私は電車に乗る


第二章 白いカラス

 私はドア横のすみに膝を抱えて座り込んでいた。怖くて怖くて、動くことができなかった。
 私はすすり泣いていた。もう家には帰れないかもしれない。このままここで死ぬかもしれない。だって、お弁当と水筒の入った鞄、彼のところに置いてきちゃったんだもの。
 けれど、ここから動きたくない。電車が走っている。けれど、どこの駅にも着かない。でも大丈夫。線路がある以上、どこかに終点があるはずだもの。絶対、そこに止まるはずだもの。
 そうなの? 本当にそうなの? そう言い切れるの? わからない、わからない、わからない。
「お母さん、お姉ちゃん……」
 私は浮かび上がった人の名前をつぶやいていた。友達、学校の先生、中学校での友達、ペットの名前。
「帰りたいよぉ……」
 私はすすり泣いた。鼻水まで垂らして、それを拭くことすらせず、ただ膝を抱えていた。
「誰か出てきてよぉ……、助けてよぉ……」
 ――何言ってるのよ、自分で独りぼっちになったくせに。
 心の中にいるもう一人の自分――私か望む、強いもう一人の自分が私を馬鹿にした様に言う。
 ――自分で彼から離れたくせに、よくもまあぬけぬけと助けなんか求められるわね。そんなの自業自得じゃない。自分でヒステリーに落ちいったくせに。
 もう一人の自分はとても強かった。そして、彼女がすすり泣く私にささやいてくる。
 歩きなさい、死にたくないなら。
 歩きなさい、家に帰りたいなら。
 歩きなさい、諦めていないなら。
 私は歯を食いしばった。
 そうよ、諦めては駄目。絶望するのはまだ早い。まだ出来ることはある……。まずは、斉藤さんに……謝らなきゃ。
 私はゆっくりと立ち上がった。制服の袖で顔を拭く。そして、歩き

 カツ、

 突然、床を固い何かが叩く音が聞こえた。背後から聞こえた。
 恐怖に凍り付いて振り返ることができない。カツ、カツと音が近づいてくる。私は震えの体を何とか止めようとした。けれど、止まらない。
 ――な、に?
 怖くて、思考が止まりそうになっている。そして頭の片隅で、私の思い出がざーと流れていく。それが走馬灯というものであることに、私は気付かなかった。
 音が、私のすぐ後ろまで来た。それでも、私は振り返ることが出来ず、ずっと立ったまま震えていた。
 ずいぶん経った様な気がする。本当は全然時間は過ぎていなかったのかもしれない。
 動けない私の足元を通って、白いものが私の視界内に入って来た。
 そして、赤い目が私を見た。目が合う。

 私の前に白い鳥がいた。

 白い、カラス。駅にいたあのカラスの様だった。そのカラスの、赤い目が私を見ていた。
 私は動けなかった。そのカラスの目に射すくめられて、目を閉じる事もできない。
 カラスが首を傾げた。そして、ばさあと羽を広げた。羽を広げたカラスは大きく、美しかった。私の体から、だんだんと震えが抜けていく。よくわからないけど、何だか安らぎを覚えた。
 くわぁ、と白いカラスが鳴いた。そして私の前を、私が行こうとしていた後ろの方に向かって歩いていく。私は、なんとなく白いカラスを追いかけた。
 白いカラスさんは思いのほか速く歩いていく。車両の連結部では私が来るのを待って、ドアを開けるように私を促した。私がドアを開けると、白いカラスさんが次の車両に入っていく。
 白いカラスさんは飛ぼうとしなかった。羽を広げて飛ぼうとせず、私を導いているように私の先を歩き続けた。
 何両か過ぎた。少し疲れたな、と思ったとき突然、白いカラスさんが立ち止まった。そして、私を振り向いて、くわぁ、と鳴いた。
「……?」
 私は白いカラスさんに歩み寄って、それを拾い上げた。
「これ、斉藤さんの……」
 私が手にしたそれは、斉藤さんのリュックに取りつけられていたキーホルダーだった。なんで、こんなところに? ……でも、これがここに落ちていたって事は、彼はこの先に行ったのだ。私は通路の奥を見た。はるか彼方に……赤いものが見える。
 斉藤さんの服だ! 斉藤さんがいる!
 私は走りたかった。けれど、白いカラスさんは私の逸る(はやる)気持ちも知らずに変わらぬペースで歩き始めた。
 どんどんと、斉藤さんの後ろ姿が見えてきた。何かを読んでいるのか、その場から動いていない。
 四両過ぎたあたりで、私は斉藤さんの様子が変だ、と思い始めた。あまりにも動かな過ぎる。腕すらも動かしている様子がない。
 そして、隣の車両に来た。隣の奥で斉藤さんが、棒立ちしている。その向こうには暗闇。車両がない。
 そこが、最後尾車両だった。
 しかし……斉藤さんの様子がおかしすぎる。全く動いていないのだ。ただ、通路の一番奥で向こうを向いて棒立ちしている。
 ――“異常事態”が起こったようなんでね。
 ――ファンタジーの世界に入っちゃったのかも知れないよ。
 ――なにせ“異常事態”だからね、何が起こってももう不思議じゃないよ。
 ――何が起こってももう不思議じゃないよ。
 何が起こってももう不思議じゃない。彼の言葉が、私の頭をよぎった。
 くわぁ、とまた白いカラスさんが鳴いた。斉藤さんのいる車両に入る様に促している。
 そして、カラスさんがはばたいて飛び上がった。驚く間もなく、カラスさんが私の肩に止まる。
「ついて来てくれるの?」
 私が肩に止まったカラスさんに聞く。カラスさんは首を傾げて、かぁ、と鳴いた。
 私は、ゆっくりと、ドアに手をかけて、開いた。奥へと空気が流れ込んでいく。
「斉藤……さん?」
 私は声をかけた。斉藤さんは無反応だった。ずっとこちらに背を向けている。
 きゅいっ!
 カラスさんが叫んだ。はっとする。異変が起こっていた。斉藤さんの、左側。そこに何かが揺らいでいる。
 突然、それがはっきりと、青白い何か、になっていく。白いもやがゆっくりと絡み付くように塊となっていって、形がはっきりとでき上がっていく。
 それは、女の人だった。
「やっと、来たわね……」
 ぞくっとするような声が聞こえる……? 声じゃない? ……なに? 空間に満ちている……?
「待っていたのよ……」
 また、その女の人が言った。肉声じゃない。なんなの? この、頭に直接聞こえるような……?
 未知の感覚。私は必死で考えないようにした。混乱しては駄目だ。
 斉藤さんが振り向いた。斉藤さんは目を閉じていた。様子がおかしい。
「あなたたちの時間……」
 ……? 時間?
 斉藤さんが、腕を上げる。電灯の光を何かが反射した。その手には、逆手に構えられた大きなナイフが握られていた。
「斉藤さん!?」
 私は呼びかけた。けれど、斉藤さんは私の声に反応していないように見えた。あの女の人に、操られているの?
「死んで……時間を……」
 女の人がしゃべる。斉藤さんがナイフを構えたまま、目を閉じたまま、こちらに歩いてくる。
「斉藤さん! 斉藤さんってば! 聞こえないの!?」
 私は呼びかけつつ、隣の車両に戻ろうと後退る。私は連結部のドアに背中をぶつけた。慌ててドアを開けようと……開かない!?
「逃げないで……」
 斉藤さんの横にくっついている女の人が言う。ゆっくりと、こちらに近づいてくる。
 私は必死にドアを開けようとして開かないドアを背中に、歩いてくる斉藤さんに呼びかけ続けた。けれど、どんどん近づいてくる。肩のカラスさんもガァァと唸っている。
 どうすればいいの? どうすればいいの? 私、ここで死んじゃうの? 殺されるの?

 ――逃げられないときは、戦ったほうがいいに決まってるでしょ?

 突然、そんな言葉が浮かび上がった。いつか聞いた言葉。誰の言葉だっただろう。
 私は、ドアを開けようとするのをやめた。やるわよ、やればいいのよ、私はこんなところで……、
 あきらめない!
 きゅわっ!
 突然、カラスさんが飛び出した。カラスさんは、明らかに女の人を狙っていた。
「無駄……」
 女の人の言葉と同時に、斉藤さんが間に割って入ろうとした。
「ていっ!」
 けれど、私が斉藤さんに体当りしたことでそれは妨げられた。私と斉藤さんの体が、その女の人にぶつかったはずだった。けれど、私達の体は女の人にぶつかることなくすり抜けて、床に倒れた。カラスさんと女の人の間には何もなくなった。
 つぱん。
 そんな音だった。カラスさんが女の人を突き抜けたときの音は。
「く、く、く、……」
 女の人の呻き声。
「まだ、私を……」
 斉藤さんが起き上がろうとする。私は、彼を起き上がらせては駄目だと瞬時に判断した。なんとか、押え込もうとする。
 ナイフが振られた。私はびくっとしたが、ちゃんと見えてないのか、間合いを完全に外していた。伸ばされた腕が私の肩にぶつかっただけだった。
「ごめんなさい……!」
 私は斉藤さんの頭に体重を乗せた肘を打ち込んだ。確かな感触。激しい激突音とバウンドする斉藤さんの頭。ナイフが放り出されて床に落ちる音。
 ォォォオオオオオオオオオオォォォ……
 何十もの雄叫びが聞こえた気がした。斉藤さんから、何かもやみたいなものが出てくる。もやは煙みたいに四散して消えた。
 ばっと振り向く。女の人が肩から何かをあふれ出していた。そして、かき消えるように、女の人が消えた。
 ほっと一息つく。なんとか、乗り切ったようだ。
「斉藤さん? 斉藤さん?」
 私は彼を揺すって、顔の頬を叩いてみる。しかし、彼は完全に伸びていた。しばらくは目を覚ましそうにない。
 くわぁ、と鳴き声がした。見れば白いカラスさんが、何事もなかったように落ち着いた態度で、シートに置かれている彼のリュックをつついている。カンカンと金属を叩く音。……魔法瓶だ。
 そういえば、私、お茶をかけられて無理やり起こされたんだっけ?
「起こせって言うの?」
 くわぁ、とカラスさんが私を見て鳴いた。
 私はリュックに走って、中から魔法瓶を取り出して蓋を開けた。まだお茶は残っている。私は伸びている彼の元に戻って、顔にお茶をかけた。
「あっ、うあっ」
 すぐに彼は目を覚ました。そして、跳ね起きる。激しく周りを見て私の姿を見て、しばらく動かなかった。
「あっ、あっ、」
 彼は口を半開きにして、しばらく呻いていた。そして、
「高山さん! 無事だったのか!」
「……正気に戻ったのね」
 へっ? と彼は頭に疑問符を浮かべた。そして、思い出したかのように頭に手を当てて呻いた。
「大丈夫? さっき、肘を頭に打ち込んだから……」
「いてて、なんで? えっなに? 何が起こったの? なんで殴られてるの? というか僕、何してたの?」
 彼が顔をぶんぶんと振った。お茶の水滴が飛び散る。それに気がついて、彼は顔を袖で拭いた。
「あなた、なんかよくわからないけど……幽霊みたいな人がいて……」
「……?」
「だからね、」
 私はもう一度説明しようとした。けれど、彼はそれを手を振って制止した。
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。え〜と、いまね、あっ、頭、う〜、整理してるから……もうちょっと待って……」
 彼は膝を抱えて、顔を伏せた。しばらくして、膝に頭を打ちつけ始める。
「だ、大丈夫? ねぇ?」
「大丈夫……痛みで意識を再確認……」
 ぶつぶつと彼は答えた。……放っといたほうがいいのかしら。
 彼は放っとくことにして、私は周りを見回した。そして、気付いた。
 どこにも白いカラスさんの姿がないことに。

 ( ∵ )

 斉藤さんの混乱が静まるのを待って、私たちは情報交換をした。
 聞けば、斉藤さんは私と別れたあと、荷物を持って独りで最後尾を目指したらしい。そしてようやく最後尾についた。車掌室に入るとメモを見つけたと言う。
「時は流れるもの。いつまでも、流れを止めてはならぬもの。私はそれを護り続けよう。私が死んでもここを護り続けよう。これが一ページ目に書かれてた事」
「誰かがいたって事?」
「多分ね……」
 彼は最後尾の車掌室に目を向けた。
「でもね、二ページ目から変になっててさ。穴を掘ろう。どこまでも深い穴を掘ろう。どこまでも深くどこまでも続く……。三ページ目は白紙。四ページ目にね、時の漏れ出す点を見つけた、あいつが護ってた壁に針で穴を開けた。ひゃはは、ばかばーか」
「……なにそれ」
 僕に聞かないでくれ、と斉藤さんは肩をすくめた。
「でね、五ページ目にね……」
 彼は少し声の調子を落とした。
「男と女の二人組み。男が女を引っぱって、けれど女は叫んで逃げちゃった。男は独りで歩いてた。女は独りで泣いていたって」
「……それって」
 私は声が震えていることに気がついた。それは、私たち二人の行動とまったく同じだったから。
「誰かが僕らを見ているって事さ」
 少しの間、私たちは黙りこんだ。
「マジでホラーの世界にいるようだわ、僕ら」
「帰れるの、私たち……」
「ま、あきらめなければね」
 彼は帽子を脱いで髪をかき上げ、帽子を被り直した。
「幸いにしてか不幸にしてか、一応武器らしいものは手に入ったし」
 彼がナイフを手に取る。大きなコンバットナイフだ。
「メモを読んでいたら、後ろに誰かの気配を感じてさ、振り返ったらいきなり、どうにかなっちゃって。記憶は君にお茶をぶっかけられたところにつながっていると」
「そのメモは?」
 彼は首を傾げて、
「あるとしたら、あそこにあるはずだけど」
 彼が車掌室のほうに向かって歩く。私も彼の裾をつかんで歩いた。
 彼が車掌室のドアを開けた。少し中に入って周りを見て、
「ない。なくなってる」
 と答えてすぐに車掌室から出てきた。車掌室からは外の暗い線路が続いているのが見えた。けれど、線路には電灯が一つも取り付けられていないため、電車から少し離れた部分は闇の中に溶け込んでいた。
「もう、気付いてるかもしれないけどさ」
 彼がそばのシートに腰を降ろす。私もその横に座る。
「この電車というか、線路自体、多分僕らの世界のものじゃない」
 私はもう驚かなかった。けれども、
「なんで、そう思うの?」
「この路線、カーブが一つもないんだ。あと、上下の傾きも感じられないし。世界一長い青函トンネルでも路線の傾きはあるはずだし、途中に駅二つあるし」
「……そうなの?」
「うん、そうなんだ。……さてと、和美さんの話を聞かせてくれよ。僕と離れてた間、何があったんだ?」
 私は話した。白いカラスさんの事を。そして、白いカラスさんに連れられて最後尾まで来て、斉藤さんが棒立ちしていたことを。そして、斉藤さんが幽霊みたいな女の人に操られていたことを。そして、幽霊さんのしゃべった言葉……。
「ふ〜ん。幽霊さんのご登場、ね。キーワードは時間、のようだね」
「うん……よくわかんないけど、私達の時間がどうしたって……」
「時間、時間か……。まだ、よく解んないな。保留にしよう保留に。考えんの禁止。OK?」
「う、うん」
「他に、気付いたことない? 些細なことでもいいから」
 私は思い返す。あの時のことを。私は決意した瞬間に駆け出した。何も考えずに、斉藤さんに体当りした。そして――、
「――私が体当りしたとき、女の人にぶつからなかったわ」
「――ふむ」
「それで、次の瞬間、カラスさんが女の人に攻撃して……女の人、肩から何かを流してて……」
 斉藤さんはふむふむと頷いた。
「重要な事柄だ。僕らはその女の人には触れない。けれど、そのカラスさんは攻撃できる」
 私はあっと気がついて、頷いた。
「どうやら、そのカラスさんと女の人はこの電車の中の住人のようだね。しかも敵対している。王道で行くなら、僕らはそのカラスさんと女の人の戦いに巻き込まれた、というか呼び込まれたようだね」
 はたして王道とはいかなるものなのか、知識がない私にはよく解らなかった。でも、巻き込まれたとか呼び込まれた、というのは納得できる。
 けれど、
「なんで、呼び込まれたのかしら……」
 ある程度の事はさっきの出来事でわかった。けれど、それが判らない。なぜ、私達が呼び込まれたのかの理由が。
「さてね。呼び込んだ本人に聞くしかないね。ただ単に派閥争いかもしれないし、案外、意外な理由かもしれないし。でも、」
 彼は続ける。
「呼び込んだのは白いカラスさんの方だと思うな」
「――なぜ?」
「駅のホームで見かけたから」
 彼は思い出すかのように答えた。
「話を聞く限り、その幽霊さんの方にも僕らに用があるみたいだけど……先に見たのは白いカラスさんの方だ。もしかしたら、品定めでもしていたのかも」
 私は頷いた。
「ま、なんにしろどっちかから話を聞かないと何とも言えんね」
「――そう」
 いくつかの疑問が解消された、いや、説明出来るようになったことで、私はいくらか落ち着いた。わからないことはまだあるけれども、混乱に陥るほどではなくなった。
 斉藤さんがリュックを開いて何かを探している。
「え〜と、高山さん」
「――なに?」
 斉藤さんがリュックをごそごそと探って、板チョコレートを二枚取り出した。
「チョコレート、食べる?」
 私はしばらく差し出されたチョコレートを見つめて、受け取った。
「――ありがとう」
「いやいや。やっぱ、疲れた時、腹減ったときにはチョコレートだよなぁ〜」
 斉藤さんが包みを破って、チョコレートを食べ始めた。私も包みを破ってチョコレートを食べる。
 ほんのりと甘いミルクチョコレート。チョコレートなんてここのところ食べた事なんてなかった。おいしかった。今まで味わった恐怖と不安をいくらか洗い落とせるくらいに。
 チョコレートを食べ終わると、残り少ないお茶を分けあって一息つく。
 斉藤さんはチョコレートの包みを使ってコンバットナイフを包み、それをズボンのポケットに入れておいた。
 ポケットに入れなくても手に持っておけばいいじゃない、と私が言うと、刃物を持ってる人間は怖く見えるんだよ、と斉藤さんは答えた。私への配慮らしい。
「話を整理しての今の段階のキーポイントは、メモ、白いカラスさん、幽霊、そして、時間、だ」
 私は頷いた。
「とりあえず、幽霊さんは敵としてもいいと思う。実際、死ねって言ってきたんだろう?」
 私はまた頷いた。
「白いカラスさんはどうかな……。幽霊さんを攻撃したって事から味方と置いてもいいような気がするけど、まだ真意が判らないしな。演技って事もありうるし……敵味方識別不明、と言う事で」
「……疑り深いのね、斉藤さん」
 斉藤さんは苦笑して、
「性格だよ」
 と答えた。
「でもね、高山さん。生き死にの問題となったら敵味方はきっちりと区別する必要があるっていうのは解るでしょ? いきなり後ろからドスっと刺されるのは嫌だし」
 言われればその通りだ。確かに、生きるか死ぬかの問題になったら敵と味方の区別はつけないといけないだろう。自分が生きるために。
「これから先頭車両に行く事になるけど、重要なのはパニクらないことだ。冷静に。あと、できる限り疑問を考えないことだ」
 私は頷いた。けれど、本当に混乱しないようにできるかは判らない。前の混乱だって、今思うにほとんど突発的なものだったように思う。また突発的に混乱に陥らないという保証は、ない。
 彼が立ち上がる。私も立ち上がった。そして歩き出そうとして、
 突然、私の携帯が鳴り出した。慌てて自分の鞄から携帯を取り出した。相変わらず、圏外の表示。けれど、新着メールが一通。
「死んだと思った……おどかすなぁ〜」
 斉藤さんが一息つく。
「また、僕が見ようか?」
 私は首を振って、メールを開けた。
「はやく、そこから離れて。もうすぐ、時が来る。そこから六車両を切り離す。急いで、先頭のほうに戻って。早くしないと……喰われる?」
 私はメールを読み上げて、斉藤さんを見た。
「警告、ありがとうってとこか」
「誰が送ってくるのかしら……」
「議論はあとだ。せっかく教えてくれたんだ、急ごう」
 私達は荷物を持って駆け出した。連結部のドアを力任せに引きあけて通り抜ける。六車両目に入ったとき、突然振動が走った。
「走れ!」
 後ろからの斉藤さんの声。私は走った。
 そこの連結部は運転席のある車両をつなげた部分だった。私が七両目に入ったとき、突然、後部車両が切り離された。
「そんな殺生な!」
 まだ後部車両には斉藤さんが残っていた。どんどん距離が開いていく。
「斉藤さん!」
「ドアから離れて!」
 私はすぐにドアから離れた。間一発、斉藤さんがこっちの車両に飛び乗って――「うわわわわ!」
 なんとかぎりぎり届いたけど、バランスをくずして線路に落ちそうになって――なんとか、私は斉藤さんの腕を掴むことができた。慌てて引っぱり込む。
「あ〜、また死んだと……思った」
 斉藤さんがへたり込む。
 が、すぐに飛び上がった。
 大きな金属音がした。慌てて、今切り離された車両の方を振り返る。離れていく車両はすでに車両の電灯の明りしか見えなくなっていたが、妙に傾いで(かしいで)いることがわかった。
 大きな金属音の中、いきなり明りの形がひしゃげた。
 つぶれていた。そして、明りの光が上に移動して、消えた。
「……」
 私達はしばらく黙っていた。やっと、斉藤さんが連結部のドアを閉じた。運転席から出る。
「落ちたようだったな」
 私はよくわからなかった。理解していないことがよくわかる表情で彼を見ていると、彼がそれに気が付いて、
「最後に、光が上に向いただろ? 多分、下に落ちたんだよ」
 彼が腕を水平にして、手の甲が上になるように傾け、腕全体を下に落とす。電車の車両がそういう動きをしたということを図示しているらしい。けれど、私はまだ理解できなかった。
「――落ちたって、どういう事?」
「この向こう、もう線路がなくなっているようだ。……喰われているのかな?」
「喰われている……?」
 私はドアから車両の消えた闇を見つめた。そこには闇があるばかりで何も見えなかった。