手の内からこぼれる世界


鏡の章 ―― Prologue

「ほら! あれじゃない?」
「ね、ねえ、もう帰ろうよ……」
「何言ってるのよ、ここまで来て! 確かめないと帰るに帰れないじゃない?」
 新沢中学校の制服を着た少女が二人、夕日の差す中で物置の様な部屋で赤い布で覆われている長方形の物の前に立っていた。
 その赤い布の下にあるのは大きめの立て鏡。威風堂々と部屋の中で鎮座しているその鏡は、いつからそこにあったのか誰も知らないという、曰く付きのある立て鏡である。
 曰く付きというのは、この鏡には悪魔が住んでいる、というものだった。
 悪魔は夕日を背に持つ女の子が好き。だから、夕日が見える時刻に鏡の前に女子が立つと鏡の世界に連れ去られるという、そんな噂があるのだ。
 そして、女子の集まりでおしゃべりをしているときに出てきたその怪談の様な噂を耳にしたとき、一人の女子が止せばいいのに『そんなのあるわけないじゃない』と言ってしまった。『馬鹿らしい』の太鼓判つきで。
 そう言い切ったのは保坂奈美(ほさか なみ)というショートカットで元気そうな女子だった。成績は中の中で、一人突っ走る嫌いのある中学校二年生。
 で、周りの女子は単純に怒ってしまった。楽しくおしゃべりできればいいのに、馬鹿らしいとはなんたることやと、そういうことである。
 そして、プライドの高い彼女はとうとう『そんなに気になるのなら、私が確かめてくる!』と言い切ってしまった。
 こんなことで馬鹿にされてはたまったものではない。中学生にもなって怪談に振り回されて怖がってるなんて馬鹿らしい。小学生じゃあるまいし!
 ……しかし、時間が経って頭が冷めてくると自分はとんでもないことを言ってしまったのではないか、と思うだけの心の余裕が出てきた。
 例の怪談の起こるとされる時刻が全くの真夜中ではないのでまだましだが、それても曰く付きの鏡である。一人で行くとなると、なんだか怖くなってくる。冷静に考えれば、初めにみんなに言ったように『怪談なんて馬鹿らしい』で片付けられるのだが、なんだか怖い。
 もしも……自分が悪魔に連れ去られたら? 誰かが私を助けてくれる? いや、誰も気がつかなかったら? 私がいなくなったことに気がつかなかったら? 警察に届けられても、行方不明者のファイルに埋もれて忘れられるの?

 もしも、怪談が、本物だったら?
 私は、死ぬの?

 嫌、そんなの嫌!

 しかし自分で言い切った以上は確かめてこなくてはならない。
 いっそのこと、確かめてないけど見てきたことにしてしまおうか?
 駄目。そんな事できない。
 そんな事したら腰抜けよばわりされて馬鹿にされる。実際、ものすごく滑稽だ。もしも他人がそのような事をしたら、自分は間違いなくその人を馬鹿にする。そんな事できない!
 なら、実際に確かめて来なくてはならない。しかし、怪談が本物なら引きずり込まれてしまう。
 どうすればいい?
 そうして思いついたのが、友達と一緒に行けばいいということだった。
 さっそく友達に当たってみた。しかし、みんなその怪談を怖がって付き合おうとしてくれなかった。
 そんな時に協力を申し出てくれたのが二つ隣のクラスの紅山萌絵(あかやま もえ)であった。
 萌絵はおしとやかな優等生タイプでしかも内向的で他人に依存してしまうという、箱入りの女の子であった。さらにはこの怪談の事を全く知らなかったというのもあって、その時は承諾してくれた。
 ……しかし、何も知らないというのは怪談が本物であった場合、かなり致命的なことになる。ので、奈美はこの怪談の事を目的地に着くまでの間に萌絵に話した。
 多分、一度承諾してしまったら嫌とは言えないのだろう、引き腰になりながらも萌絵はついて来てくれた。
「大丈夫だって。ただの怪談に決まってるじゃん。幽霊なんている訳ないんだし」
「で、でも、この部屋、なんだか寒いよぉ……」
 萌絵が少し埃っぽいその部屋を見回しながら言う。
 家庭科準備室。扉の上にある部屋の名札にはそう書かれている。家庭科で使われる道具や教材が置かれるための部屋であるが、ほとんど本来の目的のために使われることなく、家庭科教師の体(てい)のいい物置となっている。
 奈美は目的である鏡にそろりと近寄る。その歩みには口で言うほどの自信はほとんど見られなかった。
 それでも奈美は続ける。
「気のせいよそんなの。びくついてるからそう感じるだけよ」
「それに、何だか変な臭いがするし……」
「ほとんど使われていない物置だもの。変な臭いがしても別におかしくはないでしょ?」
 確かに部屋の中には変な臭いが漂っていた。青草をもみくちゃにして泥と混ぜて、あと錆びた鉄なんかも混ぜたらこんな臭いになるかもしれない。
 けれどもここは家庭科準備室。使われない古い布とかがあるし、そういう物の臭いであるに違いない。
 そして、太陽の位置を確認する。部屋の上のほうにある窓から夕日が見えた。
「タイミングよ〜し! さ、手伝って」
「う、うん……」
 二人掛かりで赤い布を外す。布の下から現われたのは紛れもない大きな鏡。それが夕日の光を反射する。
 少女二人はその鏡を見つめた。自分たちの後ろの夕日が鏡に反射してまぶしい。逆光で自分たちの姿が黒く見える。
 その姿はまるで悪魔のようだった。黒い悪魔のように見える自分たちの姿。それだけでも十分に怪談として成り立つような気がしてくる。
 ……もしかしたら、この鏡にまつわる怪談の正体とはこのことだったのかもしれない。奈美はそんなことを考えながら鏡を眺めていた。
 しばらく少女たちは瞬きすらしなかったが、なるようになるべくして、なにも起こらなかった。
「……ほら、何も起こらないじゃない! やっぱただの噂だったのよ!」
 奈美が勝ち誇ったように後ろにいる萌絵に振り返る。きっと、夕日の逆光で自分たちの姿が黒く見えるとこを昔の人は悪魔のようだと言い、それが怪談になったに違いない。奈美はなんとなく、クラスの友達に対する優越感を感じていた。そして、萌絵に対しても。
 ……ところが、後ろにはセミロングの少女はいなかった。
「――萌絵?」
 奈美はそこにいたはずの少女の名前を呼んだ。しかし、返事はない。あわてて左右を見回す。そこに捜し求める少女の姿はない。
 予感。
 いや、悪寒が奈美の背筋に走った。
 まさか……そんなわけ、ないよね?
 ゆっくりと、ゆっくりと、
 奈美は背後の鏡の方を振り向いた。
 そこにはセミロングの少女の恐怖にこわばった姿が映っていた。
 顔が引きつる。すぐさま後ろを振り向いた。しかし、萌絵はそこにはいない。
 鏡には映っているのに。
 鏡には映っているのに!

 アクマニ、ツレサラレルンダヨ。

「萌絵!? 萌絵!?」
 怪談のフレーズが頭の中を這いずり廻ってパニックを起こしかける。あれは、あれは、あれは、あれは、本当のことだったって言うの!? だって逆光が! 黒く見えるのが! 夕日が!
 奈美は無我夢中で鏡を叩いた。しかし、鏡の中の少女は首を振るばかりでそこから動こうとしなかった。
 奈美は今、起こってしまったことが全く信じられなかった。
 鏡の中に、萌絵が入っているという事実。
 そして。
 鏡の向こうの世界の、廊下から。
 黒い塊が這って鏡の世界の部屋に入って来た。

 悪魔。

 しかし、それは悪魔というよりはただの黒い塊だった。
 しかし、それは悪魔だった。
 黒い悪魔がゆっくりと鏡の世界の萌絵に近づいていく。
 奈美は必至に鏡を叩いて危険を知らせようとした。しかし、萌絵はそれに気が付かず、ただ泣いている。
 奈美が目を見開いた瞬間、悪魔が萌絵に背中から襲いかかった。萌絵は悲鳴を上げているに違いなかった。口を大きく開いて、体を振り廻して必死に逃げようとしている。しかし、その姿が見えるだけで、声や音は奈美には伝わらなかった。
 奈美はどうにかして鏡の向こうに入ろうとした。しかし、鏡は叩けど叫べど、倒れることもなく全く動かない。まるで非常に重たい岩のように、そこから全く動くことはなかった。奈美はそんなことに気を配っている余裕はなかった。萌絵を助けようと躍起になっていた。
 やがて、萌絵が床に押し倒された。間を置かずに悪魔が萌絵の上に覆い被さる。鏡の向こうでこちらに精一杯助けを求めるように突き出された萌絵の腕が悪魔に喰われるのを、奈美は絶望に満ちた目で見ている事しかできなかった。
 奈美は悲鳴を上げた。呑み込まれた少女の名前を叫びながら鏡をどんどんと叩く。しかし、鏡は割れることも揺れることすらもせずにただ少女を呑み込んだ黒い塊を映している。

 次の瞬間、奈美が消えた。

 奈美はその事をすぐには理解できなかった。
 鏡に、自分の姿が写っていない。
 さらに、悪魔の姿もない。
 奈美には解らなかった。
 奈美が、鏡の世界に引きずり込まれた、ということに。
 奈美は一歩、自分を写していない鏡から後ずさった。それと同時に、ぴちゃりという水が跳ねるような音が後ろから聞こえた。それに続くくちゃぐちゃくちゃぐちゃという音の集まり。
 奈美は“死”を感じる恐怖心で震えながら、ゆっくりと、ゆっくりと、目を見開いて後ろに振り返った。

 ――怪談は
 ――本当だった。

   ▲ ▽ ▲

「ん? なんだ、誰かがいたずらでもしたかな?」
 見回りに来た先生が大鏡から赤い布が外れているのを見つけ、ぽんぽんと布についた埃を払って鏡に掛ける。
 太陽が隣の校舎の影に入ってしまって薄暗くなった教室を見回すが、誰もいない。念のために鏡の後ろとかも見たが、やはり誰もいない。
「どうやって鍵あけたんかな……」
 この部屋には鍵がかかっていたはず。鍵は自分が持っているのと職員室に予備があるだけだが……。
 まあいいか。自分が閉め忘れたのかもしれない。もしかするとおちゃめな生徒がこっそり合鍵を造ったのかもしれない。そこはかとなくご愛敬。むしろ、今の時代にまだこういうことをする生徒がいるとは。なんとなく感動ものだ。自分が学生のころはよくこうやって鍵のかかった部屋などに出入りしては喜んでいたものだったが。ああしかしそんなことを喜んでいては駄目だな。それでは教師としての面子が立たない。
 自分が学生のときはよく先生をからかって楽しんでいたものだった。また学生VS教師の戦いをしてみたいものだ。今度は学生ではなく、教師として戦うことになるけれど。
 さてさて、教師としてこの事態にどう立ち向かうべきだろうか。ま、ここには大した物もないし、注意するぐらいでいいだろう。
「異常なし、と」
 そして、先生はその部屋の扉に、すこし嬉しそうに鍵を掛けた。すでに六時を回った今では学校に活気はほとんどない。運動部か、委員会の用事かなどで残っている生徒しか残っていない。自分が学生だったころには閉門寸前まで友達と騒いでいたものだったが、ここの時代、そういうことをする生徒がめっきり減ってさびしい気がする。
「あっ、先生、さようなら〜」
「はい、さようなら」
 廊下を歩いていく生徒たちと挨拶をして、先生はそこから離れていった。毎日そうしているように。いつもそうしているように。何もなかったかのように。
 その場にいた者には、異変に気付く者は一人として存在しなかった。


 その場にいた者には、ね。