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目次 / 第三章 / 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / エピローグ |
手の内からこぼれる世界 |
5「はぁ〜……うっくしゅ! ……くしゃみなんて久しぶりだな」素晴しい読みだ、真。 俊樹は誰もいない夜の公園のベンチに持たれて、コンクリートの道の上に本当にうずくまっていた。 『大丈夫ですか?』 『疲れてるね〜。でも、早く仕事を終わらせて、瑠華お姉ちゃんのところに帰ってあげないと』 現在、統合中であるケルと元幸が話しかけてくる。鼻元をこすりつつちらりと俊樹が後ろのベンチを見ると、そこには紺色のコートを着た髪の毛の短い女の子が一人、寝かされている。 「もうちょっと休憩……はぁ〜」 『そんなに疲れるものなのですか? 瑠華様と話すのは?』 ケルの言葉に俊樹は軽く笑った。 「まぁね……なんと言うかな、未知への冒険なんだ。どういう事を言えばいいのか先に解っている訳じゃないし……今のところはなんとか助かっているけれども」 『美人だしね。嫌われたくないのも解るよ、兄ちゃん!』 「うん……」 元幸の言葉に、俊樹はどこを見ることもなく目を泳がせて曖昧に答えた。 実のところ、瑠華との会話が疲れる訳ではない。 瑠華の傍にいる、というのが気疲れの主な原因のような気がする。性別が違うのだから、俊樹は気にしないことを瑠華は気にするかもしれない。どんな行動が瑠華に悪印象を与えるのかが判らないのだ。 霞は中学生女子だが、そういう話をしたことはなかった。親に対する不平不満はよく聞くのだが……。今度、話を聞こう。 付き合いが長くて親密度の高い女性と言えば真だが、真は俊樹よりもかなり年上であり、どんな事にもかなり寛容で大抵のことは笑って許してくれるのだ。 それだけにどういう行動が女の子には嫌がられるのか、という経験がほとんど出来なかった。話題でも俊樹自身が女子の事なんてどうでもいい、と思っていたので話し合ったことはない。 あう〜、ものすごく悔やまれる。ちゃんとそういう事の話を聞いておけばよかった。 けれども、いまさら泣き言は言えない。瑠華自身は常に俊樹の傍にくっついてくるだろうし、下手に離れると瑠華がどう思うのかが解らない。滅茶苦茶に怒るかもしれないし、平然としているだけかもしれない。 しかし、なによりも瑠華自身も上官とやらに怒られるだろう。 組織〈セラフィナ〉がどういう処罰を瑠華に対して行なうのか、今のところは判らない。ただ口頭で注意するだけかもしれないし、予想を越えてひどいことになるかもしれない。 瑠華の上官が誰なのかはすでに判っている。しかし、この街にいる〈セラフィナ〉の人間は瑠華とそいつ、新任カウンセラーとして酉原高校に潜り込んでいる富山晴也(とやま はるや)だけとは限らない。 RWに入り込んでいたのは《光》の力を持った者だ。富山は何の力も持っていないただの人間なので、富山とは違う誰かが動いていたことになる。 ともかく今はまだ、情報待ちだ。 ふと、昨日の屋上の事を思い出した。瑠華はとても冷たい眼をしていた。夕日の中でこちらを睨む顔は、とても美しかった。 けれどもその美しさは、おそらくは本人が思っているよりも随分と脆い(もろい)ものであることを俊樹は心のどこかで感じていた。 ただの女の子なのに必死に肩肘を張っている、必死に背伸びしている、少し可哀相な子。きっと今まで、“自分は化け物だ”と思い詰めてきて、怯えて生きてきたのだと思う。 瑠華、荒んだ(すさんだ)眼をしていたんだ。 人間は弱い生き物だ。一人で生きていくことなど出来はしない。けれども、彼女はずっとほとんど一人で生きてきたのではないかと感じる。 ――君は人を愛したいと思ったことはない? ――ないわよ。 昨日の会話が思い起こされる。 放っとけないんだよな、と思う。もしかしたら“独りで生きてきた”という仲間意識があるのかもしれない。まだ出会ってから一日しか経っていないというのに、な。 『それと、ごめんね、兄ちゃん』 元幸が声だけで、俊樹に謝った。俊樹が首を傾げる。 「ん? 何か謝られるような事されたっけ?」 『兄ちゃんたちを監視していたヤツに逃げられちゃったし……』 「謝らなくていいよ。追いかけて行って逆に捕まったって言うんなら怒るけどさ」 『うん……それに、兄ちゃんの先輩に瑠華お姉ちゃんが組織に入っていること、ばらしちゃったし……』 俊樹たちが新沢中学校から俊樹の家へと向かっている途中の話だ。 謎の監視者の追跡を諦めた元幸たちが、空をゆっくり飛んでいる俊樹たちの元へと飛んできた。その時、元幸がついつい、「あれは瑠華お姉ちゃんの組織の人かも」と言ってしまったのだ。 俊樹の後ろにいた林原がその科白をキャッチしたのは当然の話で、その時すでに“瑠華特殊員はなにかしらの組織から派遣されてきた俊樹特殊員の監視員である”、という考えを持っていた林原の推測を確かなものにしたのだった。 林原の洞察力は周知のとおりである。隠し切るのは無理だと判断した俊樹は、ともかく瑠華の簡単な素性だけを話した。もちろん口止めも頼んだ。 「くくくくくく、面白くなって来た、来た来た来た!」 と笑う林原(と河村)はすぐに了解してくれた。どころか、全面協力を約束してくれたのだった。その代わり、こちら側の情報を惜しみなく渡すことも約束させられたが。 この間、瑠華はずっと眠っていてそういう会話があった事は一切知らない。帰ったら話そう。 気弱に返事をする元幸に対し、俊樹は優しく笑った。 「まあ過ぎたことだし、大したことはないよ。だからさ、そんな事でうじうじするなよ、男らしくねーぞ」 『そっか。解ったよ、兄ちゃん!』 「おう」 『ところで……俊樹兄ちゃんは、瑠華お姉ちゃんの事が好きなの?』 元幸の問いかけに俊樹は顔の笑みを消した。無表情に視線を夜の公園にさまよわせて、 「……ああ。何と言うか……かわいいやつなんだよな、瑠華は。肩を持ってやりたくなるんだ。傷をたくさん持っているのに一人で歩いているんだから……」 俊樹は深く息を吐いた。そして夜空の月を見上げる。 「……強いよな、瑠華は」 ともかくこの一日にいろいろとありすぎたんだよな、と思う。なんかこう、ゆっくりと交流を深めていくべきところを、出会った次の日に、いきなり今日の戦いでかなり無理やりに協力することになってしまったし……怒ってるだろうなぁ〜。さっきも、かなりきつく言ってしまったし……。 ため息を付いた。難しいよな、ニンゲンカンケイって。何が起こるか判ったもんじゃない。 『一目惚れ?』 元幸の何気ない問いかけに、俊樹は妙に感慨に耽った。 一目惚れ、か。確かにそうかも知れないな。ほとんど何もお互いのことを知らないのに、僕は割りと好きになっている、瑠華の事を。こういうのを世間では一目惚れと言うのかもしれない。 『……兄ちゃん?』 「ああごめん。ちょっと考え事を。――そうだね。確かに、一目惚れをしたのかもしれないなぁ〜」 自分で言ったことに恥ずかしさを感じて、俊樹は帽子を脱いで頭をポリポリとかいた。 「今話した事は瑠華には言わないでくれよ。僕がこんな事を言ったなんて瑠華が知ったら、げんこつじゃ済まないだろうからな」 『うん、わかったよ! 俊樹兄ちゃん』 『わかりました』 元幸とケルの声を聞いて、俊樹は空を見上げた。空には綺麗な満月が輝いている。 「……ありがとな、二人とも」 俊樹は約束を守ってくれると言ったケルと元幸に、感謝の言葉を告げた。 『――俊樹兄ちゃん、もう少し休んでる?』 「……うん、出来ることなら」 『じゃあね、その間だけブランコで遊んでてもいい?』 「いいよ」 俊樹が了解すると、もぞもぞと俊樹がまとっているマントの内側がうごめき、そこからひょこっと元幸が姿を現わした。俊樹に手を振って、公園にあるブランコに座って遊び始める。キィー、キィーと金属のきしむ音が誰もいない公園に響いた。 「ケル、元幸のそばに行って〈結界〉を張ってくれ。夜にこの音は響くから」 『分かりました』 元幸に続いてケルがマントの外に出た。ただし、その姿は犬ではなかった。 黒い、赤い目をともしたカラスだった。それがマントの下から歩いて出て、元幸のいるブランコを囲う鉄柵のところに飛んで行った。 すぐ、音が消えた。 元幸がブランコを漕いでいる姿は見えるのに、そこからはどんな音も発せられていない。そこだけ、まるで別の世界になってしまったかのような錯覚を起こさせる光景だった。 ようやく一人になれたな。 後ろで寝ている女の子のことは忘れるとして、俊樹は深々とため息を付いた。 ぐだぐだ考えて来たけれど、要するに女の子を前にして舞い上がってるだけだよな……。 自分も一応年ごろの男であることを痛感する。こういうのを世間では初々しいとか言うのだろうか。 それに……。 俊樹は瑠華が起きて来るまでにした河村との会話を思い出していた。 ▲ ▽ ▲ 俊樹たちがようやく俊樹の家に着いた時、まず最後尾にいた河村が玄関でつまずいた。ちょっとした、けれども慣れない空中遊覧で足ががくがく震えていたから、まあ仕方ないのかもしれない。が、河村が林原を巻き込んで倒れたのは痛かった。 その衝撃で背負っていた女の子二人が目を覚ました。 それからはもう嵐が吹き荒れているかのような有様になった。 河村はセミロングの女の子にマウントポジションで殴られ引っかかれ、林原はショートヘアの女の子の初撃を避けたが突き飛ばされて背中を打ち付けた。 女の子二人は廊下や部屋の中に置いてあった物をなぎ倒しながら家の奥へと逃げ込み、俊樹はともかく瑠華を自分の部屋のベッドに放り出して、女の子二人を真と元幸とケルと協力してすぐ取り押さえた。それからみぞおちを叩いて気絶させ、睡眠薬を飲ませて眠らせたのだった。 嵐は去った。 居間のテーブルと椅子を片付けてカーペットを敷き、そこに眠っている女の子二人を寝かせてタオルケットを掛け、瑠華をちゃんとベッドに寝かせて濡れタオルを頭に乗せてあげた。 そして、俊樹は二人の女の子にそれぞれの《光》を返すことにした。新沢中学校で“仲間”となった《闇》から二人の《光》を取りだし、手のひらを彼女たちの頭へにおいて送り込む。 「随分と簡単なんだな」 林原が興味深そうに俊樹の、手を女の子の頭において“白い光”を送り込む作業を見ていた。その後ろでは、真と元幸とケルが床に散らばった家財道具を片付けている。 「この子たちが眠っている状態ですからね。起きている状態ではこうはいかないですよ」 「起きている状態では治療できないのか?」 「出来ないということはないですけど……例えるなら、パソコン」 俊樹の手が淡く“白い光”に包まれている。それは見るからに波打ち、女の子へと溶け込んでいく。 「内部ハードディスクの修復に似ていますよ。内部ハードディスクを起動ディスクとしている場合、ハードディスクの修復は出来ませんよね。だから、システムDVDとか緊急用メモリーを使って外から起動し、そしてハードディスクを修復する訳です。眠っている状態はその状態に似ていて、外部からのアクセスがしやすいんです」 だんだんと、俊樹の手から女の子へと溶け込んでいく白い光の量が減っていく。 「催眠術と似た様なもんか。それは」 「まあ、同じことですね」 俊樹は二人の女の子の頭から手を離した。終わったらしい。その作業にはほんの五分もかからなかった。 そして、やっとやることが何もない、休める状態になった。 全員が壁に持たれるように座布団の上に座り、カーペットの上で眠っている女の子二人の寝息を聞きつつ、ほっと一息付いた。 河村はトイレに行き、林原は真から火炎瓶などを入れていたリュックを紛失してしまったことのお詫びをされていた。 俊樹は元幸にコンビニかスーパーに行っておにぎりとサンドイッチを買ってくるように頼み、元幸はお菓子を買ってくることと引き替えに了承し、出かけて行った。 戻ってきた河村に真が氷を包んだタオルを渡し、痣を冷やすように勧めた。 ケルはやることがなく、居間にいると邪魔そうだったので右の部屋、書斎の中にあるケル用の寝床に歩いていった。 一連の諸雑用が終わったあと、林原が河村に言った。 「直純特殊員、鏡に引き込まれたあとの俊樹特殊員に助けられるのでの経緯を説明せよ」 河村はぽつりぽつりと鏡の世界に引き込まれて、俊樹が助けにくるまでの間の事を語り始めた。そして最後、瑠華の事について話した。 「初めはとても気が強い女の子だと思ってたんですけどね」 少々ぼんやりとしながら、河村はあのときのことを思い出すかのように視線を宙に彷徨わせて(さまよわせて)いた。 「僕が呆然としている間に即座に判断して《闇》? から逃げるために走って……その後にも、『私は護ってもらう必要はありません』ってはっきり言われて……正直なところ、その時点で僕はもう、瑠華さんをただの人間じゃないと認識していたのかもしれません。そんなことを言った瑠華さんを、変だと思わなかった」 殴られまくって痣(あざ)だらけになった腕に氷を当てながら、今だに実感が湧いていないような口調で河村は語った。 「そして、突然襲ってきた《闇》を蹴散らす瑠華さんの姿を見ても、あまり驚かなかったんです。確かに光に包まれてすごいスピードとか跳躍力とかを見せられて、ものすごく驚きましたけど……先に助けなきゃっていう思いが強くなって……」 河村はそこで、少し照れたように頭をかいた。 「気が付いたら、瑠華さんを助けてました。……それでそのあと瑠華さんに感謝されて、嬉しかったですぅ〜」 少し照れたようににんまり笑いつつ独白する河村。自慢なのかな……と、俊樹はぼんやり考えた。 そこで、河村は少し苦笑をもらした。 「本当は、初めは瑠華さんのことが怖かったのかもしれません。けど、まあそういう事があって、俊樹君が屋上で流していた曲を聴いているうちに、何が怖かったのかが判らなくてなってしまいました。――いい曲でしたね」 「でしょう?」 俊樹は瞬間的に嬉しそうに笑った。その笑みは、自分が良いものだと思っているものに対し、他人からも賛同が得られたときに出てくる笑みだった。 釣られたように河村の口元から好意的な笑みがこぼれる。そうだな、こういう人がいてもいい。そういう笑みだった。 「それはそうとして、」 河村は初めから言いたかったことを言う事にした。 「瑠華さん、俊樹君は嫌いじゃないみたいですよ」 「……そうですか?」 俊樹は平然とした顔を保っていた。しかし、実は頬の裏を噛んでいた。そうしないとにやけてしまいそうだったので。 ええ、と河村がうなずく。 「瑠華さんがあの時言ってましたよ。俊樹君と合流したいって。信頼されているんですよ……」 最後の部分、声をどんどん弱めていく河村の背に、がっくりと落ち込んだような陰が降りていた。 瑠華は護りはいらないと言っていたのに、俊樹が来てくれることを願っていた。その一瞬の心の弱さが覗いたことが、河村の瑠華に対する恐怖心を弱めたのだ。 ……まー、それは同時に、河村のことを瑠華が……その……好きになってくれたり、くれないかな〜なんていう、はかない男のあったらいいな、本当だったらもっといいなの期待は見事に砕かれたことなるので、少し落ち込んだのだが。淡い恋心は見事に玉砕した……。 その事を思い出した河村直純一六歳(再来月には一七歳)、その思春期真っただ中の複雑な心境を理解していない俊樹は、しかし河村の陰を察知して黙っていた。 そしてしばらく真が羊羹(ようかん)を切り分け、皿に乗せる音だけになったのち、瑠華が起きて来た。 ▲ ▽ ▲ そんな会話があったぐらいだ。河村先輩が瑠華の前で「あなたは人間ですか?」と聞いて来るのは変だと思ったんだけれど……あれはきっと、瑠華に聞かせたかったのだろう。瑠華にさりげなく、「私たちはあなたを拒みません」という事を伝えたかったのだと思う。河村先輩はいい人だなぁ〜。 それにしても、信頼されてる、か。 そう思うと我知らずに笑みが出てしまう。胸が熱い。無意味に緊張と気合いが高まる。 しかし、と思う。 何だかうまくいき過ぎているような感がある。まるで誰かに与えられたものであるような気がしてならない。 考えているうちに芽生えた警戒心で、胸はだんだんと冷えていく様だった。 瑠華は、演技をしているとは考えられないか? けれども……僕は瑠華を疑いたくない。瑠華を疑うのは、不快だ。 やっぱり僕は瑠華の事が好きなんだな〜、と改めて感慨に耽った。もうこの気持ちはどうしようもないだろう。 また、瑠華の頭をなでたいな〜。 そう思って笑う傍ら、俊樹は心の片隅では考えていた。騙されている可能性は捨てられない、と。騙された上に裏切られるかもしれない、と。 それは一種の安全装置だった。俊樹の心を護るための。そういう事すらも視野に含めて思考することにより、現実にそうなったときの悲しみや絶望を極力躱わすのだ。 それは今まで生きてきた人生の中で培われた心理だった。今まで苛められてきた人生での。 自分には罪がある。だから、殴られても我慢しなければならないと思う。けれども、助けて欲しいと思ったことは何回もあった。けれども助けてくれる人は居らず、助けるように見せかけてさらに苛めてくるヤツが後を絶たなかった。 だから、必ず他人との間に一線を引く。変な性格になっちゃったなぁ、と俊樹はため息を付いた。 ふと、瑠華にぶたれたことを思い出して俊樹はぶたれた頬を触った。何があったのか、真は何も教えてくれなかった。けれども、あの時の瑠華は……とても必死な顔をしていた。泣いたかのように目を赤くして、ただ何かに対してものすごく怒っていて。 ものすごく、痛かった。 今までに何度も他人から殴られたことがある。怒っている人から何度も殴られた。笑っている人から何度も殴られた。それだって十分に痛いのに、瑠華の平手はそれよりも痛かった。肉体的なものではない。ただ、僕が痛いと感じた。理由もなく、ただ痛いと感じていた。 それは、なぜだったのだろうかな。 「俊樹兄ちゃん」 気が付くとそばに元幸とケルがいた。 「そろそろ行こうよ。家に帰ったら、瑠華お姉ちゃんの愚痴に付き合うんでしょ?」 「そうだったな……。じゃ、行くか」 俊樹は帽子を被り直して立ち上がると、元幸とケルを再び統合し直して隣のベンチに寝ている少女に振り向いて、 「奈美さん、起きて自分の家まで歩いてください」 俊樹の言葉に反応して、少女が虚ろな眼を開き、ベンチから起き上がって歩き出した。 俊樹は保坂奈美に対して催眠術のようなものをかけていた。ついさっきは紅山萌絵を同じ方法で家に帰したところだった。今回は途中でこの少女の案内でこの公園に寄ってもらったが……。 少女は歩いていく。俊樹はその後ろを歩いていた。 スーツを来たサラリーマン風の男の人が歩いてくるが、奈美にも俊樹にも注意を払わなかった。奈美はともかくとして、俊樹は紺のコートに目深な帽子の“闇と踊りし者”スタイルである。こんなもん、無視しようとしても目が行ってしまうのが正常な人間の行動だ。 さらに自転車に乗ってぺちゃくちゃしゃべっている若い男女も通ったりしているのだが、誰も俊樹たちに気が付いていないかのように通りすぎていく。 気が付いていないのだ。 誰もが、俊樹たちを自分の意識から無意識に完全に排除しているのだ。 〈結界〉の高等業、〈姿隠し〉。ともかくも人の意識からその存在を排除し、近寄らせなくする業である。新沢中学校から飛んで帰ってくるときも、この技が絶賛稼働中であった。 ちなみに、この技は高等な割りには簡単に破る方法がある。けれども現在は夜なので、誰にも気付かれないだろう。もしも気が付いた人がいたら……そんなあなたに漏れなく素敵なプレゼントを御用意させていただきます♪ ――瑠華にもこういう事を教えなきゃならんな〜。 そう思いつつにやにや笑う。その時、瑠華を背負っているときの瑠華の重みと温かさを思いだして、にやにや笑いは微笑みに変わった。瑠華、ぐっすり眠ってたよな〜。 やがて、少女が一つの家の前で止まった。 保坂。 表札を確認して、少女にコートを脱ぐように指示した。コートを回収したあと、眠るように指示して眠らせた。 少女を抱き抱えてインターホンを押す。 『――はい……どちら様でしょう?』 しばらくして、中年おばさんの声がインターホンから漏れた。少し疲れた感じのする声だ。行方不明中の娘の身を案じていたのかもしれない。そうだという確信がある訳ではないけれども。娘の身を案じない親というのはいつの世でもけっこういるものだ。 「すいません。ここ、保坂奈美さんのお宅ですね? お嬢さんを届けに来ました」 乱暴に受話器をフックに掛ける音がしてインターホンが切れた。どうやら、ちゃんと娘の身は案じていたようだ。 家の中から二人分の走る音。どたどたという音と供に玄関が開かれて出て来た、母親らしき中年おばさんと親父さんっぽいメガネをかけた痩身(そうしん)の男に、俊樹は帽子で目の部分を隠しながら会釈をした。 「すみません。彼女を」 「な、奈美!」 おばさんが俊樹が抱えている少女を見て絶句した。と、家の中からまた誰が出て来る。 表に現われたのは俊樹の抱えている少女よりも年上そうな女の人だった。 「奈美!」 驚きに固まっている両親の脇をすり抜けて、お姉さん(だと思う女の人)が俊樹の前まで裸足で出て来た。 俊樹が女の子を差し出すと、女の人はすぐに受け取って抱え込み、俊樹から逃げるように二歩下がった。 「あ、あなた! 誰? 誰なの!? 奈美に何をしたの!?」 敵意と警戒心を持った目で女の人が見つめてくる。 「ちょっと通りすがりのものですよ。彼女がや……“悪魔”に襲われたので、助けただけです。今はただの睡眠薬で眠らせてありますが、危害は加えていません。では、確かにお渡ししましたよ」 そう答えると、俊樹はもう一度会釈をして背を向けた。 「ま、待ちなさいよ! そんな嘘を付かないで本当のことを言いなさい!」 「彼女に伝えておいてください。『お友達も無事だよ。もう、鏡は割れたから大丈夫』、と。それだけ言えば解りますよ」 そうして俊樹は歩き始める。 誰も追いかけては来なかった。 誰も追いかけられなかったのだ。 それは、人間が触れてはいけないもののような気がして……。 夜色の人の姿が闇夜に消える。ただ、一言残して。 ――ああ、月が綺麗だ――。 |
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