手の内からこぼれる世界


 3

 まず、この世界には何十個、もしかしたら何百個もの“世界”が重なっている。その中に三つの世界がある。《闇》の世界と《光》の世界と、その狭間に位置するこの世界。
 もちろん、その《闇》と《光》というのは世間一般で考えられているような悪と善、という様なものではない。
 《闇》の世界には《闇》しかない。《光》の世界には《光》しかない。それらはまったく混ざり物のない純粋な世界であり、その世界では悪だとか善だとかの概念を問うことはナンセンスだった。そんな物は“存在しない”。
 そして、その二つはもちろん、様々な世界が重なり混ざり合うのがこの“狭間の世界”。物質世界と呼ばれる現世。
 《闇》と《光》の相違によりこの世界では様々なものが溢れている。もちろん、《光》や《闇》以外の要因、力もたくさん存在している。《闇》と《光》が全てという訳ではないのだ。
 《闇》と《光》は愛と憎しみ、平和と争い、喜びと悲しみというような、感情、魂のバランスに強く現われている。ここから精神、魂というものはこの《闇》と《光》の混ざった“不純な存在”であると言う事が出来ると思われる。
 つまり、どちらも持っているという事だ。
「しかし、人間は影なんだろう? 《光》の中に存在する《闇》、と言ったな」
 林原が質問をする。河村は眠そうに目をこすっている。
 瑠華は話を聞きつつ、カーペットの上に寝かされている女の子たちを見ていた。すやすやと眠っている。
「ええ、この世界で生きるものは全て《光》の中に存在する《闇》だと言うことが出来ます」
「なぜ、《闇》の中に存在する《光》ではないんだ? どっちでもいいのか?」
 静かに俊樹は首を振った。そして説明を続ける。
 魂のベースは《闇》。《光》ではない。
 《闇》は基本的には“保身”に当たる。まず、身を護る――身を持つことから始まって《光》を持ち、感情などが産み出されるのだ。
 《闇》を水たまりと例えると、《光》はその水たまりに起こる波紋。
 憎しみ、争い、悲しみは元をたどれば“保身”に行き着くことが出来る。
「それで《闇》の濃度が濃くなった彼女たちが暴れた、という訳か」
「ええ。バランスが崩れた結果ですよ」
 俊樹が頷く。
「悲しみも“保身”ですか?」
「《光》が強くなった場合はどうなるんだ?」
 河村と林原が同時に問いを発した。俊樹はその二つを受け止めて、さらに語り続ける。
 ――誰か親しい人が死んだとき、大部分の人は悲しみを感じる。
 そこで人の死を自分の死と重ね合せて“死にたくない”と思う人もいるし、“自分が死んだら、また他の人を悲しませる”と言う事で死を拒絶する場合も出て来る。
 あまりに大きすぎると精神の《光》を押し潰して自滅することもあるが、基本的に悲しみは“保身”であると言えた。悲しみそのものの《闇》の力はさして強くはないが、他の《闇》の感情、恐怖などに結び付いて“保身”の力を強くするのだ。
 《光》が強くなると感情、欲望などが強まるが、限度を越えてしまうと今度は人間としての“保身のための欲望”が薄くなる。
 これは外界への興味がなくなるということであり、まさに“他人がいなくても生きていける”状態になるが、食欲などの生きるために必要な事にも興味がなくなってしまって、いずれは死んでしまう。いわゆる精神崩壊状態に陥ってしまい、それは人間的に健全であるとは言い難い。
 水たまりの例を用いると、波紋が強くなりすぎて水たまりの水を押し出してしまい、水がなくなってしまうという状態になるのだ。水たまりがなければ、波紋も起こりようがない。
 つまり、片方が強すぎても弱すぎても駄目、という事になる。
 微妙なバランスの上に成り立っているのだ。それのほんの少しの“揺らぎ”が感情や意思として現われてくるのである。
「――《闇》の中に存在する《光》は、ないの?」
 今度は瑠華が聞いた。俊樹は瑠華の方を少し見て、
「《光》の中に存在する《闇》が太陽に映された影ならば、《闇》の中に存在する《光》は夜の星さ。あるよ」
「――どんな?」
「幽霊とかがそれに当たる。彼等は身体の“保身”の大部分を捨て、意思のみで存在しているんだ。だから、自分を自覚する感情などの力も大きい。昼よりも夜のほうははっきりと姿を表わすことも出来るし」
 俊樹が真の方を見ると、真はVサインで答えてくる。元幸の姿はない。
「――アストラル体、か」
 林原がつぶやく。俊樹は少し笑って、
「星気体、ですね。幽霊は」
 それで、夜空の星。アストラル(Astral)。幽霊。
「大昔の占星術士たちはその事を知っていた、というのか?」
「さぁどうでしょう、僕は知りません。かなり込み入った話になるでしょうし……」
「ふむ……」
 林原は少し押し黙るようにして頷いた。林原の隣では河村が欠伸をしている。
「さて、人間は影である、という事の説明はほぼ終わったと思います。他には?」
 ふー、と林原が吐息する。そしてキッチンのほうで椅子に座ってみんなの話を聞いている真に飲み物の追加を頼んだ。ジュースのお代わりが運ばれて、それを林原が少し飲んだ。
 真はついでに、全員の飲み物にお代わりを注いだ。そして、またキッチンに戻る。元幸は俊樹の部屋の隣にある部屋で、どうやらパソコンゲームで遊んでいるようだ。こういうかたっ苦しい話には興味ないらしい。
「さて、他に質問は?」
 瑠華は時計を見た。九時七分。

   ▲ ▽ ▲

「あの、一つ、いいですか?」
 河村が俊樹に聞いた。全員の視線が河村に集まる。河村は少しひるみ、しかしぽつりと言った。
「……あなたは、人間ですか?」
 直球ど真ん中の飾り気も思いやりもない質問だった。少なくとも、瑠華にはそう聞こえた。おそらく、悪意はないのだろう。けれども瑠華は身体を固く寄せて縮こまった。そんな質問、例え他人に対するものであっても聞きたくはなかった。

 ――あなたは、化け物なんでしょう?

 そう耳元で言われているような気になって、とても怖かった。
「僕“ら”は、みんな人間ですよ」
 そんな瑠華の気持ちを吹き飛ばすかのように、俊樹はまっすぐ答えていた。
「こんな力を持っていたら、確かに大部分の人は僕らを化け物だと言うでしょう。けれども、僕らは人間です。この力は、人間が身の外につける武器であり鎧であり道具です。僕らは道具を手に持っているだけの、ただの人間です」
「――本当にそうなんですか?」
 確認するような河村の声。その声には悪意はなく、ただ何となくという感じで聞いている、という感じがする。
「……僕らが人間である、というのを証明することは確かに難しいです。けれども、一つ言えるのは――」
 重々しく俊樹が一回、口をつぐむ。そして、
「《光》、もしくは《闇》の力を使えるのは人間だけ、と言う事です」
「そうなんですか?」
「この力は生まれた時から持っていた訳ではありません。この力を与えてくれた《闇》たちが求めたものは、自分たちが持っていない“人の心”です。ですから、この力を持てるのは人間だけなんですよ」
 俊樹は平坦に言った。おそらくは、この説明で納得してくれるとは思っていないのだろう。河村も平坦な口調で、
「信じられない、と言ったら?」
 その声には悪意や刺は感じられなかった。ただ何となくではあるが、俊樹を試しているという様な感じがした。ともかくも、その河村の声には“怯え”などの感情は混じっていそうには聞こえない。
 強い人なのかもしれない、と瑠華は思った。
「信じてもらうしかありません」
 俊樹ははっきりと答えた。信じる信じないはあなた次第。例え信じてもらえなくとも、それはそれで構いません、と思っていることが丸わかりだった。いや、意図してそういう事を伝えているのか。
「――信じても、いいんですね?」
 河村の声には穏やかな安堵が含まれていた。きっと、俊樹や瑠華の存在を認めて、その存在を許してくれたのだろう。
 ともかくも、少しほっとした。きっと河村は、瑠華たちの事を化け物だとは言わないだろう。
 そして、
「はい」
 俊樹ははっきりと答えた。
 そのとき。

 うひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。

 一度滅んで、そして復活した魔王ならばこういう笑い声を出すのかもしれない。
 とにもかくにもそれは魔王の笑い声だった。
 言うに及ばず林原の事だ。
 なぜか仁王立ち。
「すんばらしいぃ! 最高だぞ俊樹特殊員! 瑠華特殊員も! 俺は今、感動の波にめちゃくちゃにゆられまくっている! ちょっと、気持ち悪くなってきた」
「――船酔い?」
 河村が突っ込みを入れる。どうやら超絶ハイテンションでめちゃくちゃになっているらしい。
 ともかく仁王立ちの上体からすっと素早く、がしっと拳を上へと突き出し、滝のような涙を流していたら一〇〇点満点。しかし涙は流していないので九〇点ぐらいの決めポーズで、
「オカルト総合部最高! きゃっほ――!!」
 叫ぶ、手を振る、暴れる、座り込んで河村のジュースを奪って飲み干す。健特殊長ご乱心である。誰か早く止めてくれ。
「喜んでもらえたようで、なにより……です」
 俊樹がさらに疲れた様な声を出す。瑠華もなんだか疲れが増したような気がした。魔王は人の気力を奪ったに違いなかった。
「よし、次だ!」
「……はい」
 一人だけハイテンションの林原を眺めつつ、俊樹は頭を軽く押さえて疲れた声で返事をする。
「……もう帰りましょうよ」
 そこに河村が割り込んだ。何だか今は、河村が地獄の底で苦しんでいる人々を救いに来た救世主のように感じた。ああ、いま、あなたは輝いて見える。
「健特殊長、もうすぐ九時半ですし、もう帰りましょうよ。早く眠りたいですし……もう眠くて。こんな状態じゃあ正しい判断も出来ませ、あぉ〜」
 河村が口に手を当てて、大きな欠伸をしている。……これはこれでも救世主だ、うん。
「ぬ……? ………………そうだな。今の状態では情報を処理しきれんな。よし、俊樹特殊員。この続きは明日にしよう。今日はゆっくり休んでくれ」
「はい」
 林原が背伸びをし、河村ものろのろと立ち上がった。
「この二人、頼んだぞ」
「はい」
 林原が部屋を出ようとして、
「おっとそうだった。まだ知りたいことがあるんだった。瑠華特殊員!」
「あ、はい」
 瑠華は立ち上がって林原に顔を向ける。
「瑠華特殊員が所属しているという“組織”の名前は?」
 驚いた。けれども、瑠華の顔は見た目には少し動揺が走っただけだった。
 林原や河村に自分が組織に所属していることを話した覚えはない。俊樹が漏らしたのだろうか?
 そう思って俊樹の方を見ると、
「そうだった。その事について話してなかったな」
 俊樹が部屋に戻る。林原と河村も戻ってきた。そして全員立ちっぱなしで話が再開する。
「実はな、どうやらRWでの僕らの行動、誰かに監視されていたようなんだ」
 瑠華は衝撃を受けた。思わず顔を歪めてしまう。
「僕が《闇》と融合していたとき、林原先輩と河村先輩はほら、その世界を作った《闇》が融合していなくなるとRWは崩壊するから先に鏡の外に出ていてもらったんだけど、その時に見知らぬ誰かが鏡から飛び出して逃げていったらしいんだ。仲間が追跡したけど、逃げられた」
 俊樹は淡々と告げた。取り逃したことについては何の悔しさもないらしい。
「そいつの姿は暗くて判らなかったが、どうやら《光》の力を持っていたらしい。どんな奴だったのかが気になるな」
 林原が顎(あご)に手を添えつつ、ふ〜むと唸って続ける。そして河村が少し申し訳なさそうに頭をかいて、
「動きは異常に速くて、多分訓練されていたんだと思います。そこで、その人は瑠華さんの組織の誰かではないか、という話になったのですが……」
 ……。瑠華には、心当たりがあった。
 しかし、納得できる行動だ。瑠華一人では情報採集に力不足とみなされ、こっそりと監視されていた。解る話ではある。
 けれども、引っかかるのはその事がまったく瑠華には知らされていないということだ。俊樹の情報を集めるだけならば、別に瑠華に知らせていてもいいではないか。
 なぜ、知らされていない? 上官は、何を考えているのだ?
「それで、組織名を聞きたいのだが」
 林原の言葉で、瑠華は我に返った。
 自分の組織の名前。別に隠す必要はない。ばらしても文句は言われない。しかし、
「ここにいる人以外の誰にも口外しない、というのなら」
 林原が河村を見ると、こくんと頷いた。そして林原が俊樹を見ると、俊樹は苦笑しつつ頷いた。
「わかった」
 そして、瑠華は告げた。

「私たちの組織の名前は――〈セラフィナ〉」

『セラフィナ、ね』
 林原と河村が同時に口を開いた。それを見て俊樹は怪訝そうな顔をした。
「あの、セラフィナって人の名前とかに使われているものですよね? 何か意味あるんですか?」
「意味がなきゃ組織名には使わんだろう」
 まったく持ってしてその通りですね、と俊樹が苦笑しつつ答える。
 〈セラフィナ(Seraphina)〉――ヘブライ語で“天使”という意味を持つ。語源は天使に存在する九階級の中の最上位者――熾天使(してんし)セラフィム。語源には“燃えさかる蛇”という意味があり、純粋な光の意思を持って神と直接に交わり、愛の炎と共振することが出来るという……。
「さて、時間を取らせたな。ではまた明日」
 俊樹に〈セラフィナ〉という言葉の意味を教えて、林原は玄関へと向かった。
「じゃあお邪魔しました。お休みなさい」
 ぺこっとお辞儀をして河村も林原のあとを追いかけて、部屋を出ていく。俊樹は玄関まで林原と河村を見送った。林原と河村は玄関でもどかしそうに靴を履き、去っていった。
 部屋の中にはほっとした空気が流れていた。
 真が俊樹の部屋から水の入ったボールと濡れタオルを回収していた。元幸もすでにゲームをやめて居間のほうに出ている。その後ろにはケルの姿もあった。
「さてと、僕は彼女たちを家に送り届けてくるけど、瑠華は寝ているか? ……瑠華?」
 ぼーと棒立ちしている瑠華は俊樹の呼び声にはっと我に返って、
「――なに?」
「……彼女たちを家に送ってくる」
 しばらくの間を取って、俊樹はもう一度繰り返した。ただし、ついてくるか? とはもう言わなかった。
「どうやって?」
「――催眠術のようなものが使えるんだ。だから、彼女たちを学校前まで連れて行き、そこからは眠ったまま自分の家に帰らせる。アフターケアもしなきゃ、な」
「アフターケアって?」
「外国のほうはどうなのか知らないけどさ、日本の親には一泊の無断外泊があっただけでもヒステリーを起こす人がいるんだ。だから彼女たちを連れて、“ちょっと事件に巻き込まれていたんです”と言う人が必要になるんだ。そうすれば彼女たちも身の覚えのない外泊で不必要に怒られずに済む」
「……よくそこまで手を焼くわね」
 はは、と俊樹は軽く笑った。
「無意味に怒られるっていうのはなかなか辛いよ? だから怒られないようにするだけさ」
 他に手を焼く人もいないし、と俊樹は付け足した。
「瑠華も少し疲れているようだし、風呂にでも入ったらどうだ? 真が付いているから」
「ふざけないで! そんなの、私も付いていくに――」
 どん、と俊樹が瑠華の胸辺りを軽めに押した。普通ならばちょっとよろめく程度の物だったかもしれない。
 けれども瑠華はどさっと床に倒れてしまった。腕にも足にも震えが走り、力が入らない……。
「そんなふらふらの体で何が出来るって言うんだ。力をほとんど放出し尽くしていて、立っているのがやっとじゃないか」
 俊樹が威圧的な声で瑠華に言う。
 瑠華は……初めて見る俊樹の睨むような眼に驚いていた。
「家で休んでいろ。そうしないと、明日の僕の監視活動にも支障が出るぞ」
 ぐっと息を飲み込んだ。
 俊樹の言葉は正しい。今無理をすれば、明日にも影響が出ることは確実。もしかしたら体を壊すかもしれない。そうならないためには今は動かずに休むことが必要だ。
 しかし、ここで休むと俊樹の言葉に従ってしまう事になる。
 監視者である自分が監視対象の言葉に従う。
 無茶苦茶だ。
 間違ってる。
 けれども休まなくてはならないのは事実なのだ。しかし、しかし――!
「けれども私は、」
「つまらない見栄を張るな」
 俊樹の強い声が言葉を遮った。
「休むべき時に休まなくて、動かなきゃならないときに動けないでどうする気だ? 明日、もし僕が暴れたとしたら、歯を食いしばって見てるだけになってしまうだろうが」
 体が震えた。俊樹の言葉は正しい。けれども、それが震えた原因ではなかった。
 俊樹の眼が。
 強い意思のともなった眼が、瑠華の全ての反抗を抑えつけていた。何も言わせぬ威圧感がそこにあった。
 そして俊樹は元幸とケルを手招きして“統合”した。またマントを羽織り、帽子を被る。
「じゃ、行って来るよ」
「はい」
 真が返事をした。
「愚痴なら、帰ってきてから聴いて上げる。すぐに帰ってくるから」
 そして俊樹は微笑んだ。
「今日はよく頑張ったな」
 俊樹は瑠華の傍に歩み寄り、瑠華の頭をなでた。かあっと瑠華の顔が赤くなる。
「だから、休んでくれ。人間、休むときに休まないとね」
 俊樹は瑠華の手を取って立ち上がらせた。そして俊樹は床に寝ている女の子二人を軽々と持ち上げて、背を向けてじゃあね、と少し頭を下げて玄関から出て行った。
 瑠華はそれを呆然と見送ることしかできなかった。ただ、ドアが閉まる音を聞くしかなかった。
 けれども、“まただ”と瑠華は考えていた。また、意識せずとも俊樹の言葉が頭の中に響いていた。
 ――人間、休むときには休まないとね。
 “人間”。
 その言葉が瑠華にはとても、嬉しかった。