手の内からこぼれる世界


 2

「走りなさい!」
「な、何が起こった――」
「質問はあと!」
 瑠華と河村は校舎の中を走っていた。
 その校舎は新沢中学校のものであり、新沢中学校のものではなかった。
 全てが左右逆向き。廊下も、校舎の向きも、掲示板のチラシも何もかもが逆向きだった。
 逆だった。
 逆だった。
 逆だった。
 これが“鏡の世界”――。しかし、そこは“鏡の世界”と言うには不完全だった。
 空には青さがなく、赤く燃えるような雲が立ち昇っていた。今のところ、そのぐらいしか判らない。
「どこに向かってるんですか!?」
「逃げているのよ!」
 《闇》が瑠華たちを取り込んだというならば、入り口の近くに《闇》がいたはず。しかし、こちらは戦う体勢が整っていない。ならば逃げるしかないと瑠華は即座に判断したのだ。
 廊下に瑠華と河村の乾いた足音が響く。隣の校舎に入り、三階から二階へと降りて、渡り廊下を走る。次の校舎、本校舎の廊下を走って次の階段を屋上まで一気に駆け昇る。そして、河村が疲れて階段を上がりきれず、見えないことをいいことに瑠華は屋上への非常口を力任せに壊して屋上へと出た。
 瑠華はまだ走れたが、河村のほうは限界のようだった。ただ闇雲に走ってしまったが、四階建ての本校舎の屋上ならば一撃死の不意打ちは回避できるだろう。逃げ道は今出てきた扉以外に避難梯子がある。
 瑠華は一息付いて屋上の柵に近寄って、周りの景色を見た。
 そこには、異世界が広がっていた。学校の敷地の外には紫の霧のような何かが満遍なく立ち込めており、そこから赤い炎のような気体が空へと立ち昇っている。
 荒唐無稽な光景だった。全くの“でたらめ”。ただ、ここが元いた世界ではないことだけを確実に示しているものだった。
「こ、ここは……!」
 河村が驚愕に震えた声を出して、その光景を見ていた。まるで悪夢の世界。全ては左右が逆になっていて、人がいる気配もない。
 そこには臭いが漂っていた。錆びた鉄と泥と青草の臭い……。そして。

 影が、赤い。

 全てのもの、自分たちからも伸びている影が赤かった。なぜ赤いのか、全く判らない。何の意味があって赤いのか。赤……紅?

 紅い光を美しいと思うかい?

 不意に、俊樹の言葉が頭に響いた。昨日、俊樹が学校の屋上で瑠華に言った言葉。
 あれは、このことだったの?
 いや、違う。これの事ではない。これは影であって光じゃない。
 瑠華は少し頭を振って“この世界では影が赤い”ということを理解しきると、自分の体がわずかに震えていることに気が付いた。ここの空気は肌寒い。だから、ではないことは解っていた。
 自分は、怯えている。ここに呑み込まれてしまったことに。
 体にはまるで刃物で軽く切られるかのような痛みが走り続けていた。それが、この世界にいる《闇》の波動の感触。気を抜けば、そのまま体が切り刻まれてしまうのではないかと恐怖に駆られてしまう。

 君は《闇》に呑み込まれて、還れなくなる事を恐れている。

 初めて俊樹に接触したときの会話が呼び起こされる。俊樹には解っていたのだ。私のことを。私自身も気が付いてなかったことを。
 瑠華は無性に悔しくなった。俊樹はこちらの事がわかったのに、私は俊樹の事が解らない。知らない。
 ――もっと知りたい。俊樹が何を考えているのかを。
 けれども、俊樹はこの場にはいない。
「ここは、どこなんです……か……?」
 河村が情けない顔で口の奥からひねり出すような声でつぶやいた。
「RW……」
 瑠華はつぶやいていた。それは河村に言うためではなく、自分に言い聞かせることが目的だった。ここがどこなのか、少しでも判っていれば安心できる。
「……RW?」
 河村が聞き返した。
「Reproduced World――“複製世界”」
 俊樹の家から集合場所に行くまでの間に俊樹から聞いた言葉を、瑠華はただ繰り返していた。
 RW。MW(Mirror World)――“鏡裏世界(きょうりせかい)”の一つ。
 瑠華はほんの四時間前までは、このような世界のことをほとんど知らなかった。俊樹からその存在を思い出し、上官の富山から具体的な説明を受けた。

「我々はFake World(模造世界)と呼んでいますが、まあ同じものです。
 これは《闇》がその力によって独自に造る世界の事で、造られる世界の大きさは《闇》の力量によります。“鏡”を入り口としているため、分類上は鏡裏世界の一つとなっていますが、模造世界は鏡裏世界の法則に従っていません。“変更”が可能なのですよ。
 鏡裏世界は私たちが生きる“元の世界”を忠実に再現しています。ですから、物を壊したり移動させたりという変更は一切できません。それは前にも話していましたね。模造世界ではそれが可能なのです。
 鏡裏世界では出入り口は多数あります。しかし、模造世界では出入り口は一つしかありません。出入り口は《闇》の力によって護られているので、普通の物理力で壊れることはありません。ですから、我々は《光》の力を使って鏡を破壊します。出入り口が無くなってしまえば、おそらくは出て来ることはできないでしょうからね」
 そこで、富山は説明を終えた。最後に、瑠華は質問をした。
「なぜ、今まで私……“私たち”に情報が来なかったのですか?」
「必要なかったからですよ。あなたたちはMWの存在は知らなくてもよかった」
 笑顔のまま、富山は答えた。
「さぁ、そろそろ昼休みの終わる時間です。《リベル》の監視の任務に戻ってください」
「……」
 少し瑠華は富山の方を見て、無言で富山のいる部屋をあとにした。

 訓練のときにも、そういうものがあるという話は聞いていた。しかし、実際にそこへ行くこともなく、いつしかその存在は記憶の片隅へと押しやられて忘れられていた。
 そういえば、訓練場などでは鏡を見たことはほとんどなかった。あの時はそんなものは必要なかったから意識には昇らなかった。しかし、今思えば少しおかしい? なぜだろう?
 “鏡裏世界”が関係している任務は全て中位官の任務として当てられ、下位官である瑠華や仲間には話すらも振られたことはない。まるで、瑠華たちを鏡に近付けることを拒んでいるかのようだった。なぜだろう?
 ……鏡には何かある……?
 この世界の事もその一つなのだろうか。この、左右の入れ替わった世界が、何か鍵を握っているのだろうか……。
 後ろから深呼吸する音が聞こえた。振り向くと、そこでは河村が腕を広げて深呼吸していた。
 河村は閉じていた目を開き、そこに瑠華の視線を認めて照れ臭そうに手を振った。
「あ、すいません。混乱したときは深呼吸をして落ち着くようにと言われてきましたので……」
 さっきまでの頼りない気弱な声ではなく、いくらか落ち着いた声で河村は答えた。それから床に置いていた竹刀袋を手にとり、中から一本の綺麗な艶のある木刀を取り出した。
 河村がすっと目を細める。木刀は少し白っぽく光っていた。
 それは木刀に宿る《光》の力が強くなった訳ではない。《闇》のテリトリーに持ち込んだことで、くっきりと見える様になっただけだ。
 けれども、その光は見る物に微かな安堵を与えるものだった。河村はその光っている木刀を見て少し驚いたあと、少し安心したかのように一回軽く縦に木刀を振り降ろした。
「さて……これからどうしましょう?」
 河村の声には安心感と自信が覗いている。自分を護る“武器”を持って、希望を持ったのだろう。
「……あなたは、この世界を認めているのね」
 瑠華の平坦なる口調の言葉に河村は少し苦笑した。
「……僕の家は代々神社の神主をしてきました。元はかなり大きい家だったようです。大きかった理由は、」
 河村は少し言葉を区切った。そして、一気に言う。
「妖怪、化け物退治をする家系だったからです」
 瑠華は黙って聞いている。河村は目を閉じ、軽くため息を付いた。
「ま、今では妖怪退治などの話は全く来ませんけど……僕もお父さんも妖怪なんて見たことありませんし。もう、妖怪はそんなには残っていないのかもしれませんね。けれど、僕の家ではなお妖怪退治のための訓練とかはされているんです。ま、その事を健特殊長に知られてオカルト総合部に入らされたんですが」
 当時のことを懐かしむように河村は少し笑った。
「そんな訳で安心してください。今回の化け物が何なのか、正体は判りませんが……僕にだって、やれることがありますよ」
 まるで瑠華を安心させようとしているかのようだった。けれども瑠華は決して感情を表には出さず、状況を分析していた。
 彼は、私が化け物であることを知らない。彼は私は巻き込まれたただの人間だと思っている。だから、私を護ろうというのだ。

 ……馬鹿馬鹿しい。

 瑠華は少しうつむきながら首を横に振って、抑揚なく答えた。
「私は、あなたに護ってもらう必要はありません」
 なぜならば――自分は化け物だから。河村が持っている“武器”を持たずとも、敵と戦えるだけの力を持っているから。
 力に関しては、自分の方が河村よりも強い。それなのに何の力もない一般人に護ってもらう? 私は人間じゃない。力がある。それなのに人に護ってもらうなんて馬鹿らしいにもほどがある。
 河村は少し驚いたような表情を見せた。そして、少し考えるかのように口を閉じ、そして、
「……そうですね。僕はあなたを護る必要はありませんでしたね」
 瑠華の顔にわずかな動揺が走った。
 彼は……私が人間ではないことを知っている?
 それは瑠華の心の奥にある、化け物と呼ばれることへの拒絶から来る“悲しみ”だったのだが、すぐには瑠華は自分の心に走った感情を理解できなかった。
「契約の詩(うた)、覚えていますか?」
 一時間前に河村が詠ったあの詩。今でも朧ろげながらではあるが覚えている。
「契約の詩の第九節、“汝も我らと等しく自らを自らで護り給え”……」
 河村が、今度は詠うことなく、ただの言葉として契約の詩の一節を繰り返す。
 瑠華は河村の言おうとしていることがすぐに解った。
 自分の身は、自分で護れ。
 そう言っているのだ。他人を頼るな、とそう言っているのだ。
 瑠華は黙って頷いた。言われるまでもないことだ。河村も頷く。
「と、いう訳で酷いかもしれませんが、僕はあなたを護りません。けれど、」
 河村が少し笑った。
「“協力”、はしましょう。……僕は瑠華さんに対してできる限りの“協力”をしますから、あなたも僕に“協力”してください」
 ……つまり、護りはしないが助けることはする、と言っているのだ。そうすれば契約にも違える(たがえる)ことはない。
 ……状況を整理すると、瑠華は河村を護らなくてはならない。彼も武器を持っているとはいえ、(おそらくは剣術なども体得しているだろうが)まともに戦ったことのないただの一般人だ。この世界を創った《闇》と戦うなんて、小学生が何も持たずに重装備のラカス(人型の局地戦闘用武装システム。全高九メートル)と戦うようなもの。潔く足の裏の泥と化すしかない。
「とりあえず、俊樹と合流しないと……」
 俊樹もこの世界に来ているはずだ。《リベル》たる彼なら、ここに《闇》がいるというのが判っていて見過ごすことはないはずだ。
 見捨てたりはしない……はずだ。
「そう……です、ね」
 なぜか、少しがっくりしたような声で河村は返事した。瑠華は少しいぶかしく思ったが、すぐに興味を無くした。
 瑠華はこの先の行動に考えを巡らた。目的なく行動するのは危険であり、気力の低下も懸念される。河村が瑠華の様に、もしくは俊樹の様に場馴れしているならばそうした行動もありだとは思うが、彼は言っていた。
 戦ったことはない、と。
 訓練と実戦ではかなり差がある。訓練では兵士はできるかぎり死なないように鍛えられる。訓練で死者を出して戦力を減らすことは避けたいからだ。
 しかし実戦ではそんな配慮は一切ない。弱い奴は死ぬ。強い者だけが生き延びる。
 訓練では“死なない”という甘えがどうしても出るのだ。“リタイア”だってある。だから、実戦を知らない者にとって訓練と実戦とは、夢と現実ぐらいの差があるものなのだ。
 訓練だけでは無駄。実戦をしないといけないのだ。そう、“殺し合い”を。
 それをしたことのない河村は戦力になるとは言い難い。精神面でも強いとは言えない。
 だから、目的を持たなくてはならない。終わりが見えているならば、そこまでたどり着くための道がある程度判るので若干の余裕が生まれる。その若干の余裕を、どう配分するかでこの先の生死が決まる。
 瑠華は自分の右手の親指を覆っている包帯を外した。包帯の下からは全く傷のない親指が現われた。一時間前にカッターで切った傷は、《光》を宿している者にとって一〇分程度あれば完治できる傷。おそらくは俊樹の方もとっくに完治しているはずだ。今の今まで包帯を巻いていたのは、林原と河村に自分が化け物であることを隠すためだ。けれども、今となってはそんな事は言っていられない。
 さて……と考える。目的地は、やはり出入り口となっている鏡。そこまで行かなくてはならないが、途中で《闇》が襲ってこないとは限らない。出られるとも限らない。自分に、人一人を護っていけるだけの力があるだろうか。
 せめて俊樹と出会えれば、少なくとも全滅する可能性は減らすことができるだろう。
 ……そこで瑠華は気が付いた。

 ――私は、俊樹に頼っている?

 違う!!

 違う違う違う違う!!
 瑠華は頭を激しく横に振って、今考えた事を必死に否定しようとした。心臓が激しく動いている。長い髪の毛に構わずに頭を手で押さえると、頭は妙に熱かった。河村の「どうしたんですか!?」という声も耳に入っていない。
 私は! 俊樹なんかにっ、《リベル》なんかに頼ってなどいない! 私は《リベル》の監視者、俊樹は監視対象! 監視対象に助けられる監視者なんて間抜けすぎる!
 私は
「あぶない!」
 体が勝手に動いた。無意識のうちに思考回路が切り替わる。瑠華はその場から斜め右前に飛びだし、さっと気配の方向に振り向いていた。
 次の瞬間、河村が瑠華のいた場所を通りすぎてつんのめってべたっと倒れ、二つの“黒い”影が瑠華のいた場所に触手を伸ばして床に突き立てていた。
 そこにいたのは《闇》だった。瑠華は考える間を置かずに反撃に移る。
 《光》の力を解放して運動能力を飛躍的に上昇させ奇襲に失敗して体勢を崩している一体に肉迫する。
 その《闇》には人間の様な体はなかった。ただ、うごめく《闇》が隆起しているだけのものだった。その両脇から細い槍のような触手が伸びている。その触手は床に突き立てられていてまだ動けなかった。
 《光》を込めた拳を《闇》の胴に叩き込む。拳は大きく《闇》の体を削ぎ取るようにして《闇》を消し飛ばした。
 後ろから迫る気配。瑠華は体をひねりつつ真上に飛んだ。何かが瑠華のいた場所を薙ぎ払って(なぎはらって)屋上の柵を切り裂いた。着地して敵を確認する。
 宙に浮かんだ黒くて丸い球体、それがそこにいた《闇》の姿。さっき通りすぎたのはそれから伸びた長い刃だった。
 と、いきなり飛んできた木刀がその球体にめり込み、大きくバランスが崩れた。
 次の瞬間には、瑠華はすぐに回り込んで《闇》が突き出していた長い刃の根元に肘を叩き付けた。あえなく刃がへし折れる。そして、《闇》に体重の乗った回し蹴りを叩き込んだ。どぎゃっ、と《闇》がフェンスに叩き付けられて弾けた。
 これで、この場は凌いだ。ここももう危険だ。早く逃げ
 影が走った。
 体が無意識に緊張を取り戻す。しかし遅かった。
 右足に激痛が走った。熱かった。おそらくは、血が大量に出血するほどの傷を負ったのだろうと思う。
 瑠華はとっさに飛び出し二撃目を避けた。しかし助かったとはいえ利き足をやられたことがまずい。この先、こちらから攻撃を仕掛けることはできそうにない。
 生きていたらの話だけれども。
 瑠華は三匹目が潜んでいることに気が付かなかったことに舌打ちし回避行動に出た。しかし体がうまく動かない。足に負った傷が思ったよりも深い――!
 影が自分に向かって迫ってくるのが見えた。
 とっさに《光》の力を固めた障壁を作りだして影の攻撃を防ぐ。影は障壁に当たった反動を利用して瑠華から距離を取り、素早く疾走して別方向から瑠華に攻撃を加える。それでも瑠華は冷静にまたガードした。
 次の瞬間、影が瑠華の作った障壁を踏台にして瑠華を跳び越え、瑠華の背後を取った。
 瑠華は振り返ろうとして、足に走る激痛によろめいた。その隙を突き、影がこちらに肉迫するのが見えた。

 ――ごめんなさい。

 無意識のうちに謝罪の言葉が頭をよぎる。瑠華は誰に対して謝ったのか判らなかった。
 自分?
 両親?
 仲間達?
 自分の上司達?
 それとも――
 全てがゆっくりと動き出した。《闇》が自分を喰い殺そうと跳躍した。迫ってくる黒い物体。全てが黒く染まる。もう何もわからない――。音が、聞こえた。

「はい、そこまで」

 瑠華はぼんやりと、目の前で勢いよく閉じられた《闇》の口を見ていた。“目の前で”閉じた《闇》の口を。
 《闇》の牙は、瑠華まで届いていなかった。
 唐突に《闇》が瑠華の視界から上へと飛び去り、その向こうから明るい緑色の服を着た一人の男が姿を現わした。男は上を見上げていて、すぐにこちらに背を向け、腕を大きく振った。男の向こうに黒い物体が落ちてきて、地面に落ちる前に弾かれたようにさらに向こうへと飛んで、地面に落ちて転がった。
 一度生きることを諦めたために、全ての思考、運動能力を放棄してしまったために、再び動きだすのに時間がかかった。向こうに転がっているのは、胴体に黒い刃を三本突き立てられて倒れている《闇》だった。
 《闇》はやがて、ばらばらと崩れて塵(ちり)となり、消えた。
 男が振り返る。
「大丈夫か?」
 まるで今まで自分に振り掛かっていた危険を軽く蹴り飛ばしてしまいそうな自信が、その男の周りに渦巻いているかのようだった。
「と、し、き?」
「よっ」
 俊樹が微笑みながら軽く手を振った。
 その姿を見て緊張の糸が切れた。瑠華は足の痛みも何もかも忘れて、その場にへたり込んでしまった。