ムチャクチャいい音がした。俊樹は驚いた顔で、曲げられた首を元に戻して瑠華を見た。
 瑠華は何も言わない。俊樹の頬を引っぱたいた手を下げもせずに俊樹を睨んでいた。
 ただ、怒っていた。
 俊樹の死ぬ姿を見せられて、それが偽物であると知って安堵して、泣いてしまったことに言い様のない馬鹿らしさを感じて、そしてぴんぴんしている俊樹が前にいて、そしてどうしようもない怒りが沸き上がった。
 どれだけ、どれだけ――!
「どれだけ私を――!」
 を、の続きが出て来ない。馬鹿にすれば気が済むのか? 怒らせれば気が済むのか? いい様に操れば気が済むのか? 貶めれば(おとしめれば)気が済むのか?
 ……どれも自分の言いたいことではないと思う。けれども、感情が滅茶苦茶に揺れまくっていて、何を言いたいのかを言葉に出来ない。“怒り”というものしか認識できない。
「……真、一体、なにをした?」
 俊樹がちらりと瑠華の後ろに立っている真に目を向けた。
「ちゃんと俊樹様の言いつけ通り、瑠華様を連れて校舎内を走っていました。そして追い詰められましたので戦闘していました。ちゃんと時間も稼ぎましたし、瑠華様を囮にする旨もはっきり伝えましたよ」
「……それ以外には?」
 俊樹はぶたれた頬をさすりつつ真に聞く。
 俊樹は何も知らないのだと判った。おそらくは“俊樹の物真似”はこの真とかいう女の人の独断で行なわれたのだ。
 が、それでも怒りは収まらない。その怒りをどうすれば発散できるのか判らない。殴ることでは収められそうになかった。
「え〜と、俊樹様の姿を借りまして闘い、ちょっと死にかけました。片腕を断ち切られて体に穴が開きましたし。出血、内臓ちらり等の小道具にも抜かりありません! そうしたら、瑠華様が」
「やめて!」
 瑠華が慌てて叫ぶ。
「黙ってて!!」
 瑠華が顔を真っ赤にして怒鳴った。俊樹はびくっと驚きの表情をしていたが瑠華は気が付かなかった。
 しかしそれどころではない。今は絶対に泣いたことを俊樹に知られたくなかった。死なないで、と懇願したことを知られたくなかった。もしも知られたらこれ以上の屈辱はない。死すらも甘美な響きに聞こえるに違いない。
 されども、
「ふふふ、瑠華様、かわいいですよ」
 真は優しく微笑んだ。対称的に瑠華はもう爆発寸前。歯をきつく食いしばって、今にも飛びかかりそうな攻撃的な視線を真に向けている。
「約束は、必ず守ってくださいね」
 年上のなせる業か、真はやんわりとの視線を受け流して瑠華に背を向けた。
 俊樹に目を向けると、俊樹は腰に手を当ててこの場を傍観していた。我関せずの態度を取っている。冷静に考えれば、瑠華と真の間に何が起こったのかを知らない俊樹のその態度は最善のものだと解ったはずだが、今の瑠華にはそれがものすごく腹立たしかった。
 俊樹はネタに使われただけだ、と割り切れていないからだ。真の“俊樹の物真似”において、俊樹本人はまったく無関係であるにもかかわらず、瑠華はそれが無関係ではないような気がして煮え切らないのだ。
 やり場のない怒りに鼻息を荒くしつつ、ともかく瑠華は息を整えた。
 めちゃくちゃに怒っていて、みっともない。
 しかし落ち着いてくると、妙に気になることがあった。
 今自分が感じていたのは、本当に怒りだけだったのか? 何かもっと別の感情も混ざっていた気がする。
 私が怒り以外に感じていた感情……それは……不安と、寂しさと、悲しみ……?
 自分は、俊樹に抱きついて泣きたかったのではないか。俊樹の腕に抱かれて、俊樹が生きていることを感じたかったのではないか。二人で、お互いを

 違う!!

 妄想に蹴りを入れた。そんな馬鹿らしい事があってはたまらない。そんなものを求めているんじゃない! そんな、そんな、そんな……。
「ど〜した、瑠華。顔真っ赤だぞ?」
「なんでもない!」
 自分でも驚くほどの即答だった。俊樹は一瞬黙りこんだあと、
 唐突に瑠華を抱きしめた。
 声が漏れた。
 余計に顔が赤くなった。思考があっさりと崩壊し、何がどうなっているのかが理解出来ない。ただ、俊樹の温かみが感じられた。
 抱きしめたくなった。けれども、様々な思いが邪魔をして瑠華の手のひらはきつく握り締められて動かなかった。
 俊樹は瑠華をしっかりと抱きしめて、背中をぽんぽんと叩いた。そして、俊樹は微笑みながら瑠華から離れた。
「あ……」
 軽い喪失感。それと小さな後悔。瑠華の中にその感情が首をもたげた。
 俊樹は瑠華の顔を満足そうに見たあと、瑠華に背を向けた。すぐそばでは真も微笑んでいる。
「さてと、そろそろ《闇》をなんとかしよう。向こうで《闇》が完全統合していたから、今度は全力で来るぞ」
「はい」
 真が、頷いた。俊樹が《闇》がいるほうのフェンスのほうへと歩く。
「瑠華は下がっててくれ。すぐに済むから」
 俊樹は軽く伸びをする。そこにはこれから戦いに赴く緊張した顔がある。
 ここからが、本番。
「よし、やるぞ」
「はい」
 真が俊樹の横に並ぶ。
「――“統合”」
 俊樹が横を向いたまま横に立つ真の肩に手を置いた。
 いきなり真の形が崩れて液体の様になり、色が深い紺一色に染まりながらも垂直に立った棒のようになった。
 それを俊樹が掴むと、真であったものはすっと深い紺色の布のようになった。
 それは月夜の色のマント。俊樹はそれをばさっと羽織り、首の部分をボタンらしきもので止める。俊樹はそのマントの下から深い紺色の角張った帽子をゆっくりとした動作で取り出し、しっかりと被った。
 マントが翻る(ひるがえる)。俊樹の服が、マントと同じ紺色に染まっていた。
 瑠華は“彼”の姿を瞬きせずに驚きの表情で凝視していた。
 何物も“飲み込まない”夜色のマントを羽織り、それでも隠し切れない強い存在感が“彼”にはあった。
 とんでもなく強烈な《闇》の波動。世界に歪みが広がってゆく。その波動の前では、瑠華は話にならないほどにちっぽけで、この世界を創った《闇》はまさに赤子のようなものだった。
 けれども、違う。
 その波動はこの世界を創った《闇》とは全く異質な波動だった。異常であると言ってもいい。まるで月明りに照らされた夜の風のような、そんな優しげな波動だった。
 自分たちの世界にはいないはずの者でありながら、自分たちの世界に存在する者。
 瑠華は“彼”にふさわしい名前を知っていた。
 轟音(ごうおん)が響き、世界に震えが走った。隣の校舎、二棟の屋上に手をかけ、斃すべき《闇》の巨体が姿を現わした。二棟を挟んで対峙する。
 思わず瑠華は息を飲み、後退った(あとずさった)。
 瑠華と真が戦ったときよりもそいつの体は大きくなっていた。おそらくは、この世界にいた《闇》たちを全て統合したのだろう。瑠華一人では逃げ出しても助かるかどうか判らない、強大な、敵。
 その強大な《闇》がまるで俊樹の波動に抗うかのように激しく身体を波打たせている。同種でありながら、とても異質な波動を放つ者の出現に激しく戸惑っているようだった。
 気が付くと、俊樹の左にケルが立っていた。静かに主人の姿を見つめている。
 俊樹がゆっくりと右手をケルのいない右に伸ばす。そして、ケルが高く高く飛び上がった。
 ケルが空中でくるくると回転し、その姿を変えた。そして、蒼い光の尾を描きながら俊樹の右手に落ちる。
 俊樹の右手にあるのは、鋭くて少しそりのある片刃の大きな剣だった。その剣から、強くて蒼い(あおい)オーラが溢れるように漏れていた。
 “彼”が強い笑みを浮かべる。そこにあるのは、己の存在を強く誇示する強い自信。
 “彼”の名は――
「……闇と……踊りし……者」
 “闇と踊りし者”が二棟校舎を乗り越えてこちらへと向かってくる《闇》に向かって剣を構え、切っ先を揺らしてたんたんたんたんと爪先を床に叩いてリズムを取った。
 ♪♪ ♪♪♪♪ ♪♪ ♪♪♪
 鼻唄を歌い始める。瑠華には何の意味があるのか解らない早いリズムの曲。
 そして、

「い――ぃやっほぉ――――!」

 跳躍した。