手の内からこぼれる世界


 6

「思いのほか、うまくいっている、という事ですね?」
「ええ。こうもうまくいくと、どうも怖くなりますね」
 禾市のどこかで、そういう会話がなされていた。禾市に住む、約二十五万人のほとんどの人間にはまったく関係のない、そういう会話。
「ともかく第二ステップも通過しました。“シークエンス”は順調です」
「そうですか。《相効波》も放射された、という事ですね」
「はい。これまでにない異常なほどの早さで進行しています。新沢中学校でのことが触媒となったのかもしれません」
 その部屋は無機質なコンクリートの壁と天井に囲まれた殺風景な部屋だった。そこに一つの大きな机があり、椅子に一人の女が座っていた。机の向こうには一人の男が立っている。
 男は少し話を区切り、重々しく口を開いた。
「……しかし、《リベル》J−23はかなり危険です。我々が予想していたよりもはるかに強大で、多くのことを知りすぎている。最悪の場合、“シークエンス”が破綻することも考えられます」
「破綻することが怖いのですか?」
 きりっとした肌色のスーツに身を包み、タイトスカートからすらりと伸びた足を優雅に組んで椅子に座っている女が冷ややかに尋ねた。とんとんと、手に持った煙草の灰を灰皿に落とす。
 男が何も言わないでいると、
「破綻することが怖いのならば、初めからやらなければよかったのですよ。“シークエンス”の成功例は一七例中、第一ステップ[接触]の成功に一一例、第二ステップ[共鳴]の成功にわずか四例」
 女は煙草をくわえて煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「成功するという保証はどこにもありません。そうでしょう? 富山」
「――はい」
 女の前にいる男、富山晴也が返事をして、押し黙った。
 その顔は、瑠華にも向けられているものとほぼ同じ作り物の笑顔がある。ただし、少し危険な色の混じった笑顔だった。
 おそらくは、力を持った人間に従うのが気にいらないのだろう。《光》や《闇》の力を持った人間を人間ではなく化け物と見なし、隙あらば排除しようとしている――。もしかしたら、力を戦争のための道具として使おうとしているのかもしれない。
 この力は“人間の”力だ。人間ならば、誰でも使えるようになる可能性がある。
 今のところ、誰でも使えるようになるための方法は見つかっていない。いや、見つかっているかもしれないが、そういう情報は入っていない。
 しかし、もしも兵器転用できれば絶大なる威力を誇るだろう。たった一個中隊で現在の軍事基地一つぐらいは完全制圧(皆殺しに)できるかもしれない。実際にやったことは一度もないので、かなり想像の混じった考えではあるが……。
 少しずれた思考を、女はすぐに引き戻した。
 実際にそういう事(兵器転用など)を富山本人の口から聞いた訳ではないし、そういう事を企んでいる証拠もない。だから、何を企んでいようとも今のところは何も出来ないのだが……。
「――《ルーシー》たちの方は?」
 女が息を吐きつつ富山に聞いた。富山はにへらと笑って、
「明日、第一陣が到着します」
「今回は“どちらの”《ルーシー》を?」
 富山は少し間を置いて、
「“どちらも”、ですよ」
 女は片眉を少しだけつり上げた。
「《リベル》J−23は危険です。いつこちらの事がばれるとも限りません。それに瑠華特捜員もいつ反抗するとも限りませんしね」
「瑠華特捜員が裏切る、とでも?」
「そういう危険をはらんでいるのが、この“シークエンス”でしょう?」
 今度は女が押し黙る。
「もしもそういうことがあったら、処分しなくてはなりません。何か間違っていますか?」
「――いいえ」
 この男……何を企んでいる? その笑顔の下には、どんな顔が隠されているのだ?
 そして、富山は最後に重々しく告げた。
「次は第三ステップ、[均衡]ですね」
 心の闇が、もっとも強大で恐れるべき闇が、光を覆い尽くそうとしている。
 女はそう思わずにはいられなかった。
「では」
「待ちなさい」
 女が富山を呼び止める。
「……今までの“シークエンス”で、第三ステップの“途中”でどの被験者のグループも“事故死”していることを知っていますか?」
「……ええ、知っております」
 富山の声のトーンが少しずれていたことを女は見逃さなかった。
「それがなにか?」
「もしかしたら、その事故にあった子たちはみんな、“第三ステップを乗り越えていた”と考えられませんか?」
「乗り越えていたのであったら、事故は起こらないでしょう。まだ判らない部分が多いのです」
「……今回も事故が起こってしまうと思いますか?」
 富山は少し沈黙した。そして、
「私は神ではありません。確実な未来の事など、ほとんど判りませんよ。ただ、予測するだけです」
「――どう思いますか? 今回は?」
「さあ、起こるかもしれませんし、起こらずに次のステップに進むかもしれません。まだ誰も見たことのない“第四ステップ”に」
 女は少し沈黙したあと、
「余計な時間を取らせて悪かったわ」
「では」
 富山は芝居がかった動きで礼をして踵を返して背後の扉を開け、
「全ては、“人間”のためにあるのですよ」
 不気味にそう言い残し、部屋から出ていった。
「……」
 一人残された女はしばらく無言で閉じられたドアを眺めていたが、やがて椅子から立ち上がり、部屋の明りを消して自分の背後にあるブラインドを開けた。
 窓の外には夜の闇がある。人間が昔から現在へ、そして未来でもずっと付き合っていくことになるであろう身近で、確実に存在する、闇。
 その中にぽっかりと浮かぶ、綺麗な月。今日は満月だ。部屋の中まで差し込んでくるその光は、一時だけにしか存在しない美しさを感じさせる。
 女は煙草の煙を吸い、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
「瑠華……可哀相な子……」
 女の言葉は、煙と供に紛れるように消えていった……。