手の内からこぼれる世界


第二章 青空の下で

 想像――知識のかけらでは表現し尽くすことのできない、無邪気な精神。

 1

「俊樹様、朝ですよ。起きてください」
「……」
「俊樹様、朝ですよ。起きてください」
「……」
「俊樹様、朝ですよ。起きてください」
「……今何度〜?」
 ようやくベッドの布団の下から返事が返ってきた。その姿は布に包まれた毛虫に等しい。微笑ましい半分、情けない半分の姿であった。
 長髪を黄色のスカーフを使って結い上げて垂らしている、若草色の清楚な感じのする上着とロングスカートを着た二〇代後半の女性が、部屋の文庫本がつまっている本棚の上に置かれた温度計を見る。明け方なのでまだ気温は低い。
「二一度です」
「ゴメン、間違えた〜。今何時〜?」
 毛虫の間延びした声を聞いて、女の人がベッドのすぐ横にある窓のカーテンを開けた。清々しい青空の見える快晴の天気。今日も一日、がんばろう! とのさわやかな男性の声が聞こえてきそうでもある。ラジオ体操が似合いそうな暖かな日差しが差し込む。
 なのに毛虫は起きようという気配を見せない。気持ちは解らなくもないけれど。
 窓の前の台の上に黒猫の目覚まし時計がある。目覚まし機能はオフにされていた。七時頃に一度、『ニャハハハ起きろ! ニャハ』という声がかすかに聞こえた。多分、そこでオフにされたのであろう。
「七時一五分です」
「……まだ平気だよ〜」
「もう朝食できてます」
「昨日寝たの、三時だったんだからさ〜」
「四時間一五分も寝ておられます」
「人間、七時間は睡眠が必要なのよ〜ん?」
「平気です」
「今ね〜なんかどっかで見たラスボスを蹴ってる夢を見てたんだ〜。今すぐ寝れば、」
「見れません」
「うふふ、真(さな)ちゃん可愛い〜」
「どうも」
「だから」
「起きなさい」
「……わかりました」
 会話しているうちに目が覚めたので(決して命令口調に屈した訳ではない)、俊樹はベッドの掛け布団を退けてベッドから降りた。
「寝るときは服をもっと身体のリラックスできる服に着替えてください」
「まあそう言わず」
 俊樹は普通の紺のズボンと緑のTシャツの服装だった。ズボンにはベルトが付けられたままで、しかも緩められていない。昨日、瑠華が帰ったあと学校の制服から私服に着替え、その普通の私服のままで寝たらしい。
 本人いわく、「別に汚れてないし」。確かにそうなのではあるが、身体の疲れは取れそうにない。シーツが汚れるとかそういう問題ではないのだ。
「制服に着替えて、朝食を食べて下さい」
「りょーかい」
 真は俊樹の返事を最後まで聞いて、それからドアを開けて居間に出ていった。俊樹はきっちりとアイロンのかけられた白いワイシャツ、深緑のスラックスの制服に着替え、深緑のブレザーはすぐには着ないで、先にブレザーのポケットにハンカチとティッシュを入れ、充電しておいたパッケージウォークマンの中身をチェックして左内ポケットに入れ、財布を右内ポケットに入れる。あとは深紫のネクタイを締めれば準備は整う。さらにトイレに行って顔を洗い歯を磨けばばっちりだ。
 教科書等の入った鞄を確認する。まだ入学してから二ヵ月ちょいしか経っていないので、まだ授業は時間割り表で確認しなくてはならない。まあ教科書はすでに昨日の夜に準備しておいたから問題ない……あ、今日体育があった。体操服がいるな。
 タンスからこれまたきっちりとアイロンが当てられて折り畳まれている、胸に名前が赤文字で刺繍された白い上着と紫のハーフズボンの体操服を取りだし、鞄に詰め込む。これで準備よし。
 俊樹はまだぼんやりとしている部分を残した頭をこんこんと叩いて、ドアの前でう〜と背伸びをして、ついでだから床に座ってストレッチをして、それから居間へと出た。
 居間の食卓にはパンを基本にして、目玉焼きとサラダといれたてのコーヒーが綺麗に並べられていた。コーヒーの匂いが俊樹の鼻孔をくすぐる。毎朝嗅いでいる朝の匂い。ああ幸せ。こんなに幸せでいいのかしらん。
 食卓の向かいには真が行儀よく背筋を伸ばして座っている。まるで俊樹のお姉さんのようにふるまっている彼女は、俊樹とは血の繋がりは全くない。
 それなのに実の家族のように俊樹の世話をしてくれている。ありがたいことではある。けれども、あまりに頼ってしまうと俊樹自身に自活力がなくなる危険があるため、俊樹もたまには料理とかミシンの使い方だとか、家事全般について教えてもらっている。
 しかし、大部分は彼女が一人でやってしまう。彼女がやりたいと言うのだから仕方ないけどね。

 それともう一人。

 小学生ぐらいの青の長袖とベージュのハーフズボンの少年が、ちょこんと真の横の席に座っている。
「おはよー! 俊樹兄ちゃん!」
「ああ、おはよう、元幸(もとゆき)」
 元気よく、元幸が挨拶した。こちらも俊樹とは血は全く繋がっていない。しかし、実の兄のように俊樹を慕っている。
 こちらも俊樹としてはありがたい。彼は真の様に家事などをする訳ではないが、俊樹の大事な遊び相手でもある。一緒にいると楽しい、そんな“人間”なのだ。
 俊樹は彼女達が見ている前で椅子に座ってパンを取り、ブルーベリージャムを塗って食べ始める。そうするうちにケルがキッチンの向こうから現われた。たたた、と小走りして俊樹の足元に座った。
「で、どうだった? 昨日の夜は」
 俊樹がパンを食べつつ、ケルをなでつつ真に聞いた。
「はい。四人の方と二匹の猫様と五匹の犬様の昇華に成功しました」
 そっか、と俊樹は頷いた。
「元幸達のほうは?」
「MWにいた人、六人の人達を助けたよ! そのうち、引き込まれたって言ってた人が五人」
 俊樹がパンを食べ終え、フォークを手に取る。
「……増えてるな」
「そうだね」
「そうですね」
 真も頷く。俊樹が目玉焼きを白身の部分と黄身の部分を分け、白身の方から食べ始める。
 目玉焼きの黄身の部分も食べ終え、俊樹はケルのほうを見た。
「昨日の“発散”についての情報はなんかある?」
『はい。昨日の夕方にあった“発散”は新沢(にいざわ)中学校からのもので、純粋な《闇》のものでした。レベルは中クラスのようです』
 ケルが日本語をしゃべった。ただし、ケルは俊樹を見ているだけで口も喉も動かしてはいない。
 《光》、《闇》の力に突出した者の間でのみ成立する一種のテレパシー。俊樹たちはST(Sympathetic Telepathy 共鳴念話)と呼んでいる。
 ケル自身には人間の言葉をうまくしゃべるための声帯がない。だからSTを使っている。
「……あれの他には?」
『今のところはありません』
 俊樹はコーヒーを飲んでよし、と頷いた。
「じゃあ今日学校が終わったらすぐに新沢中学校に向かうぞ。みんなにも伝えておいてくれ」
『了解』
 ケルが返事をする。俊樹は首を縦にゆっくり振って頷いた。そして、サラダを片付けにかかる。
 サラダが初めの四分の一ぐらいになった時、俊樹はふと気がついたように真に尋ねた。
「ところで、新沢中学校ってどこにあるんだっけ?」
 真が静かに席を立って地図を取りに行き、元幸が小声で「かっこわる」とつぶやいたが、俊樹は聞こえないふりをしてサラダのほうに戻った。

   ▲ ▽ ▲


 八時一五分。俊樹は四階の自宅から一階へと降りて、マンションの玄関の集合ポストから新聞を取り出して今日のお天気様のご機嫌を伺う。晴れ晴れ晴れ、降水確率〇パーセント。機嫌も体調もばっちりのご様子だ。
 第一面の記事を読むと、どっかの有名会社の汚職や賄賂騒ぎの記事が載っていた。まあ、それはどうでもいいや。
 次に地域情報の記事の面を開ける。自分の住む県内で起こった事件などの記事が書かれている面だ。記事の頭だけをさらさらと読んでいって、一つの記事に釘付けになった。
 昨日、この近くの小、中、高校に不審な学生の二人組が入り込んでいたらしい。どんなヤツなのだろうか。全く知らない人であって欲しい。心当たりがものすごくあるのだけど、知らない人であって欲しい。
 なんという気もなくため息をついて、新聞を鞄に入れる。
 ちらりとマンションの玄関のほうを見やった。玄関のほうには今のところ、視界内には人はいない。
 つかつかと歩いてマンションの玄関の扉を開けて、
「おはよう。お務めご苦労さん。じゃあ行こうか」
 俊樹は玄関からは死角になっている場所の壁に軽くもたれて立っている、目の覚めるような美少女に挨拶した。
 まさかいきなりばれるとは思っていなかったのだろう、少しびくっとしたあとに体面を取り繕って、
「……馴れ馴れしく声をかけないで」
 瑠華は冷たく答えた。しかし、全てお見通しの俊樹にはその瑠華の肩肘張った態度はなんだか笑えた。
 その態度が瑠華には気に喰わなかったのだろう、瑠華は少しむすっとした様子で俊樹を睨んでいる。俊樹は少し笑ったまま、文句を言われる前に歩き出した。後ろから瑠華が小走りに追いかけてきて俊樹の横に並んで歩き出す。
「気配を消しても《光》の波動を消さないとわかっちゃうんだよ。肩の力を抜けって言っただろ?」
「――その言葉に従う義理はないわよ」
 ふふ、と俊樹は鼻で笑う。
 俊樹の家から酉原高校まではそんなに遠く離れていない。歩きで一五分というところ。酉原高校は自転車通学が認められているので自転車に乗って行ってもいいのだが、俊樹は速攻で自転車通学の許可申込書をリサイクルボックスに投げ入れた。
 自転車を持っていないというのもあるが、俊樹は自転車で走るよりも周りの景色を見ながらゆっくり歩く方が好きだった。大体、たかだか徒歩で一五分の距離を自転車なんかに乗ってなんかいられない。ついでに、徒歩のほうが放課後の行動範囲が広がるし。
 自転車駐輪場で料金を支払う必要もないし、緊急車両の通行妨害になることもないし、駐輪禁止の場所に自転車を止めておじさんに怒られることもない。健康にもいいし、買い食いのときにも困らない。抜け道を使うときにも困らない。壊れる心配すらしなくていい。形無きもの壊れるはずなし、だね。
 お金には全く困ってないので、自転車ぐらい簡単に買える。しかし、先の理由で俊樹は自転車を買おうと思ったことはない。というか、最近の若者は軟弱すぎる! もう少し運動しろよ、一時間歩き廻るだけでいいから。
 ……まあ、『お前なんかと一緒にするな!』と言われそうなので、それは心の中にとどめておくことにしよう。
「それにしてもさ、毎朝一緒に登校するつもりか?」
「もちろんよ。私はあなたの監視をしていることを忘れないで」
 う〜ん、彼女らしい率直な理由だなぁ〜。監視のためならどこまでもついて来る気じゃないだろうな……、と考えて、俊樹は苦笑した。
 先に言えば、この予感は今日中に当たることになる。ただし、俊樹は頭を抱えることになる。が、今の俊樹がその事を知るはずもない。
「……別にいいけどね。気を付けろよ」
「――どういう意味?」
「すぐに解るよ」
 そのあとは会話らしい会話もなく、ほぼ無言で二人は歩いた。
 一〇分ほど歩くと、ちらほらと酉原高校の制服の生徒を見かけるようになった。そして、ほとんどの生徒が一度ならず二度でも三度でもこちらを見る。
 瑠華の美貌を目のあたりにして。
 この世のものとは思えないような、非現実的な美少女が歩いているのだ。歩いているうちに周りの人口密度が高くなっても仕方ないと言うもの。
 瑠華の繊細で美しい黒髪が風になびく。それだけで周りのボルテージが上昇していることは間違いない。
 人々が振り向く度に俊樹の気はどんどんと重くなる。いっそのことサボったほうがいいかもしれない。命に関わる。しかし、そんなことで逃げ出しては駄目だ。人間、立ち向かわねばならないときがあるのである。
 そんな雰囲気を察したのか、瑠華は怪訝そうな表情でこちらを見ている。けれど、何も聞こうとはしなかった。すぐに解る、と言われたからであろうか。逃げられても捕まえる自信があるからだろうか。
 瑠華は日本の高校生についての認識、多分十分じゃないだろうなぁ……。
 すぐにその考えは正しかった、と証明されることになるが、今はそんなことは予想の一つとしてしか思い浮かばずに俊樹と瑠華は酉原高校についた。
 俊樹の顔が一瞬、少し引きつった。
 校門には生徒の人だかりができ上がっていた。男子が多いが女子も多い。同じクラスのヤツが多いが、ほかのクラスのヤツも多いようだし、他の学年の生徒もちらほらといる。噂を聞いて見に来たのだろう。ずいぶんと堂々としている。
 人だかりができる理由はもう明白。みんな、瑠華を見るために集まっているのだ。
 おそらくは酉原高校で一、二を争うほどの美貌の持ち主だ、瑠華は。だからと言って朝っぱらから集まることもなかろうに……という俊樹の考えは全く通用しないらしい。ただ、かなり怖いな〜と思うばかりである。
 瑠華は瑠華で、なぜこんな人だかりができている理由を全く理解できずにいた。人だかりは好奇の視線を自分に向けている。一人一人が自分を見ている。その視線には恐れというものはなさそうだった。つまり、人々は瑠華が化け物であるということをまだ知らないのだ。では、なぜ人々は瑠華を見ているのか? それが解らない。
 俊樹は瑠華の少し前を歩いていたが、見た目は平然とした表情で周りの人を観察していた。なんか手紙らしきものをもっている人が結構いる。
 おそるべし日本の高校生。
 瑠華が転入したのは昨日の午後からなのだから、実質通ったのは俊樹との屋上での出来事を除くと三時間程度だ。それだけでは人柄などもさっぱりだろうに手紙を書くことができるとは。彼等の脳内では一体どのような瑠華の姿が描かれたのであろう。ひったくって読んでみたい。いや、この調子なら瑠華の下駄箱にすでに何通か入れられていると思う。読ませてもらおう。いやしかし、それは無粋か……? やっぱやめとくか。
 人だかりに近づくにつれ、予想していたように敵意ある視線が俊樹に向けられてくる。それ自体は別に大した事はないのだが、暴動など起こされたらたまったものではない。今はまた学校の敷地内には入っていないから脱出することは容易だ。しかし、あの人だかりを越えてしまえばあとはどうなることやら。
 顔に出してはまずいので、俊樹は心の中で笑った。
 いい。ものすごいスリルだ。普通の生活の中では感じられない、いつものとはまた別味の恐怖がそこにある。そう、恐怖。しかし、恐怖を楽しめばそれはスリルとなってジェットコースター顔負けの娯楽となりうる。
 俊樹たちは左右に分かれた人だかりの挟間を歩いた。まるでパレードのように、マラソンのように道の左右に人がいてこちらを見ている。瑠華には愛と羨望と悔しさの視線を、俊樹には唾とブーイングと殺意のテレパシーを人だかりはぶつけてくる。
 テレパシーを使うことができるとは……おそるべし日本の高校生。
 ようやく昇降口にたどり着いた。瑠華が自分の下駄箱をあけると、封筒に入った手紙が三通置かれていた。それを取り出して処理に困ったような顔で俊樹を見た。
「な? 気をつけろって言っただろ。明日になったら多分、もっとたくさん来るぞ」
「……」
「呆然としてないで、すぐに手紙を鞄にしまうとか、そういう事ができる様に事前に気をつければいいんだ。それだけで十分。手紙は一応、読んであげろよ。捨てる場合はリサイクルボックスへ。貴重な資源はリサイクル。できれば空き缶などもちゃんと専用のごみ箱へ。煙草のぽい捨てはやめましょう。それだけで人間は救われる」
 手短に俊樹は告げると、上履きを履き替えて人だかりを掻き分けて教室に向かった。瑠華は無言で手紙を鞄に押し込み、左右に分かれた人だかりの中を歩いて俊樹を追いかけた。
 今日はスリルにあふれた一日になりそうだった。