手の内からこぼれる世界


 2

 目が覚めると、そこは暗い部屋だった。
 頭には柔らかいタオルの巻かれた枕の感触があり、重い掛け布団の感触があった。窓から入ってくる薄明りが、見たことのない部屋を照らしている。
 頭の上に、水で濡れたタオルが置かれていた。それを手で掴んでベッドの枕元の電気スタンドの下に置く。
 ごろんと仰向けだった体を横にして少し体を丸める。少し湿っている額をベッドの敷布団にこすりつける。まだ体がだるい。頭も少し痛い。まだ眠り足りない。
 枕の感触を楽しみながらまた目を閉じて、
 足に違和感を感じた。足に手を触れると包帯のようなものが巻いてあった。枕の匂いは、瑠華の知らないものだった。
 途端に警戒心が沸き起こった。眠りかけていた頭に警戒心がキックして即座に覚醒する。
 ここはどこ?
 見たことのない部屋。そこで寝かされていたようだ。
 薄明りの中で見えるその部屋には、まず部屋の窓のそばに自分の寝ているベッドがあり、窓枠には猫の時計が置かれていた。時刻は八時半を指している。
 身を起こして電気スタンドを付けて周りを見ると、ベッドのすぐ横には机があって椅子の上に見たことのある鞄が置かれていた。
 ――俊樹の通学鞄だ。
 ということは、ここは俊樹の家の俊樹の部屋? なぜこんなところに?
 ベッド枕元の電気スタンドの明かりをつけ、掛け布団を退けてベッドから降りて自分の体を確認する。足には綺麗な包帯が巻かれていた。眠っている間に治療されたようだ。疲れは完全にとはいかないけれども、いくらか抜けて楽になっていた。
 ゆっくりと記憶を探る。確か、鏡の世界で《闇》と俊樹が融合して……鏡が割れて……女の二人を助けて……久遠さんと会い、俊樹に背負われて、そこで記憶は途切れている。
 そこで、眠ってしまったのだろうか?
 顔が赤くなった。俊樹の背で眠ってしまうなんて、もう監視者の威厳も何もあったものではない。これでは自分の使命は果たせていないどころか、逆に助けてもらってばかりではないか。
 頭を振って、ふと本棚の横にくっつけられているメモが目に付いた。
 変なメモだった。文字が書かれている。けれどもその文字は……鏡文字だった。今の状態ではそのままでは読みにくい。
 部屋を見回すと、机の上に四角い鏡を見つけた。それを手にとってメモを読んでみる。
 それは赤い文字で、カタカナで書かれていた。

 ヤミノアリキトコロニヒカリアリ
 ヒカリアリキトコロニヤミガアル

 ヤミニハヒカリノミコムチカラアリ
 ヒカリニハヤミシリゾケルチカラアリ

 ヤミトヒカリハタガイニホカンス

 コレ、セカイノコトワリナリキ

「闇のありきところに光あり、光ありきところに闇がある。闇には光呑み込む力あり。光には闇退ける力あり。闇と光は互いに補完す。これ、世界の理なりき……」
 ……何よ、これ。これは……《闇》と《光》に関するもの?
 小声で朗読しながら、瑠華はその紙切れを見つめていた。この詩のような文章は俊樹が書いたものなのだろうか? 何にしろ、何か重要なものの気がする。瑠華はそれを取って小さく折りたたみ、ポケットにしまい込んだ。上官に報告する必要があるだろう。
 瑠華は一回深呼吸して、ゆっくりと歩いて部屋のドアを開けた。

「あ、瑠華。起きたのか?」

 俊樹の声が聞こえた。
 そこは見覚えのある部屋だった。ただし、テーブルと椅子がなくなっていて、代わりにカーペットが敷かれていた。
 壁に寄りかかるようにして俊樹と、林原と河村がいた。俊樹は瑠華の正面のほうにおり、林原と河村は俊樹の反対側の壁のところに腰を降ろしている。そして、俊樹と林原たちの間には見覚えのある制服を着た女の子が二人、寝かされていた。今は掛け布団を掛けられて眠っているようだ。
「ここは、俊樹の家?」
 部屋を見回しながらつぶやく。俊樹の姿は“闇と踊りし者”スタイルからすでに普通の服に戻っていた。キッチンでは真さんが何か作業をしている。……真さんの髪の毛は黒かった。藤色じゃなかったっけ……?
「そうだよ。ついさっき帰ってきたんだ。瑠華は眠っちゃうし、女の子たちには暴れられたし、割りと大変だった。今……仲間……がおにぎりを買いに行ってるから」
 瑠華は首を傾げた。今一つ状況が理解出来ない。
「暴れたって、誰が?」
「彼女たちがだ」
 横から声。林原だ。
「俊樹特殊員の家に着くと同時にだな、目が覚めて襲いかかってきたんだ。ものすごく暴れて、片方はキッチンの裏、片方はそっちの部屋の奥に逃げ込んで」
 林原が俊樹の部屋の隣の部屋のほうに首を向けた。
「……ものすごく警戒されてしまってな、近寄ろうとしても物は投げてくるわ襲いかかってこようとするわで近づけなくてな。何とか俊樹特殊員と真さんと、あと元幸君とケルが取り押さえて気絶させ、睡眠薬を飲ませたんだ。それで何とかなった」
 河村のほうを見ると、腕に氷を当てている。顔やもう片方の腕にも引っ掻き傷や腫れがあった。瑠華の視線に気が付いて河村は、
「……ボコボコにやられてしまいました……マウントポジションで……」
 と言わなくてもいいようなことを「ははは……」と情けない笑い声を付けて告げてくる。もっと強くなって欲しい。
「で、さっき、二人の《光》を彼女たちに返したから、もう大丈夫だよ」
 俊樹が補足した。片膝を立ててプラプラと手を振っている。その様子はこの四人の中では一番元気そうだった。
「まだ寝ててもいいよ。まだここに戻ってきてから三〇分程度しか経ってないんだ。明日に説明してあげるから」
「いえ……構わないから今説明して」
 軽い頭の痛みと眠気をひたすら隠しつつ、瑠華は俊樹に鋭い目を向ける。俊樹は少し黙ったあと、少し笑って立ち上がり、瑠華を手招きしようとして上げた手を止めた。
「……アメリカ式の“こっちに来いよ”のジェスチャーは、手のひらを上に向けてあおぐんだっけ?」
 下に向けていた手を上に向けて、指全てを前後させる俊樹を見て、
「……その場合はこうよ」
 と、瑠華は手のひらを上に向けて軽く握り、人さし指だけを前後させる正しい型を見せた。あ、そうなんだ、と答えたのは俊樹ではなく河村だった。
「ん……教えてくれてありがと」
「――こんな事ぐらいで感謝しないでよ」
 冷たく瑠華は告げる。けれども俊樹はさして気にした様子もなかった。
「まあ座れよ。座布団、いるか?」
「ザブトンって、なに?」
「――クッションだよ」
 そう答えつつ、俊樹は女の娘の片方が逃げ込んでいたという部屋に入り、平たい渋緑のクッションを持ってきて瑠華に差し出した。瑠華はそれを受け取って、俊樹から少し離れたところに壁に寄りかかりつつ座った。眠っている女の子二人を挟んで、向かいに林原と河村がいる。林原はクッションの上に胡座をかいて頬杖をついて休んでいる。河村は氷を当てる腕を替えてじっとしている。
「お菓子をどうぞ」
 はっと振り向くと、キッチンから羊羹(ようかん)を乗せた器を乗せたトレイを持った真が出て来た。
 林原と河村、俊樹と瑠華に一つずつ、羊羹が乗せられた器が渡された。さらに一人に一つずつ、冷たい紅茶の入ったコップが渡された。
 全員が紅茶をごくごくと飲み、羊羹を一切れかじった。
「うむ、うまい」
「おいしいですね〜。羊羹なんて、ここのところ食べたことなかった」
 林原と河村が羊羹を食べつつ感想を告げる。林原は大きく羊羹を噛り取るのに対し、河村はゆっくりと少しずつ食べていた。見ていて何だか笑える。
 がちゃり、と玄関のドアの開く音が聞こえた。はっとそちらに顔を向けると、見知らぬ小学生ぐらいの男の子が手にスーパーの袋をぶらさげて入ってきた。
 目が合う。少年は笑顔で会釈したので瑠華も慌てて会釈した。
「ただいま、俊樹兄ちゃん。おにぎり買ってきたよ」
「ありがと」
 俊樹は立ち上がって少年から袋を受け取る。
「あ、瑠華、紹介するな。こいつはまあ、僕の弟みたいなので一緒に住んでいる、元幸(もとゆき)っていうんだ」
「初めまして、瑠華お姉ちゃん!」
「え、あ、は……初めまして」
 首を少し傾ける程度の会釈をして答える。元幸はにっこりと笑って、
「うわ〜、すごく美人。兄ちゃん、やったね!」
「いや、まだそういう関係じゃないんだけど」
 元幸が「むっ」と唸り、
「“まだ”って、じゃ、これからなるの?」
 爆弾発言であった。全員がその言葉を理解するまで数秒を要した。
 そして最初に、ぽろっと河村が手の羊羹を落とした。
 林原がごっくんと羊羹を飲み込んだ。
 俊樹が少し心配そうにちらりと瑠華に目を向けた。
 真はキッチンから身を乗り出して事の成り行きを見守っていた。
 瑠華の顔は真っ赤になっていた。
「な、ならないっ! わ、私は!」
 あとで考えると、疲れていたでは済まされないような失態であったと思う。我を忘れて叫んでいた。
 元幸がものすごくびっくりした顔をした。と、いつの間に移動したのか、元幸の首に後ろから手がかけられた。
「ほら元幸、そういう直球な発言は言っちゃ駄目ですよ。こういうのは、何も言わずに陰で微笑んでいなければならないものなんです」
「うん……ごめんなさい」
 真に諭されて、元幸が素直に瑠華に謝った。そこで瑠華もはっと我に返り、
「い、いえ。ちょっと取り乱してしまって……」
 やっぱり、自分は疲れているんだ、と瑠華は自覚した。今すぐにベッドに潜りこんで眠りにつきたい。
 瑠華は一応“戦闘要員”も兼ねているため、一定以上の休息が義務付けられている。だから、眠りたいときにはその他の情報、雑務要員と違って眠ることが出来る。力を使わなければならないとき、全力を出せるように。
 だが、今は休めない。
「ともかく、お腹に物を入れよう。そうすれば気が楽になるから」
 そうして俊樹が元幸の持ってきた袋から、たくさんのおにぎりを取り出して床に置いた。羊羹を食べ終わった林原がおにぎり(ツナマヨネーズ)に手を伸ばして食べ始める。
「瑠華も腹減っているだろう? ともかく食べとけ。今食べられるものを食べておかないと、疲れを取ることは出来ないぞ」
 俊樹からおにぎりが一つ渡される。ピリ辛山菜のおにぎりだ。
 少しそれを見て、パックを開けてもぐもぐと食べ始める。スポーツドリンクの入ったコップが渡される。それも飲み干した。
 やがて、おにぎりを食べ尽くして全員が一息ついた。ともかくお腹に食べ物が入ったので、いくらか気が楽になった。
「さてと、時間がないので説明を始めますけれど、いいですか?」 俊樹がそう全員に告げる。壁に掛けられた時計を見ると、すでに八時五〇分を回っていた。
「何を知りたいですか?」
「……人間は影である、という事について説明してくれ」