手の内からこぼれる世界


第一章 光と闇の接触

 言葉――意思の疎通ができない者が意思の疎通ができる様にするための、知識のかけら。

 1

 この日も永谷俊樹(ながや としき)は人通りのない寂れた場所を歩いていた。すでに世界の光を眺める太陽は、世界の闇を眺める月と星に押しやられて姿を消していた。
 そこは道路も舗装されていない車の跡が残っているだけの山道。人の気配もなく、また光の気配もなく、また音の気配もなく、ただただ俊樹は歩き続けている。
 そう、人も、光も、音すらもない。
 そう遠く離れている訳でもないのに街の光はなく、街の喧騒も聞こえて来ない。周りには木々や雑草が生い茂っている。しかし、普段ならあるはずの風に揺れる音も擦れ合う音もない。
 あるのは、俊樹の歩く音のみ。

 そこには闇がある。

 全てを飲み込む闇がある。
 それは人間がそうそう耐えられるようなものではない静寂、孤独――。
 ――人間?
 自分の心から浮かんで来た言葉に皮肉を感じて、俊樹は闇の中で独り、くっくっと笑った。
 ――人間? 人間って、なんだ? このように基本は五体で、二本の足で大地に立ち、二本の手を使って周りの物を貪り、そして一つしかない頭で下らないことを考え続けている、これが人間なのだろうか?
 たった独りでは大したこともできないくせに、何を偉そうにしているのだろう。ただ単に、偉そうにしているだけなのが人間ではないのか? 真理だ哲学だ科学だと言っている割りには、嘘は付くし猿真似は続けるし自らの住処――この星を潰そうとしてるし。全然偉くないではないか。
 それなのに自分たちは偉いと思ってる。それが人間なのか――。
 だとしたら、僕はなんなのだろうな。
 僕はまだ人間なのだろうか。もうすでに化け物ではないのか。
 僕はこちらに来た。だから、僕はすでに人間ではないのだろうか。

 否。

 僕は……人間だ。誰がなんと言おうが、僕は人間だ。
 だからこそ、僕はここにいるのだから。

   △ ▼ △

 開けた場所にたどり着く。
 そこには臭いが溜まっていた。
 《闇》が好む臭い。錆びた鉄と泥、すり潰した青草の臭い。それらが混じり合っている。
 もうすぐ夏であるはずなのに感じられる、少し身にしみる特有の肌寒さ。そして、まるで絵の中にいるかのように音がない。
 周りにあるものは元いた世界のそれである。しかし、雰囲気はまさに異界――。この空間にあるもの、感じるもの、臭うもの。全ては異界にあるべきものだ。こちらの世界にはないものだ。
 こちらの世界のものでありながら、こちらの世界に属していない場所。《闇》のいる場所。《闇》はこちらの世界を浸食し、自らの住処を形作る。
 《闇》が好む環境に。
 《闇》が求める空間に。
 《闇》が必要とする世界に。
 別に驚くようなことではない。空間を自らの好む世界に変えるなんて事はこの世界で偉そうにしている人間だってやっている事だ。《闇》が自らの好む空間を作り上げても、それは何らとるに足らないこと。
 《闇》は、古来より恐怖の対象として知られてきた。この科学のはこびる現代においても、それはさほど変わらない。
 人間は闇を恐れている。いくら闇を取り払っても、いくら光で満たしても、人間から闇への恐怖が取り払われることはない。
 人間は知っているのだ。どんなにあがいても、闇からは逃れられないと。
 不安、孤独、哀しみ、憎しみ――。
 どれだけ振り払おうとしても、人間である以上捨てられないことを知っているのだ。なぜならば、生命が誕生する前から闇はそこにあったのだから。ずっとそこに石があることを知っているのに、どうして闇を知らずにいられようか?
 つまりは――闇は、恐れることなどないということだ。
 闇を恐れるということは、石を恐れるのと同じ。
 では、なぜ人間は闇を恐れるのだろうか。
 答えは明快にして単純。

 人間は勘違いをしているだけなのだ。

 人間が恐れているのは闇ではない。人間が恐れているのは、“闇の中にうごめく何か”、だ。
 闇の中に潜み、うごめく何かを人間は恐れているのだ。
 それは単なる暴漢かもしれない。つまりは、自分に危害を加える何か。
 それは単なる想像であることもある。人間の想像力は意外と侮ることはできない。絵の具を使った絵を描くならば、白いキャンパスに向かったほうが想像はできる。しかし、“ありもしないもの”を想像するには真っ暗で真っ黒な空間を見ている方が、人間としては想像力がいかんなく発揮されるのだ。
 だが、そのことに気付いている人間は少ない。大抵の人間は闇にうごめく何か自身を見ようとはせず、それを含む暗闇全てをワンパックにして恐れるのだ。
 しかし――
 俊樹は開けた場所の中央に立ち、“それ”が来るのを待つ。
 しかしながら、闇を恐れるのは結局は有意義なことではある。自分の身を守るということに着眼すれば。
 闇を恐れ、闇から逃れれば、闇に潜む何か自体からも逃れることができる。闇のない、光溢れる場所に逃げ込めば、自分に危害を与えるものは何もない。
 しかしそれでもなお、闇とは人間について廻るものだ。
 明るい場所に出たとしても、あの《闇》はなんだったのか、と一度思えばそこに《闇》が存在することに気が付くはずだ。
 そして、想像をする。《闇》を。闇に潜んでいたかもしれない何かを。
 場合によってはそれは他人へと伝染する。言葉という知識のかけらを用いて、人から人へと、話す人の持つ《闇》を粘土のように引っ付け、形作られながら《闇》は伝わっていく。最終的には、《闇》は《闇》らしく成長を遂げる。それは“物語”として語り継がれていくだろう。
 《闇》を忘れないように。
 《闇》を恐れるように。
 《闇》を認めぬように。

「――皮肉なもんだ」

 俊樹はようやく、音らしい音を発した。それはこの空間における、最初で最後のような声だった。それに続く声なき笑い。
 人間は《闇》を恐れてきた。《闇》を認めないようにしてきた。それが結局、“本物の《闇》”を引き寄せる結果になってしまった。
 人間は世界に対し、個人でも相当な影響力を持っている。そう、“世界に対して”、だ。
 人はこう言うと大抵勘違いをする。自分は周りに対し、大した事はできないと言うのだ。そうではない。それは“社会”に対してであり、それはこの場合の世界ではない。
 人間は知らず知らずのうちに世界に干渉し、世界に干渉されて生きている。多くの人間が同じ、もしくは似た様な世界への干渉を続ければ、世界はゆっくりと少しずつ変容する。
 それが“物語”を通じて一つとなって干渉すれば、世界はそちら側に変容せざるをえない。
 人間が“物語”を紡ぎ(つむぎ)出していくうちに、人間自らが《闇》を自分たちの世界に入れるようにしてしまったのだ。
 “物語”。それは現代における信仰であり、魔術であり、呪いである。
 “物語”は人間の特定の世界への干渉力を強くする。干渉の指向は“物語”の持つ意味に大きく依存する。
 特定の事柄の“物語”は人間の中にある《闇》を育て、引きずり出すようなものだ。
 それは噂である。それは怪談である。それは都市伝説である。
 そういったものを媒介に人間は世界に干渉し、世界を変容させ、そしてついに《闇》を自らの世界へと招いてしまった。
 招かれた《闇》は期待に答えたかのように、人に害をなす化け物であった。
 人を襲うことがある。人をさらうことがある。人を殺すことがある。
 しかしながらそれは人間が求めた《闇》の姿であり、その性質に関して《闇》に非はない。

 そのような《闇》を“人間が求めた”のだから!

 キリスト教だろうがブードゥ教だろうが、太古から《闇》の存在は語り継がれて来た。《闇》は認められている存在なのだ。
 恐れるべき異形の怪物として。
 そう、《闇》は人間に恐れられるためにこの世界へと招かれた。《闇》は恐れられ、遠ざけられ、排除されてきた。
 人間に招かれて人間に排除される。排除されることは太古の昔から解っていたことだ。それなのに、なぜ《闇》はこの世界へとやってくるのだろう。殺されると解っていながら。
 大部分の人間はその事について考えようとしなかった。《闇》の事を怖がってばかりいて、《闇》の気持ちを考えようとしなかった。
 なぜ? なぜ? なぜ?
 ――ああ、そうか。
 そして、一部の人間がその事に気がつく。
 俊樹は、気が付いた。わかったのだ。
 俊樹は《闇》と向き合った。手を差し伸べた。《闇》の存在を認め、そして恐れなかった。《闇》を拒まなかった。
 俊樹は受け入れたのだ。《闇》の存在を。
 俊樹には幼いころから《闇》を受け入れる態勢が整っていた。
 なぜならば、俊樹は自分を《闇》の者として信じていたからだ。そう、産まれながらにして自分の母を殺した者として。
 俊樹はその瞬間から孤独であった。幼い頃から父親には殴られ、友達などというものはできなかった。
 “母親殺し”のレッテルを持つ俊樹にはそれは認めざるを得ない事実。
 だから、認めた。
 自分が生きていることを。自分が罪人であることを。孤独になったのは自分の責任であることを。
 ……ならば、僕は業(ごう)を背負ったまま生き続けよう。少しでも長く業を背負って生きる。それが僕のできる唯一の贖罪(しょくざい)。
 がさりと草が掻き分けられる音がした。無音空間の中における、俊樹以外が発した音。
 俊樹がそちらを振り向く。

 そこにいたのは、《闇》。

 外見は形のないゲル状のもの。黒いスライムとでも言えばしっくり来るだろうか。それは取り止めもなく激しく波打ち、生物を超えた何かのように伸び、縮み、膨らみ、しぼみ、形を変えながらゆっくりと俊樹の前に姿を現わしていた。
 空間に臭いが満ちる。鼻を突くような刺激臭にまでなった。けれど俊樹はせき込みすらせずに、ただじっと《闇》を見ていた。
 また別の場所で草の擦れる音。そちらを振り向くとまた別の、今度は猫よりも一回りだけ大きい大きさの四つ足の《闇》が現われていた。突然、そいつの頭の部分が崩れる。崩れた部分はそれが一つの生物かのように小さく跳ね廻り、本体に噛みつくかのように融合する。本体の頭部がまた生えてくる。そこには作り物のような真っ赤な二つの目がらんらんとしていた。
 またも別の場所から砂利を踏む音。律儀に振り向けばそこには白い手と白い足。それ以外は真っ黒のぐちゃぐちゃの人型がいた。大きさは、小学生ぐらい。身体の内側から噴き出て来るかのようにそいつの身体はぼこぼことうごめいていた。白い手が本体の身体を流れるように動き廻る。ふっと沈んだかと思うと、他の場所から浮き出て来る。
 それらは俊樹から距離をとりつつ、俊樹を眺めている。それはまるで闇夜に潜む猫の様に、敵か味方かを調べるかのような動きだった。
 俊樹はその哀しき《闇》達に向かって両の腕を広げる。
 そして、小さな声で童歌を詠った。

 かーごめ かごめ
 かーごの なーかの とぉりぃは
 いーつ いーつ でーやぁるー
 よーあーけーのー ばーんーにー
 つーると かーめと すぅべった
 うしろの しょうめん
 だーあれ……

「――」
 そして、俊樹は小さくつぶやいた。
 それを聞いた《闇》達がまるで己の存在を激しく示すかのように、吠えた。
 違う。
 彼等は、

 ……啼いていた。

   △ ▼ △

「“サイレンスフィールド(無音領域)”が消失しました。おそらくは《リベル》が《フォウ》と接触、例の行いをしたものと思われます」
 黒ずくめのスーツの男が携帯でどこかに連絡をとっている。男がそれとなく辺りを見回すと、周りでは彼の仲間がライトで周りを照らして状況を確認していた。
 そこには大量の鮮血が飛び散っていた。血の臭いが微かに臭っている。
 風が吹いて周りの草木の擦れ合う音が聞こえた。ざざざざ、と木々がいびつでおぞましげな葉音を奏でている。
 もはや、そこに巣くっていた《闇》達はいない。そこにはすでに音がある。光がある。気配がある。そして、《闇》の臭いがなかった。
「――はい。我々が到着したときには《リベル》はいませんでした。大量の血痕は確認しましたが、死体などはありません。周りの道などにも血痕はありませんでした」
 淡々とした口調で男が携帯に話す。その向こうから聞こえてくるのは、若い女の声だった。割りと早口だがはっきりとした声が運ばれてくる。
「――はい。では処理が終わりましたら帰還します」
 そう男は答えて、携帯の通話を切断した。
 携帯を懐にしまうと、周りの者がそうしているように、ライトを片手に周りの血の後始末にかかる。いくつかの血痕の付いた土や石をサンプルとして、一つ一つを別々のビンに詰めて銀色のケースに入れる。あとの血痕はその場に血食バクテリアを撒いて土を掘り返して、処理は完了となった。
 男達はほとんど無駄のない動きで、無言のままに近くに止めてあった黒いバンに乗り込み、すぐにその場を立ち去った。
 彼らの車の上を覆うように広がっている木の枝で、赤い瞳をともしたカラスが彼等の行動を見ていたとも知らずに。
 黒いカラスは走り去った車を見つめ、車のライトが見えなくなるまで見届けた。
 人の作り出す音が、闇夜の音の中から消え去る。一風の風が吹き去った後、カラスは一度だけ夜の空を仰いだ。そして、大きく漆黒の翼を広げて闇夜へと飛び立った。
 今宵は三日月。夜空には星々が輝き、全てに平等な涼しい風が吹いている。
 カラスは、明りに満たされた街へと飛んでいった。

 人間が《闇》から逃れるために造った砦に――。