手の内からこぼれる世界


 4

 シャワーの温かいお湯が体を流れていく。瑠華は立ったままシャワーを頭から浴びて、ただそのままじっとしていた。
 何も出来なかった。
 自分は、ほとんど役立たずだった。
 俊樹が学校の屋上で《闇》の存在に感づいたとき、自分は何も見つけられなかった。
 俊樹や真さんが助けてくれなければ、今ごろ自分は死んでいるはずだった。
 自分の足の傷も俊樹が応急処置をしてくれた。
 《闇》を斃したのは俊樹一人だ。自分は前座で力を使い尽くしてしまった。
 戦いのあと、俊樹に安全な場所まで護られながら連れて行かれた。
 帰り道も、ずっと瑠華は俊樹に背負われて眠っていたのだ。
 被害者二人を助けたのもほとんど俊樹がやったことだ。後始末も全て、俊樹が一人で……。
 悔しかった。
 そして、何も出来なかった自分が許せなかった。
 俊樹は一人でなんでも出来るようだったのに、自分は仲間がいなければ敵を斃す事も出来ないのだ。
 ――今日はよく頑張ったな。
 その言葉を思い出して、瑠華はまた顔を赤くした。
 褒められたことが無性に嬉しかった。胸がどうしても高鳴る。今まで、労われた(ねぎらわれた)ことはあっても褒められたことなんて無かった。褒められることがこれほどまでに嬉しいものだとは、ずっとずっと知らなかった。
 けれども多分、この喜びの度合は普通に褒められるよりもかなり高いと思う。
 その理由は……
「瑠華様、バスタオルと着替えをここに置いておきますね」
 はっと我に返った。そしてぼんやりすることが多くなっている自分に少しいらついた。
「――どうも」
 返事を返すと、浴室のすりガラスのドアの向こうにいた真さんは去って行った。
 結局、俊樹が出て行ったあとに、瑠華は俊樹の家でシャワーを浴びることになった。他にすることもなかったし、シャワーを浴びてさっぱりしたほうがいいかもしれない、と思ったので。
 足の傷は随分と良くなっていた。化膿もあまりしていない。
 シャワーを止めて、瑠華は浴室から出た。
 身体を白いふんわりとしたバスタオルで拭いて、真さんが貸してくれた服を着る。今日着ていた服は今洗濯中だ。けれどもずいぶんとほころんでいるので、また着ると言うならば繕わなければならない。多分、もう着ることはないだろうと思う。
 真さんが貸してくれた服は、薄い青のシャツとロングスカートだった。何か危険はないかどうかを調べてから服を着る。サイズが大きくて少しだぶだぶな感触はあるけれども、湯上がりの身体にはそれが気持ちよかった。
 足に棚に置かれていた薬を塗り、新しく出されていたガーゼを当てて包帯を巻いた。
 それから、脱衣上の棚の隙間に隠しておいたメモを取ってポケットにしまい込む。できることならば持ち帰らなければならない。
 髪の毛を拭きつつ脱衣場から出ると、
「私が髪の毛を拭きましょうか?」
 そう言う間に真さんが瑠華の頭に掛けられたタオルをとって、瑠華の髪を丁寧に拭き始める。
「あ、あの、そんな事をしなくても」
「いいえ、私暇なんです。これぐらいさせてください。椅子にどうぞ」
 どうやら瑠華が風呂に入っている間にリビングはカーペットはなく、テーブルと椅子四つという元のスタイルに戻されたらしい。
 瑠華は反抗することもなく、静かに真に髪を拭かれながら椅子に座った。
「俊樹様はすぐに帰って来られると思います。何も心配はいりませんよ」
 ポンポンポンポン、と真が瑠華の長い髪を丁寧に力をかけずにタオルで拭いていく。
 瑠華はずっと黙っていた。力なく肩を落として、椅子に座っている。「――俊樹様、とっても緊張していらっしゃったのですよ、瑠華様としゃべっているとき」
 瑠華の体がぴくっと震える。真は少し笑って、ゆっくりと語り始めた。
「俊樹様はいつも罪を背負っているという意識を持っています。ですから、小学生や中学生のとき、クラスメイトに苛められても何も反抗せずにずっと黙っていたそうです。それが当然の報いなのだと」
 変なところで真面目なんですよね、と真は優しく笑う。
「でもそれを生意気だと取られて、余計に苛められて友達は一人もできなかったそうです。高校に入って、ようやく友達が出来ました。それが、林原様と河村様。――嬉しかったんでしょうね。俊樹様が他人を家に招き入れるなんていうことは、それまで一度もなかったそうですから」
 髪を拭く手をゆるめながら、真は微笑んだ。
「本当に嬉しそうでした。俊樹様って、今までの環境が環境でしたから、嬉しそうに笑う事なんてほとんどありません。そして昨日、女の子の知り合いが出来たって嬉しそうに言っていましたよ」
 瑠華は振り向いた。真の綺麗で優しい微笑みがそこにある。
「瑠華様の事ですよ」
 髪の毛を拭き終わったのか、真は瑠華の髪からタオルを離し、今度は櫛(くし)で梳き(とき)始めた。
「いままで、俊樹様には同世代の女性経験は哀しいことに皆無です。ですから、考えられる限りの行動を持って瑠華様に接しておられます。……嫌われないように必死なんですよ」
 瑠華は黙っていた。けれども、その目にはありありと驚きが現われていた。
 俊樹が、私に嫌われないようにしている……? “化け物”である私に……?
 ふふふ、と真が笑う。
「昨日、瑠華様がこの家から出ていったあと、俊樹様、緊張の糸が切れて倒れたんですよ」
 昨日の、私が俊樹の家から出たあと……。俊樹が倒れた? 緊張しすぎて?
 そんなこと、すぐには信じられなかった。想像も出来ない。
 俊樹は自分の事を何もかも見透かしているようであり、どんな事にも瑠華以上の有能ぶりを見せていた。言葉もよくしゃべるのにほとんど乱れるところがなく、いたって冷静だった。

 あの何でも解っていそうな笑いの下で……俊樹は冷や汗を流していたというのか?

「昨日の夜、俊樹様がベッドに入ったのは一時頃でしたのに、三時頃までずっと起きていた様です。きっと興奮と不安で眠れなかったんですよ。俊樹様が瑠華様に家に残っているように強く言ったのも、三割ぐらいは瑠華様から離れたいという感情があったんじゃないでしょうか。もちろん残りの七割りは、瑠華様の体を気遣ってのことですが」
 瑠華はなんだか悪い事をしているような気になり、背を少し丸めて自分の膝(ひざ)に視線を戻した。その様子を見て、真はくすくすと笑った。
「気にすることはありませんよ。どうやら俊樹様の思い過ごしのようですし」
 真は瑠華の髪を梳かし終わり、軽く瑠華の髪を広げて手入れを終えた。そして、瑠華の真正面の席にゆっくりと座った。けれども瑠華は顔を上げない。真はその瑠華の様子を、まるで自分の娘を見るかのように優しげに眺めていた。
「――瑠華様、俊樹様と紅茶を飲みたいと言っておられましたね」
「……」
 瑠華はただ、黙っていた。けれども、真は優しげに、確信を持って言葉を続ける。

「きっと、俊樹様も同じだと思います」

 瑠華が顔を上げる。その顔には戸惑いと、ほんの少しの驚き。
「私たちは、食べ物を必要としません。私たちの身体はほとんど水で出来ていますから、水と、俊樹様からの力の供給があればあとは何もいりません」
 真は微笑みを曇らせて、少し寂しげな顔をした。
「ですから、俊樹様の食事などには付き合うことが出来ません。“食べる”事は出来ますが、味が判るというだけで、それは水の中を通るだけで無駄になります。無駄になると解っていて食べ物を食べる訳にはいきませんから」
 真は悲しそうに目を伏せた。“人間”ではなくなってしまった人が持つ悲しみを、瑠華は感じた。
 ただ、誰かと共に食事をすることが出来ない。その悲しみを、この人は知っているのだ。
 瑠華はそんな真を見ることが辛くなって、目を伏せるように真から目を反らした。
「ただ、食事をしている俊樹様の傍にいるだけです。ただ、会話が出来るというだけで……それではただのマネキンとほとんど変わりません。俊樹様は……食事中は一人ぼっちなんです。食卓に出されるのは俊樹様の食事だけで、私たちは水を飲んでいるだけですから……」
 暗い部屋の中にあるたった一つのテーブルで、たった一人で食事をしている俊樹の姿が脳裏に浮かんだ。そして、同時に訓練施設の食堂で、一つのテーブルでただ一人で食事している自分の姿が思い返された。

 ただ一人で、スプーンを舐めていた自分の姿が。

 俊樹も、寂しいのだろうか……。
「だから、俊樹様も瑠華様と一緒に食事をしたり、一緒に紅茶を飲んだりすることはとても嬉しいはずです。俊樹様は感情を隠すことが得意なので、見た目にはそうとは判らないかもしれませんが」
 くすくすと真が笑う。その笑いは本当に嬉しそうで、俊樹の事を大切にしているんだな、というのがすぐに解った。
 けれども、瑠華はそんな真に対して悪い気はしなかった。そんな風に笑っている真を見ると、なんだか自分の内側にも喜びが沸き上がってくるような気がした。
「そうですねぇ……。俊樹様は強くて、優しいんでしょうね、きっと。とても寂しいでしょうにそれを全く見せようとはせずに笑っておられて……俊樹様が必死に“背伸び”しておられるのを見ているのが辛いんです、私は」
 その瞬間、瑠華は胸が締め付けられるように痛くなった。
 俊樹が、背伸びしてる……?
 そこまで話して、真ははっとして首を横に振った。
「すいません。湿っぽい(しめっぽい)話をしてしまいましたね。申し訳ありません」
 真は頭を下げて謝った。
 瑠華は何か言わなければならないと思ったのだが、何を言うべきかわからずに結局黙ってしまった。
「初めのうちは俊樹様が何を考えているのか解らないかもしれません。けれども心配いりませんよ。俊樹様は言えばいくらでも答えてくれます。話してみれば解りやすい人であることが判りますよ。俊樹様、とても不器用ですから。それで嘘をつくのが下手だったら、もっと可愛いんですけどね。俊樹様、嘘をつく時は平然とつきますから」
 そこでいったん区切り、真は付け足した。
「上を向いて口を開けているだけでは、木の実は手に入りませんよ。俊樹様からのアクションを待つばかりでなく、自分から進んでやることが大切ですよ」
「――そうですか」
「ええ」
 瑠華が答えた事を、真は本当に嬉しそうに喜んでいた。そして、口に手を当ててくすくすと笑う。それは先ほどの嬉しさからくるような笑いではなく、どことなく意地悪そうな笑いだった。
「とはいえ、きっとすぐには俊樹様はすぐに心の内を全て、見せはしません。きっといろいろなことを言って“かっこよく”見せようとするでしょう」
 瑠華は眉を寄せて真の言葉に首を傾げた。その様子を真はにま〜と微笑んで、
「いいですか? 昔の偉人の言(げん)いわく、男というものは女の子に対して魂レベルで格好つけたがるものなんですよ。俊樹様の場合、無理やりかっこいいところを見せようとしないでしょう。チャンスが来るまではずっと待ち続けるでしょうし、きっとかっこ悪い姿も見せると思いますけれど、瑠華様は俊樹様の傍にいつもいるでしょうし、きっと何かありますよ」
 なんとなく、恥ずかしかった。顔が赤くなって、瑠華は顔を伏せた。
 真は少し笑って、テーブルに手を置いて頬杖を突いた。それはまるで、とても仲のいい友達にしか見せないような少し締まりのない姿だった。けれども真は全く気にすることなく、くすくす笑いながらどこか遠くを見ながら続ける。
「きっと今ごろ俊樹様は肩の力を抜いて、どこかでうずくまっているんじゃないですか?」
 にこっと真が笑う。それに釣られて、瑠華も少し笑ってしまった。
「ところで瑠華様。髪の毛を少し切られちゃってますよ。よろしかったら、髪の毛の手入れをして差し上げたいのですけれども」