手の内からこぼれる世界


 4

 放課後。まだ午後五時半だというのに太陽は西へと沈みかけている。この時期では太陽の沈む時刻が急に遅くなり始める。今では沈む時刻は六時頃だが、もうすぐ六時半頃になるだろう。
 九連水瑠華はほとんど生徒のいなくなった校舎を歩いている。
 目的は、永谷俊樹だ。
 瑠華は授業のあとに担任の寺門に呼び出されて職員室へと赴いた。呼び出しの内容は、まだ受け渡しの完了していなかった生徒手帳と学生証の受け渡しと、二学期以降の学費振込み書類の受け渡しだった。そして、それらに関する説明を受けた。
 三〇分過ぎて職員室を出ると、生徒の数はずいぶんと減っていた。どうやら日本の学生は、学校でやることがなくなるとすぐに学校を離れてしまうものらしい。
 今日の間に永谷俊樹を観察するのはもう無理だろう。永谷俊樹もすでに家に帰っているだろうし、そうなれば瑠華の出る幕はない。人気のなくなった昇降口で一応、永谷俊樹の下駄箱を確認してみると。
 まだ、外靴がある。彼はまだ学校から離れていない?
 ならば。
 瑠華は永谷俊樹の下駄箱を閉じた後、構内へと戻った。彼を探すために。
 彼はまだこの学校のどこかにいるはず。ならば、小細工はしないで彼に直接会って話をしてみるのも一興と思ったのだ。すでにバックアップの特別捜査官には話をつけてある。
 なにも永谷俊樹を監視しているのは瑠華だけではない。
 瑠華以外にもこの酉原高校に潜入しているのが二人。日本の生徒としてこの学校に入れるのは瑠華だけだったが、三人も潜り込めれば上々と言うものだろう。無理をすれば留学生を装った特別捜査官を潜入させることはできるが、手間がかかるのでそれは見送りとなった。
 しかし――なぜ、こちらの素性がばれたのだろう。余りにも早すぎる。
 突然話しかけられるとは思っていなかった。まるで、何日も前から瑠華が来ることを知っていたかのような感じさえした。
 バックアップの特別捜査官にもその事は報告してある。どこかで情報が漏れたのだとしたら、そのうち判るだろう。
 廊下を歩きながら、瑠華は永谷俊樹に関する情報を、もう一度頭の中で反芻(はんすう)した。
 組織が永谷俊樹を見つけたのは二年前の冬。《闇》の存在する場所に人が一人、入って行くのが確認された。
 哀れな被害者になるはずだった。ところが、日本支部の特別捜査官がそこにたどり着くと《闇》はそこにおらず、地面には血が残っていた、という訳だ。
 その血液を解析、さらに顔写真などを手がかりに捜査を進め、組織は一人の人間にたどり着いた。
 それが、永谷俊樹。
 この後も永谷俊樹が《闇》のいる場所で発見されるようになる。そして、永谷俊樹が現われた場所にいたはずの《闇》はいなくなり、代わりに永谷俊樹の血液が残る。
 組織は永谷俊樹を危険人物だと見なした。そして《リベル》というコードネームをつけた。
 《リベル(Rebel)》――反逆者。
 《闇》に関わりを持つ者は敵。元が人間ならば、それは人類に対する反逆者という訳だ。
 人類にとって《闇》は《フォウ(Foe)》――何があろうとも生かしてはおけない、敵。
 当然だ。《闇》は人間にとっての敵だと太古の昔から決まっている。
 《闇》は人間を悪へと誘う。
 《闇》は人間を辱める。
 《闇》は人間を無に還す。
 だから、人間が信じていいものは《光》だけだ。
 《光》は人間を善へと目覚めさせる。
 《光》は人間を昇華してくれる。
 《光》は人間を生へと導く。
 《闇》は排除されるべきもの。《闇》は存在を許されぬもの。
 全てを《光》で満たし、人間は歩かねばならない。
 ――というのが組織の考えだ。
 瑠華は思わずため息をついた。
 御大層な信念をお持ちですねぇ〜。そんな理屈はどうでもいいわよ。
 《闇》は狩る。排除する。
 邪魔なんだから。
 それでいいじゃない。むつかしい理屈抜きで狩りまくればいいのよ。
 それが私のExistent Reason(存在理由)なのだから。《光》に住み着かれた者として。本当なら《リベル》の監視なんかしたくはないのに。さっさと事故にでも見せかけて殺せばいいのに。そうすれば誰も困ることなくハッピーで終わるのに。私だっていちいち帰国することもなかったのに! 大体、せっかく祖国に帰ってきたのにどこにも行けずにずっと監視してろっていうのがおかしい! 何で憎き“敵”なんかに張り付いてなきゃいけないのよ!
 答え――命令に背いたら処罰されるから。場合によってはそのまま殺されるかもしれない。
 瑠華にとって、もはや組織に依存しなくては生きていけないのだ。どこにも行くところがない。“人間じゃない”のだから。
 瑠華は拳を握り締めた。
 その事は、永谷俊樹にも同じことであるはず。彼だってもう“人間ではない”だろう。なのに、この社会の中でのうのうと生きている。
 瑠華にはそれが不思議でならなかった。彼はどうして生きているのだろう。瑠華にはそれが理解できない。
 そして、許せない。
 彼が、普通に生きていることが。“人間”として生きていることが。

   ▲ ▽ ▲

 校舎内を歩き廻って、瑠華は屋上への階段を登っていた。全ての校舎内を歩きつくした今、残っているのは屋上だけ。屋上にいなければ、瑠華は永谷俊樹にはめられたと言うことになるだろうか。
 非常口の扉を開けて屋上へと出る。
 フェンスに囲まれている屋上をざっと見渡し、

「やあ、遅かったね」

 上から落ちてきた声に、瑠華は特に焦りもせずに逆にゆっくりと、今出てきた非常口の上の方に振り向いた。
 そこに、“闇と踊りし者”はいた。近くに通学鞄をおいて、本を片手にウォークマンの音楽を聞きながら、校舎の最も高い場所、給水塔の脇に腰掛けてこちらを見ている。夕日の中に浮かぶその姿は一般人では持ち得ない雰囲気をかもし出していたが、瑠華は敵意を持って睨み付ける。
「……待っていたの?」
「すぐに来るかと思ってたんだけどね」
 永谷俊樹は本とウォークマンを鞄に入れて、こちらに飛び降りた。軽い音と共に着地する。
 彼はかなり危険だ。敵対者であると判っている自分の前に堂々と現われるなんて、かなりの余裕を持っているか、罠が仕掛けられているとしか考えられない。それでもなお、油断は感じられない。一体、何を考えているのかが読めない……。
「さて、僕に聞きたい事があるんだろ? 美少女さん」
「瑠華、よ。そう呼んでもらって構わない。私もあなたのことを俊樹と呼ぶようにするから」
「堂々としてるね。さすがは瑠華さんだ」
 俊樹がくすくすと笑う。瑠華は冷たく俊樹を睨んだ。
「――馬鹿にしてるの?」
「まさか。とんでもない」
 俊樹が屋上のフェンスに寄りかかる。その向こうには夕日が輝いている。
 オレンジ色の夕日の光の中に浮かぶ氷の様な美貌を持つ少女から放たれる、背筋も凍るような冷たい視線を俊樹は全く気にしていなかった。愛想笑いを浮かべて少女を眺めている。
 瑠華も俊樹の隣に俊樹と同じようにフェンスに寄りかかった。これで、夕日を視界に入れなくてすむ。
「それにしても、随分と目をつり上がらせてるね。それが君の普通の顔かい?」
「……」
 黙っていると、俊樹は仕切り直しのように爪先で床を叩いた。
「君は“光と笑いし者”だろ?」
「……なぜ、わかったの」
 こいつから情報が引き出せるのなら、聞き出したほうがいい。情報が正しいかどうかは調べれば判るはずだ。内通者がいるのなら、罠を仕掛けることもできる。
 が。
「感じただけだよ。君が教室の扉の前に来た辺りで判った」
「……感じた?」
 瑠華の疑問声に俊樹は何かを察したらしかった。ふ〜ん、と何かに納得している。
 瑠華は沈黙した。彼の考えていることを探り出す事ができない。何を考えているのか……。
「まあいいや。それで、君の目的は僕の監視かい?」
「今のうちは、そうよ。でも、そのうちあなたを殺せっていう指令が来るかもしれない」
「ふ〜ん」
 俊樹は淡泊に返事をしただけだった。瑠華には彼が素直に納得してしまったのが不思議に思えた。
 まさか命乞いはしないだろうとは思うが、「なぜ?」と聞き返してくるぐらいはするかと思っていたのだ。
 いくら化け物であっても、自分が殺されなければならない理由くらいは知りたいだろうと思ったのだ。けれど、彼の場合はそうでもないらしい。
「殺されるかもしれないというのに、ずいぶんと暢気(のんき)ね」
 俊樹は黙って夕日に染まる空を見上げていた。その表情に恐怖や焦りというものは浮かんでいない。
「別に。慌てて混乱しても助かる可能性が高くなる訳じゃないし。第一、殺されるかもしれないと判っただけで十分だ。対策はたてられるからな」
 瑠華はその少し前まで中学生だった人間の、妙に達観した言葉に首をかしげた。
「組織相手に戦うつもり?」
「悪あがきはするさ。殺されると聞かされてあきらめるようなら、僕はとっくの昔に死んでいるだろうよ」
「――どういう意味?」
「簡単に死を選ぶほど、僕は落ちぶれてはいないよ。どんなことがあろうとも生きるさ」

「――お母さんのために?」

 瑠華はこの永谷俊樹という“化け物”の精神面を探るために、あえて残酷な質問をした。この質問の回答を得られれば、ある程度彼の性格が判る。
 瑠華の言葉に、俊樹が少し言葉を止める。少し逡巡(しゅんじゅん)して、
「――それも、ある」
 そう、ぽつりと答えた。
「ま、感傷だけどね。僕は人の命の上に立っている。それ以前にも数え切れないほどの命の上にも立っている。生きている以上は」
 はるか遠くを流れている雲を見ながら、俊樹は答えた。遠くを見ているその表情には微かな哀しみが感じられたが、瑠華の冷たい視線は変わらなかった。
「それに、今僕には死ねない理由もあるし」
「……それは?」
 瑠華が尋ねると俊樹は少し笑って、
「教えない。友達でもないのに、なぜ教えなきゃならないんだ? “初対面”さん?」
「……」
 瑠華は無表情なままため息をついた。
 俊樹はにやにや笑う。
「ま、やはり順序というものがあるしね。まずは友達からってことでどう?」
「友達?」
 瑠華は不思議な言葉を聞いたかのように怪訝な顔をした。そして、首を振る。
「あなた、自分の立場が解っているの? 私はあなたの監視者であり、馴れ合う気はないわ」
 ただ、冷たく瑠華は俊樹を睨んだ。
「第一、私は人間じゃないから、友達なんて必要ない」
「はぁ? なに言ってんだ?」
 俊樹が信じられないというような表情をする。

「君は人間だよ」

「それに友達って面白いよ」
 少し間を置いて俊樹は笑った。しかし、瑠華は少し体をわななかせた。きっと俊樹を睨む。
「私は……人間じゃない」
「なに言ってるんだ。人間だよ」
「人間じゃない!」
 瞬間、瑠華の両腕がスパークを起こしたかのように光が爆ぜた(はぜた)。
 瑠華は体を回転させて隣の俊樹にフックを仕掛ける。
 俊樹はそれを軽いサイドステップで避けた。大きな音と共にフェンスに大穴があく。
「私はこんな力をもってるのよ!? 人間が持っていない人間以上の力!」
「……」
 人間では捕え切れないような瑠華の攻撃を、俊樹は人間以上の素早さを持って避け続ける。それを追って、瑠華はさらなる連撃を打ち込む。しかし、俊樹にはかすりもしない。
「私は化け物なのよ!?」
 瑠華が風を切り裂く回し蹴りを放つ。
「本当にそう思ってる訳じゃないだろ」
 信じられないスピードで俊樹が片手を地面について横転するようにしゃがんだ。回し蹴りを避け、瑠華の軸足を水面蹴りで払う。それだけで瑠華は簡単にバランスを失ってしまった。形のいい身体が背中から倒れたが、受け身を綺麗に決めてすぐに上体を起こす。
 その瞬間、目にも止まらぬ素早さで俊樹が瑠華の首筋を突いた。
 気管がしびれた。たまらずにせき込む。腕から力が抜けてまた床に倒れた。首元を押さえて、なんとか息をしようともがくができない。視界がかすむ。目に涙が浮かぶ。
 何回かびくんびくんと痙攣して、やっと呼吸がまともにできるようになった。酸素を求めて荒く息をし、唾液が気管に入ってまたせき込んだ。やっとのことで呼吸が安定した。そんなときだ。声が聞こえたのは。
「駄目だよ。女の子が暴れちゃ」
 はっとそばに立っていた俊樹の方を見る。
 次の瞬間、そっと俊樹が瑠華の頬をなでた。優しく頬をなでて、
「女の子は可愛らしく、ね。せっかく可愛い顔してるんだから、怖い顔しちゃ駄目だよ」
 ぼんやりと瑠華はなでられていた。俊樹の手を払い除けようという気が起こらなかった。
 俊樹がなでるのをやめ、手を差し出す。
「じ、自分で立てる、わよ」
 差し出された手を握ろうとはせずに、瑠華は一人で立ち上がった。さりげなく涙を拭き取る。
「残念」
 俊樹は淡泊にそう言って瑠華を見ていた。その微笑を浮かべている表情からは残念そうにしている感情は見えない。まるで瑠華の性格を見透かしているかのような、そんな態度だった。
「私は……人間じゃない」
「そんなわけないだろ。人間さ」
 やれやれ、と俊樹が首を振る。
「なんでそう言えるの? こんな力を持っているのに……。簡単に人なんて殺せるのに……」
「思い詰めすぎ」
 俊樹が肩をすくめる。そして、床に置いていた鞄を手にとって背負う。
「でも、ほっとしたよ」
 俊樹の言葉に瑠華は眉を少し寄せた。
「君は感情の起伏の少ない人なんじゃないかな〜なんて思ってたけど、大丈夫、普通の女の子だね。ちゃんと怒ることができるし」
 瑠華は自分の顔が赤くなるのを感じた。あわてて、俊樹から視線を逸らす。
「さてと、そろそろ――」
 いきなり、俊樹がそこで言葉を切った。瑠華が俊樹を見ると、俊樹ははるか遠くの街の景色に目を向けている。まるで、見張られているのに気がついたときのような、そんな雰囲気だった。瑠華も周りの気配を探る。しかし、監視者らしき気配は見つけられなかった。
「……どうかしたの?」
 瑠華が俊樹に尋ねると、俊樹は瑠華のほうにゆっくりと振り返り、
「――いや、なんでもない。……なあ、夕日を見て、どう思う?」
 俊樹が夕日のほうを見つつ、瑠華に聞いた。瑠華は太陽が山の陰に隠れ、赤く染まった“夕焼けの終わり”を一瞥して、
「――まるで、血のように赤く、綺麗な夕日ね」
「血、か……」
 俊樹は何かを静かに黙考し、ため息を付いた。瑠華には俊樹の考えていることは、やはり解らなかった。
「なぁ、君は、」
 俊樹は瑠華に向かってつぶやいた。

「――紅い光を美しいと思うかい?」

 瑠華はその言葉の意味が解らず、怪訝そうに俊樹を見つめている。俊樹は瑠華の返事を待たずに首を横に振って、
「ごめん、意味のない質問だった。忘れてもらっていいよ」
「待ちなさいよ、ちゃんと説明を――」
「もう六時過ぎか。そろそろ帰ろうぜ」
 俊樹が瑠華の返事も待たずに歩き出した。
「ま、待ちなさいよ」
 すたすたと出口へと向かう俊樹を瑠華は服に付いた汚れを叩き落としながら追いかけた。
 今日も夕日は美しかった。夕焼けに染まった空が光と闇の世界の交代を告げる。
 やがては血の色も闇に呑み込まれて消え去るに違いない。
 きっと、今日の夜空では星たちが舞踏会を開くことだろう……。