手の内からこぼれる世界


第三章 夕方の歪みに

 心――人が滅びぬために与えられた、姿なき答えなき永久(とわ)の謎。

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 日が西に傾いて、茜色の夕日が差す午後六時。契約の儀を終了したオカルト総合部一同はいったん家に帰り、私服に着替えてランデブーポイント(酉原駅)にて合流、新沢中学校へと赴いた。
 ここで、オカルト総合部の簡単な仕組みを説明しておこう。
 オカルト総合部には[統轄(とうかつ)部]、[研究部]、[情報部]、[作戦部]の四つの部署がある。[研究部]はオカルトについての研究、発案を行い、[情報部]は周りのオカルト、地域の情報を集め、[作戦部]は心霊スポットの現地調査、探索や武器道具製造などの仕事をし、[統轄部]はその三つの部署を管理する頭の役目を果たす。
 とまあ細やかに決められている訳であるが、人員の不足によりそれは紙の上で踊っているだけの存在に過ぎず、結局はそれらの仕事は全員でやるということになっている。誰がどの部署担当なのかも決められていない。
 そういう訳で、基本的には[作戦部]の仕事である新沢中学校への現地調査も全員で行なうこととなった。
 酉原高校の西、一駅となりの町に新沢中学校はあった。
 新沢中学校は約半世紀前、一九九〇年代に造られたという古い学校だった。それでも手入れはきちんとされているらしく、そこには綺麗な校舎がそびえていた。
 グラウンドには部活に勤しむ生徒たちが走り廻っており、時折金属製バットが硬球のボールを叩く音が聞こえてくる。校門のほぼ隣にある農地には色々な作物が植えられている。フェンスに巻付いているカボチャのツルがわりと印象的。
 大きめの体育館とプールも備えている。プールの大きさは多分、二五メートル……酉原高校のほうが少し大きいかな?(酉原高校は戦後に建てられた学校のため、水の確保の名目もあってプールは大きく造られたのだ。学校の敷地自体もわりと大きい)
 L型の本校舎は四階建て。その向こうには古い三階建ての校舎が二棟ある。目的地はその一番奥の校舎の三階だ。
 で。
「これより敷地内に潜入する。各自、ルートは頭の中に叩き込んであるな? 目標、家庭科準備室。目標地点に着いたら鍵を二〇秒で解錠、侵入。誰にも見られることなく部屋に入ったら、三〇分間は安全だ。質問は?」
 全体的に黒い服を着た林原の問いに、俊樹が苦笑しつつ包帯の巻かれた手を上げた。俊樹は緑のチェックの長袖の上着と、紺色の長ズボンという服を着ている。
「……第三次世界大戦中の特殊部隊ですか、オカルト総合部は」
 何を今さら、とでも言いたげなように林原が鼻を鳴らす。
「こんなの序の口だ。大抵の場所では我々を受け入れてくれることはないのでな。ならば、潜入するしかあるまい。他には?」
 林原がオカルト総合部の面々を見回す。と、茶色の長袖上着に灰色の長ズボンの河村が手を上げた。
「“当たり”だった場合は?」
「その時は全力で脱出。確実な対抗手段が確立されていない以上は戦うことは出来ん。一応武器はあるが有効かどうかは判らん。あとはお前ががんばってくれ」
 林原が答えると、河村が頭をポリポリと掻いて竹刀袋のようなものをかちゃりと揺らした。瑠華が見るところによれば、竹刀袋の中味はどうやら木刀のようである。しかし、ただの木刀ではない。
 林原や河村が知っているかどうかは知らないが、それには《光》系の力の込められたものだった。多分、《光》の力の溜まる場所――神社の神木などから削りだしたものなのだろう。ただの一般人が使ってもそれなりの効果はある。さらに《光》の力を上乗せすることで、《闇》には十分な攻撃力を持つ武器となるはずだ。
 瑠華はふと自分の隣にいる俊樹の方を見た。俊樹は校舎の方に目を向けている。
「よし、行くぞ」
 林原が重そうな黒いリュックを背負って校門を潜っていく。瑠華たちもその後ろをついて行く。
 すでに六時を回っているこの時間帯では、学校には部活動をしている生徒以外はほとんど残っていない様だ。職員室等の教職員のいるポイントは避け、校舎の外を人影に注意しながら進む。前回の調査でこの学校からパクった避難経路図を元にルートを考えてあるので、迷うこともなく人のいそうなポイントを避けることが出来る。泥棒は犯罪ですと言いたいところだが、それは置いておこう。
 見知らぬ学校の中を無断で歩き廻るというのはものすごく緊張する、と思っているのは河村だけだったりする。河村がそれとわかるほどに緊張をみなぎらせているのに対し、林原はむしろ興奮しているし、俊樹と瑠華は緊張も興奮も不安も見えない無表情。慣れている、という感じだ。
 四人で歩いているのだが、二、三回歩いてくる生徒を物陰に隠れてやり過ごすだけで難無く家庭準備室のある校舎に到着、侵入した。
 校舎内には人はいなかった。林原はそれを見てにやりとしたが、瑠華は警戒の色を強めた。俊樹の方を見ると俊樹も少し緊張した面持ちで廊下の向こうを見ている。
 《闇》の気配。それが校舎の中に漂っている。
 人がいないのではない。
 人が追い出されたのだ。
 《闇》の気配は人に孤独感、嫌悪感、不安感――おおよその“不快感”を与える。だから、《闇》の気配のする場所に入り込んだ大抵の人間は本能的にその場からいなくなってしまう。
 人のいない場所に魔物は巣くっている。不自然に人のいない場所は、危険なのだ。
 そして、そのテリトリーの中に今、ただの人間が二人いる。

 一般人を巻き込み、《リベル》の動向を見定めよ。

 それが上官からの命令だった。“組織”側からの援助もほとんどない。武器の調達が遅れているらしいが……。
 つまり“組織”は俊樹の情報を集めるためならば、一般人の危険をも顧みない、死傷者を出しても構わないと言ったのだ。
 瑠華は反対することが出来なかった。瑠華個人としては、一般人は強制排除してでも危険にはさらさないほうがいいと思っていた。しかし、瑠華のランクは下位。中位の上官には逆らうことは出来ない。たとえ、その上官が何の力も持っていないただの“人間”であったとしても、瑠華は逆らうことはできない。
 その事に関して、瑠華は俊樹には一言も伝えていない。
 その事に関して、瑠華は俊樹に一言でも伝える事は許されない。
 瑠華は俊樹の監視者であり、仲間や友達ではないのだ。“組織”に逆らうようなことがあれば、瑠華は間違いなく殺される。
 しかし、現在の行動は“《リベル》の監視”の枠を完全に超えている。一般人を巻き込んで、それを護るだけの力量は瑠華にはない。武器もなく誰かを護りつつ戦闘、なんていうのはやったことがないのだ。
 俊樹が傍にいるとはいえ、《リベル》なんかと手を組んで事に当たるなんて事はあってはならないことのはずだ。“組織”は進んでそれをやれ、と言うのか?

 なぜ……?

 そうこう考えているうちに、瑠華たちは目的地についた。
 家庭科準備室。
 なぜかすでに扉は開いていた。中を覗き込むとそこには誰も居らず、夕日に照らされたその部屋からはまがまがしい空気が漏れていた。河村がごくりと唾を飲む。
「なんで、扉はすでに開いていたんでしょうか?」
 河村が用意してきたのに使わなかったピッキング道具をしまいながら、少し小さな声で林原に聞く。林原は少し考えて、
「開いてたから開いてたんだろう」
 と軽く言った。河村はもう少しましな回答が欲しかったのだろうが、もうその事については何も言わなかった。
 普通、こういう部屋は常時鍵が閉められているはずだ。なのに、なぜ開いているのか。
「考えていても仕方ない。鏡はどこだ?」
「あ、あれ、ですか……ね」
 林原の言葉に、河村が弱々しくそれを指差した。
 赤い布で覆われた長方形の物体がある。なんだか触れてはいけないもののような、不気味な雰囲気をそれは放っていた。辺りには妙な臭いが温度の低い空気の中を漂っている。錆びた鉄と泥、すり潰した青草の臭いが混ざっているような、そんな臭い。
 河村はすでに及び腰になっており、林原は夕日の光の中にたたずむそれを凝視している。
 瑠華にはそれが《闇》の波動を放っていることが判った。ここまで近づけば判る。かなり強い《闇》が放っている波動だ。皮膚がじわじわと切られているような感じがする。
 ……中クラス?
 確か、俊樹は屋上でここにいる《闇》を中クラスだと言っていた。
 とんでもない!
 これは、かなりの力を持った《闇》の波動だ。瑠華も何回か戦ったことがある。ただし、あの時は仲間がいた。それでも、斃す(たおす)のに苦労したのに。
 俊樹の計り間違い?
 瑠華は俊樹の方をちらりと見た。俊樹は無表情で鏡の方を見ている。
 彼からはそんなに強い《闇》の波動は感じられない。かなり傍まで近寄らないと判らないほどに彼の放っている《闇》の波動は弱いのだ。
 ――俊樹は常に力を抑えている。強い《闇》の波動が漏れることは他人を傍に近寄らせないことの原因になる。俊樹は孤独を嫌っている。なら、俊樹は《闇》をできる限り抑え、ただの“人間”として生活するしかない。本当は、ここにいる《闇》がおよびもしないほどに強いのかもしれない。
 私はとんでもない怪物の傍にいる、という事なの?
「さて、その姿を拝ませてもらうか」
「ちょ! 健特殊長! これマジでヤバいですって! 全然ヤオイじゃないですよ!」
「何を言っとる直純特殊員。ヤマなしオチなしイミなしの怪談にわざわざ足を運ぶはずがなかろう」
 そう言う間に林原は赤い布を引き剥がした。
 大きな立て鏡がそこにあった。夕日の光が鏡に反射されている。
「あ、しまった」
 突然、林原がつぶやいた。
「確か、悪魔は女子が好みなんだったな。瑠華特殊員は大丈夫かね?」
 そう言って林原が振り返って見ると――

 深緑の面白みのない長袖長ズボンの服装をした瑠華の姿がなかった。
 ついでに、河村の姿もなかった。

「な……!?」
 林原はつぶやいたと同時に、鏡の方へと振り返った。
 鏡には瑠華と河村が映っていた。
「本物だったか……!」
 林原がうめく。すぐさま鏡に近づいて鏡をこんこんと叩くが、入れそうにもない。
 鏡の中の二人はすぐに自らの身に起こったことに気がついたようだった。
 そして。
 瑠華が何かに気がつき、河村を引っぱって部屋を出ていく?
 ともかく、とんでもない行動力だ。これはまた素晴らしい部員を手に入れたものだ、と林原が喜びに浸っていると、後ろから声が投げかけられた。
「健特殊長。“当たり”の場合は全力で脱出、でしたよね。どうしますか?」
 俊樹が全く動揺を見せない声で林原に聞いた。
「――救出できるものなら救出するがな。特殊員が二人も巻き込まれて俺だけ逃げる訳にはいかん。しかし、どうして直純特殊員まで? 男なのに」
 林原は首を傾げたが、すぐに保留にした。推測するにしても材料が少なすぎる。
「さて、どうしたものか」
「逃げないんですね?」
 念を押すかのように俊樹は林原に聞いた。林原はああ、と頷いた。そして林原は俊樹の方を見て、
「俊樹特殊員は逃げてもいいぞ」
「いいえ。僕はこれからRWに入って瑠華と直純先輩と、あと何人かを助けてきます」
「――ふむ。俊樹特殊員は、鏡の向こうに行けるのだな」
 林原は全く動じていなかった。まるですでに分かっていたかのようだ。俊樹はそんな林原の姿を見て、無性に嬉しくなった。やっぱりすごい人だ。
「ええ。もし健特殊長も来るのでしたら、健特殊長にはやって欲しいことがあります」
「あとで、この鏡の世界の事と水について教えてくれれば受けてやってもいいぞ」
 俊樹は面白そうに少し笑った。
「けっこう欲張りですね」
「確かにそのRWとやらに入れるだけでも“元”は取れるがな。チャンスは無駄なく有効に使わないとな」
 林原は不敵に、愉快そうに笑った。俊樹も釣られたように微笑を浮かべる。
「いいでしょう」
「わかった。俺は何をすればいい?」
 その時。

 たん、と廊下に足音が響いた。

「健特殊長、知ってますか?」
 俊樹の声が部屋に広がる。
「人間って、“影”なんですよ」