手の内からこぼれる世界


 5

 ちょっとした丘のふもとにある四階建てのマンションの最上階の一室。俊樹がドアの鍵穴にキーを差し込んで電子ロックをはずした。
 そこが、彩音マンション402号室、永谷俊樹の家だった。
「アメリカじゃないんだから、玄関で靴は脱げよ」
「わかってるわよ」
 玄関で靴を脱ぎ、家に上がらせてもらう。すると、黒い中型犬が奥から駆け寄ってきた。
「ただいま、ケル」
 俊樹がその犬の頭をなでた。犬は嬉しそうに俊樹にじゃれついたあと、瑠華を見てふんふんと鼻を嗅いだ。
「お客さんだよ。“光と笑いし者”だけど、大丈夫だよ」
 その言葉に瑠華は戦慄(せんりつ)を感じた。
 ただの犬じゃない。冷たい感じがする。違和感がある。
「その犬は、もしかして」
「ああ、《闇》の犬さ。ケルベロスと名付けたかったけど、言いにくいし月並だし可愛くないからケル、と名付けた。危害は加えないから大丈夫だよ」
 俊樹が家の奥へと瑠華を招く。
 瑠華は警戒を強め、いつでも鞄を投げ出して両手を自由にできるように身構えながら奥へと進んだ。
 俊樹とケルと瑠華の足音しか聞こえない。それ以外の音が一切聞こえない。さらには特有の、青草と湿気の臭い。この世界のものではない臭いが家の中に漂っている。
「サイレンスフィールド……」
「ま、こんな家だからね。大丈夫だよ。神経の弱い人ならどうかは判らないけど」
 あっさりと怖いことを言う。普通の家じゃないと宣言するなんて……。
 居間に通される。3LDKの家だ。居間、食事室、キッチン一体型で、個室が三つある。人が独り(と犬一匹)で住むにはちょっと広すぎるような気がする。人の事は言えないけれども。
 おそらくは……家族“三人”で住むために買われた家なのだろう。
「紅茶かコーヒーか、どっちがいい?」
「……紅茶」
「氷は?」
「いらない」
 さっきから妙な視線を感じる。それとなく周りを見回すが、そこら中に《闇》の気配を感じてどうしようもなかった。部屋の棚の上に飾ってある、六角ナットを頭に持つ針金で作られた人形達が異様で不気味な気配を振り撒いている。それが、全く“動いていない”と断言することができないような気がした。
 胃袋に入れられたって訳ね……。
 瑠華は警戒を強めた。油断したらそこに付け入られるかもしれない。
 しかし、瑠華の警戒をよそにだんだんと気配が消えていく。視線も感じなくなった。家の外からの音が聞こえてくる。臭いもどんどんと薄まりかすれて、なくなった。
「お客さんを怯えさせる趣味はないんでね。勝手に怖がられてもいらいらするだけだし」
 俊樹は奥にあるキッチンの冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取りだし、二つのコップに注いで明るい色の木製テーブルの瑠華の前に片方を置いた。
「座りなよ、危なくないから。棒立ちじゃあ辛いだろ?」
 俊樹が瑠華の向こうに座る。ケルは主人の足元にちょこんと寝そべる。瑠華は警戒しつつも俊樹の向かいの席に座った。
「――監視者を家に招くなんて、堂々としてるわね」
「どうせ、いつかは来るだろ」
「それはそうかも知れないけど……」
 妙に俊樹は落ち着いている。瑠華は《光》側の人間であり、《闇》側の人間にとって仇敵であるはずなのに、なぜ俊樹たちは平静でいられるのか。よほどの自信があるとしか思えない。
 特に考えずに紅茶を飲んでいるその姿からは危険は感じられないが……。紅茶には薬の類は入っていないようだ。
「それで、瑠華は僕の何を知りたい? 教えてあげられるようなことなら教えてあげるよ」
「……敵に塩を送るというの?」
「敵だなんて、冷たいなぁ〜」
 俊樹はくすくすと笑った。
「君は僕の“監視者”だろ? もしも殺すつもりなら、いちいち転入なんかするはずがない。事故にでも巻き込んで殺すほうがいくらか安上がりだろう?」
 ぐっと瑠華は歯をかみしめた。自分の考えてた事が読まれたような気分になった。
「付きまとわれるのもめんどいし、ちまちま探りを入れられんのも嫌だしな」
 少し笑って俊樹は紅茶を飲んだ。それを瑠華は黙って睨む。
「睨まない、睨まない。そんなに目尻をつり上げちゃあ駄目だって。せっかくの顔が台無しだぞ」
「……あなたって失礼ね」
 すでに駆け引きは始まっている。すでに戦いは始まっているのだ。喰うか喰われるか……。
 瑠華は俊樹から目を離すことなく、ケルの動きも把握した上で話し始めた。
「――私達があなたを監視する理由は、なぜあなたがこの社会の中で普通に暮らしていられるのかを知りたいからよ」
 俊樹は不思議そうな顔をして、
「なぜって……普通に暮らしてるからに決まってんじゃん」
「それが不思議だって言うのよ」
 瑠華は俊樹を睨みつつも紅茶を飲んだ。なんだそれ? と俊樹が首をかしげる。
「《闇》の力を持ってるヤツが人間に危害を加えずに生きているっていうのが理解できないのよ」
 俊樹は少し困ったような顔をして、
「それは……散弾銃を持っている人に対して、なぜあなたは人を撃たないのですか? と聞いているのと同じだと思うんだけど」
「あなたは人間じゃないでしょう?」
 その言葉を聞いて、俊樹はやれやれとため息をついた。
「僕は人間だよ」
 その一言。その一言に瑠華は怒りで体を震わせた。
「《リベル》の癖になに言ってんのよ! 《闇》と踊ってる癖に、人間ですって!?」
 勢いよく瑠華は立ち上がった。椅子が大きな音をたてる。
 しかし、俊樹は冷静だった。ケルも全く動じない。
 紅茶をおっとりとした動作で飲みつつ俊樹は笑った。
「だから、僕がここにいるんだ。君も同じさ」
 俊樹がコップをはじいて音をたてて遊ぶ。
「君も人間だよ。だから、ここにいる」

   ▲ ▽ ▲

「何をどう思ってるのかは知らないけど、僕らはれっきとした人間だ。確かに妙な力は持ってる。人間を凌駕(りょうが)している。けれどね、そんなのはナイフを持っているか持ってないかの違いでしかない。例えマシンガンを持っていたとしても、人間は人間の社会に依存しなくては生きていけない。
 君は自分が化け物だと言うけど、その事について君の生活様式が何か変わったかな? 食事は一ヶ月に一食でいいとか、暗闇の中で三ヶ月楽勝とか。一年間他人に会わなくても寂しいと思わないという自信はある? 孤独は怖くない?
 ……僕はどれも無理だと思うね。耐えられない。なぜならね、体は変わっても人間にはない力を手に入れても、結局は人間だからさ。精神面はただの人間。友達は欲しい。孤独には耐えられない。食事は一日三食だしちゃんとトイレにも行く。
 結局、力を手に入れたところで何も変わっていないんだ。
 そりゃ、遺伝子とか変わってるかも知れないよ? けれどね、遺伝子なんかで人間を定義するっていうのはどうかと思うね。人間は人間。精神が人間のものならその人は人間。
 つまり、精神の形が人間であればその人は人間。それが“定義”だ」
「……それは、あなたの、でしょう?」
 ああ、と瑠華の言葉に俊樹は頷いた。しかし、それで動揺などはなかった。反論されたりするのを全て解った上でしゃべっているのだろう。
「僕は教科書通りに物事を決めるのがあまり好きじゃないんだ。“人間の定義”はそうである、と僕が信じているだけ。けれどね、この場合は他人の意見なんてものは必要ない。非常に抽象的なものだからね。憲法にも表現の自由は認められてるよ」
 大して悪びれた様子もなく俊樹は言う。そして、ペットボトルから空になった俊樹のコップにまた新しく紅茶を注いだ。
 遠くから電車の走行音が聞こえた。比較的高い位置にいるから、周りの音がよく聞こえてくる。
「そういう訳で、《光》と共存してようが《闇》と共存してようが、僕らは人間だよ。泣いたり笑ったりできる。憎んだり愛したりできる。人間としては十分だろう?」
「あなたに、人を愛する資格なんてあるの?」
 冷淡なる問いかけに、俊樹は少し寂しそうに笑った。
「なんでそう突き放した様な事ばかり言うかなぁ〜。紅茶、いる?」
 瑠華は頷いて、紅茶を注ぎ直してもらった。
「所詮、私達は人間じゃないわ」
 俊樹から目を離す事なく瑠華は紅茶を飲んだ。その視線には敵意がこもっている。けれど、やはり俊樹は動じることはなかった。緊張することも怯える事もなく話を続ける。
「そう考えてるんなら仕方ないとは思うよ。でもね、化け物であっても人から離れる事はできない。僕は誰かを愛したいな〜」
 ふふ、と自分が言ったことに笑いながら俊樹は紅茶を飲んだ。
「何を堂々と……」
「そうかな? 君は人を愛したいと思ったことはない?」
「ないわよ」
 即答で答えた瑠華を、俊樹は哀しそうな目で見た。目を伏せ、ため息をつく。
 ケルが自分の主人の様子を見て、心配そうにしている。俊樹はケルの頭をなでて落ち着かせた。
「……そうかい。でもね、」
 俊樹は少し言葉の間をあけた。
「人を拒絶しちゃ、駄目だよ」
 まるで瑠華を諭すかのように俊樹は言う。
「僕らは人とは違うかも知れない。けれど、その違いは武器を持っているか持っていないかの違いでしかない。人を敵に回したら生きていくことはできないよ」
「《リベル》の割りには弱気ね」
 瑠華の言葉に、俊樹は苦笑をもらした。
「それは君たちが勝手に名付けただけだろう。僕は、孤独は嫌いなんだよ」
 俊樹はわずかに残っていた紅茶を飲み干した。

   ▲ ▽ ▲

「どうでしたか? “サンプル”は?」
「確かに《闇》を宿しているようです」
 瑠華が俊樹の家を出て三時間後。瑠華はすでにベージュの長袖の上着と同じくベージュのツータックのズボンの私服に着替えていた。
 瑠華は俊樹の家から一〇分ほどのところにある高級マンションの七階の一室で、瑠華と共に日本にやってきた特別捜査官の一人と会談していた。
 その家には瑠華が住んでいる。だが、正確にはそこは瑠華の家ではなく、“組織”が禾市に潜入している特別捜査官のために用意したセーフハウスの一つだ。“組織”はこうしたセーフハウスをこの街に何個か設けた。瑠華はその一つに住みついているに過ぎない。
 ガラス製のテーブルを挟んだ向こうのソファに腰掛けて、テーブルに資料を広げているのは中年のスーツの男だった。張り付けたような作り物の笑顔を瑠華に向けている。
 瑠華は少し緊張した面持ちでその男に目を向けていた。
 その男、富山晴也(とやま はるや)こそは瑠華のバックアップであり、瑠華と共に酉原高校に送り込まれた“組織”の中位特別捜査官であった。そして、“瑠華の”監視者でもある。場合によっては瑠華を“処理”するための特別捜査官だ。瑠華は《光》側の人間とはいえ、人間以上の存在を野放しにはしておけないということだ。
「しかし、彼は自分の事を人間だと言い切っていました。話してみた感触でも危険である可能性は低いと思います」
 瑠華は流暢な英語で続ける。
「そうですか。しかし、口ではなんとでも言えますね」
 笑顔のまま富山は言った。
「それにしても、少しばかり出すぎた真似をしましたね。いくらこちら側の存在がばれたからと言って、“サンプル”の家まで出向くというのはやりすぎではないでしょうかね?」
「……」
 瑠華は黙るしかなかった。その笑顔の上官が何を考えているのかが解らない。その張り付けたようなわざとらしい笑顔の下にあるのはどんな感情なのか。まず間違いないのは、好感などは持っていないという事か。
「まあいいでしょう。いつかは行なっていたことでしょうし。“サンプル”からの情報収集としてはおおむね良好です。戦闘データもいくらかは採れたようですし。今のところ問題はないようですしね」
 富山がテーブルの上の資料を片付ける。その中には今日の瑠華の、永谷俊樹に関する報告書も入っている。資料を鞄に入れたあと、鞄から一つの鍵を取り出した。
「“サンプル”の家の鍵です。くれぐれも無くさないように」
 現在、ほとんどの家では合鍵を造ることが不可能と銘打たれている電子キーが使われている。しかし、オリジナルを造ることができる以上は完全に不可能という訳ではないのだ。だから、こうして俊樹の家の電子キーの合鍵がここにある。
「さて、今日の話し合いは終わりとしましょう」
 富山が鍵をテーブルの上に置いて立ち上がる。瑠華は家の出口までその男を見送った。
「解ってるとは思いますが、“サンプル”に深入りは禁物ですよ。私達はあなたを失いたくはありませんので」
「解っています」
「では」
 富山は笑顔を顔に張り付けたまま扉を開けて去っていった。瑠華は扉を閉じ、チェーンロックと電子キーを掛けた。ゆっくりとした足取りで居間に戻ってソファに座る。
 “サンプル”、か。
 あの男は俊樹の事を全て“サンプル”で表わしていた。つまり、彼は俊樹を人間として扱う気は全くないということだ。
 別におかしなことではない。普通。当り前の話。おそらくは彼の中では瑠華すらも“サンプル”なのだろう。人間社会に寄生する寄生虫として。どうやって生きているのかをただ観察しているだけなのだ。
 そして、用が済んだら“モルモット”として扱う事だろう。化け物は、その死体でも重要な意味を持つ。生きているならば検査と実験を行う。
 瑠華がラボ(研究所)にいたとき、瑠華自身には“簡単な”検査しか行われなかった。しかし、他の人のほとんどがどんな扱いを受けたかは知らない。瑠華のよりもひどい扱いを受けた人だっているかもしれない。まさに“モルモット”として。化け物として。

 君は人間だよ。

 何となく、俊樹の言葉が頭をよぎった。

 化け物!

 同時に、大勢の人々からの声が頭をよぎる。瑠華は少しうめいて頭を押えた。
 そこにあるのは自分たち以上の、理解できない力を持つ者に対する“恐怖”。
 大勢の人からそう言われた。“組織”の中でも、《光》を宿している私達が影では化け物扱いされていることは判っていた。
 初めて私を化け物と言ったのは、他ならぬ自分の両親だった。おそらくは両親は喜々として私を“組織”に売り渡したに違いなかった。私を愛してなどいなかったのだ。
 今思えば仕方のないことだとは思う。
 ほとんどの人は《光》や《闇》の事を知らない。なにも知らない人から見れば、妙な光を放って人間以上の事が行える瑠華は十分に怪物だった。理解できないものを扱うヤツのことを、人は“化け物”と呼ぶ。慈悲を乞おうが泣いて謝ろうが、人々は理解できないものを“化け物”と呼ぶ。仕方のないことだ。
 仕方のないこと……。
 けれど……。
 お母さん……お父さん……。

 君は人を愛したいと思ったことはない?

 なぜ? なぜそんな事を聞くの? 人を愛したって何にもなりはしないじゃない! 結局、私は一人で生きていくしかなかった。誰もが私を見て避けていく。

 ワタシハ、バケモノダカラ。

 そうよ、私は化け物。人に愛されるはずがない。だから、人を愛する事などできるはずがない。
 なのに、なぜ彼は人を愛したいというの?
 彼はなぜ、私にはないものをたくさん持っているの……?
 ――もっと肩の力を抜けよ。
 俊樹は瑠華が俊樹の家を去るときに玄関でそう言った。そこにあるのは温かな感情だけだった。ただの、一人の高校生としての言葉だった。
 ――君は、笑っていたほうが似合うよ。可愛いんだから。
 瑠華は無言で彼の家を去った。帰り道、何回も俊樹の言葉が頭の中を走り回った。その度に瑠華は沸き上がる感情を殺そうとした。そんなことない、と何回も自分に言い聞かせた。しかし、抑えることはできても完全に殺すことはできなかった。
 嬉しかったのだ。
 彼は、俊樹は瑠華を一人の“人間”として見てくれるから。化け物としてではなく、人間として接してくれるから。瑠華を普通の女の子だと言ってくれたのは、彼が初めてだった。
 けれども、人間では持ちえない力を瑠華は持っている。人間が持てない力を持っているものは、人間以外。つまりは化け物。
 ――だから、私は化け物のはず。俊樹だって化け物であるはずなのに。
 ソファに深くもたれる。瑠華には解らなかった。

 なぜ、彼は人間として、生きることができるの……?

 ふと、俊樹の家で飲んだ紅茶の味を思い出した。市販のペットボトルの柄を思い出す。ほんのりと甘かったあの紅い飲みもの。
 瑠華は腰を上げ、財布をポケットに入れて玄関へと向かった。
 疑問は、湧かなかった。