私は電車に乗る


第一章 電車に乗って

 私は高校一年生の女の子。いつも電車に乗って学校へ行っている。
 目覚ましを止めて顔を洗い、寝癖のついたショートヘアの髪に櫛を入れ、制服に着替えてお母さんが用意してくれた朝食を食べた。それから歯を磨いて行ってきま〜すと叫ぶ。お母さんの見送りを受けながら、いつもの足取りで家を出た。
 すっかり秋の日差しの中でダイエットのために歩き回っているおばさんに会い、公園を通って近くの小学校へと歩いていく通学途中の小学生を眺めて、そして駅に着いた。
 黄色い蛍光色の服を来たおじさんが違法駐輪に目を光らし、通勤途中の人達が急いだように歩いていて、他の学校の制服を着た高校生が歩いていく。駅前広場の階段を昇って線路の上の通路を渡って改札口へ行く。

 それは、いつも通りの朝だった。

 ――なんかつまんない。変わった刺激が欲しいな〜。
 とぼとぼ歩きながらそう思う。毎日毎日、ルーチン化した行動パターンでは退屈で仕方がない。少しでもいいから、何か変わった事が起こらないものか。
 そして、私は“変わった刺激”を見つけた。
 駅の改札口の天井にぶら下げられている大きな時計に、鳥が止まっていた。珍しい。
 それはカラスだった。しかも体の色が白い。鳥の来ない場所に白いカラス。二重に珍しい。
 白いカラスはせわしなく周りを見ていた。不安そうにきょろきょろと自分の下を歩いていく人々の群れを見ている。もしかしたら、ここに迷い込んできて、人が多いあまりに出られなくなっているのかもしれない。出口は今私が歩いてきた連絡通路の先か、反対側のエスカレーターを下ったところ、もしくはホームへと降りる階段の先しかない。どれも鳥が飛んで抜けるには少し狭いだろう。特に、人が多い今のような状態では。
 可哀想だけれども私にはどうにも出来ないと思い切り、私は改札口に足を向けた。
 今日はいいことがあるかもしれない、と思いつつ通学定期を自動改札口に通す。気を良くした私は、少しだけ元気になった足取りでホームへと降りた。
 おっ、と私は思った。私はまたしても珍しいもの、じゃなくて人を見つけた。
 青い帽子に赤い上着に紺色のズボンにリュックを背負っている男の人。いつもの朝のホームでは見た事のない人だ。彼がこちらを向いたとき、帽子によくわからないマークが付いていた。文字も書かれているようだったが、なんて書かれてるのかは見えなかった。
 ちょっとした好奇心で彼の背後に近寄って観察する。リュックにキーホルダーが付いている。驚くべきことに、それは手製のようだった。着色が絵の具、多分アクリル絵の具でなされていた。
 彼の帽子に付いていたのとほぼ同じマークが付けられたキーホルダー。その下のほうに、《Block Element》と書かれている。意味は……わからない。“塊の要素”? 他の意味があるのかしら。ま、どうでもいいか。
 電車がやってきた。八時五分発。これに乗れば八時二五分には学校につける。この前、電車の故障でダイヤが遅れに遅れたときは結構焦ったけど、今日はちゃんといつも通りね。
 けれど乗り込んだ瞬間、私は変な違和感の様なものを感じた。しかし、何が変なのかを見つける前に後ろから乗り込んでくる人々にせかされて、私は電車の奥へと押しやられた。

 ( ∵ )

「っうぁ!!」
 私は跳ね上がった。か、顔が、顔が!
「ごめん、目、覚めた?」
 それよりもまず、私は自分の顔をこすった。水で濡れている。必死に制服の袖で顔をぬぐった。
 自分の身体がぐらぐら揺れているように感じる。自分がどこにいるのか、どんな体勢でいるのか、自分が服を着ているのか着ていないのか、全ての感覚が混乱を起こしていて、何も判断できなかった。
「ちょっと手荒く起こさせてもらったよ。お茶で代用したんだけど」
 私は目を開いた。私の前にさっき、駅で見かけた青帽子の人がいた。手に魔法瓶を持っている。
「“異常事態”が起こったようなんでね」
「……いじょうじたい?」
 私はぼんやりと、車酔いでも起こしたような頭で周りを見た。私は電車のシートの上に寝かされていた。いつの間に私は寝かされたのだろう? それはともかく、ひとしきり周りを見ても、私は何が異常なのかがすぐには判らなかった。そして、目の前にいる男に目を戻した。
「あなた、誰?」
 私は聞いた。私、どうしちゃったんだろう。
「僕は斉藤隆(さいとう たかし)」
「……斉藤、さん?」
「そう。よく解んないんだけど、こんな事に……」
「……?」
 私は周りをもう一度見た。そして、“その”異常にやっと気が付いた。
 誰もいなかった。私と彼以外、誰もいなかった。窓から外を見る。電車は地下を走っているみたい。……地下?
「何が起こったのかはよく判らないけど……この電車、地下を走る部分なんかなかったはずだ」
 その通り。都会の中を走るこの電車には、地下を走る部分なんかなかったはずだ。それなのに、何で地下を走っているんだろう?
「私、何でここに……」
「電車に乗ってたんだろう?」
 彼は当然のように答えた。けれど、私は理解できない。納得できない。
「なんで私、倒れてたの?」
 頭を押えて、彼に聞く。分からない。
「さぁ……なんでだろ。僕も倒れてたんだ。あそこらへんに」
 彼がドア前の床を指す。
「でさ、君以外、だ〜れもいないのにちょっと混乱してね。ちょっとぼんやりしてたんだけど。で、君が起きないもんだから、ラグビーよろしく、ヤカンから水をってしたかったんだけど」
 彼がお茶入りの魔法瓶を見せる。ヤカンの代わりに魔法瓶を使った、と言いたいらしい。
「さて、ちょっと混乱してると思うけどさ、君の名前、教えてくれない?」
 私はぼんやりと彼を見つめた。よく解らない。よく解らないけど、
「高山、和美(たかやま かずみ)」
「カズミさん、ね。さて、これからどうする?」
 彼がシートに座った。私もシートに座り直す。その時、座席の下に自分の通学鞄が倒れているのに気がついた。
「どうって言われても……」
 通学鞄を拾って抱え込みながら、私はよくわからずに答える。
「――どう考えても、僕らは“異常事態”に引き込まれたようなんだ。誰もいないし――」
 彼が窓の外を見る。ドアの外に電車の中の光に照らされたコンクリートの壁が見える。
「大体この鉄道、複線のはずなのになぜか単線を走ってるようだし」
 彼が反対側の窓を指す。見れば、窓の少し向こうをコンクリートの壁が流れていく。もう一度、こちら側の窓を見る。やはり少し向こうを壁が流れている。壁までの距離がこの距離では、その間を電車が走るなんて事は無理だろう。
 つまり、もう一つの線路が、ない。
「それに、減速とか加速とかが一切感じられないんだ。僕が起きてから、すでに次の駅につけるくらいの時間は経ってるはずなんだけど……なんでか、駅につかないんだ」
「……駅に、つかない……?」
「うん、そう」
「……え? ちょっと待って? なに? どうしたの? え?」
 ようやく、ぼんやりしていた頭が回り出す。しかし、浮かんでくるのは“?”マークばかりだった。
「なんと答えていいのか……“異常事態”に巻き込まれたとしか」
「……なに? “異常事態”って?」
「――人がいない。僕と君以外」
 彼は答える。
「車両が八両以上ある」
「……?」
 私はその言葉が理解できなかった。
「通路の真ん中に立って、見てごらん」
 彼が“どうぞ”と手をゆっくり振って促す。私は立ち上がって、通路の奥を見た。連結部のドアの窓からとなりの車両が見える。そして、その奥の連結部の窓からさらに次の車両が見える。
 その奥にも次の車両が見える。
 その奥にも次の車両が見える。
 その奥にも次の車両が見える。
 その奥にも次の車両が見える。
 その奥にも、その奥にも、その奥にも、その奥にも――
 延々と同じ光景が続いている。ずっと一直線で、加速も減速も揺れもカーブもない。かたたん、という車輪がレールのつなぎ目を渡る音さえなければ、合わせ鏡を見ているのかも知れないと疑ったことだろう。自分の姿が映っていないので、合わせ鏡をされているのではないことは判るが……。
 そして……先頭車両も、最後尾車両も、見えないことに気が付いた。そして、はるか遠くまで見えるその範囲内に、人が一人もいない事にも気が付いた。
「……うそ……」
 私はそこに転がっている事実に愕然(がくぜん)とする他なかった。
 その光景は誰もいなくて気持ちいい、爽快♪ なんていうのはとっくに通り越していた。誰もいない、その事実。
「嘘、嘘よ……きっとどこかに隠れてるのよ」
「して、隠れてる理由は?」
「理由……理由なんて……」
 すぐに出てくると思った。けれど、考えれば考えるほど、隠れる理由なんてないことがわかる。どんなに考えても、隠れる理由が思い浮かばない。でも、でも、なんでそんなことをするの……?
「僕ら以外に乗っていた人達は、実はオリンピック出場可能なほどに暇を持て余していて、それで隠れんぼ競技に出場してるのかな? 僕らが鬼で。いやもしかしたら、僕らは本当は隠れなければならないのかもしれない。もうすぐ鬼が来るのかなぁ? あは、あはははは……はぁ……」
 自らの意味不明な言葉に自ら呆れたように、斎藤さんはがくっと肩を落としてため息を付いた。それから顔を上げて、
「他の人がいなくなったのか、僕らが別の場所に運ばれたのか」
 彼がさっきとは違う氷のように落ち着いた声を出した。少なくとも、私には彼の声は氷のように冷たく感じた。
「どちらにしろ、なんでそんなことをするのかの理由が判らない。これはもう、“異常事態”に巻き込まれた、として片付けたほうがいい」
 私は彼の言うことが解らなかった。いや、違う。理解することを拒絶しているんだ。信じたくないんだ、今の自分の状況を。馬鹿みたいに滑稽なこの場所にいることを。
「それとさぁ、時計、持ってる? 持ってるんだったら、今何時か見てくれない?」
 私は混乱した頭を抱えたまま、アナログ腕時計を見る。時間は……、
「……あれ?」
 アナログ時計ならば絶対になければならないはずである、長針、短針、秒針がすっぽりと消失していた。私は少しぼんやりしてから、鞄から携帯を取り出した。開いて、画面を見る。
 まず圏外の文字が目に入った。視線を下にずらして、そこで私はまた首を傾げた。時間が表示されていない。ちゃんと電源は入っているのに?
「なによ、これ……」
 私は腕時計と携帯を彼に見せた。彼は肩をすくめて、彼のデジタル腕時計を見せてくれた。パネルには何も表示されていない。
「さて、どういう事だろうね? 電池が切れてる訳でもないみたいだし」
 彼は苦笑を浮かべつつ時計をいじった。ピッピッという音が出ている。
 そして、また肩をすくめた。本当にどういう事なのかわからない。
「さてと、ここで取れる道は四つある。ここでじっとしてるか、先頭車両に行ってみるか、最後尾車両に行ってみるか、」
 彼はいったん言葉を区切って、シートの下のある部分を眺めた。そこには、
「非常ブレーキを引いてみるか」
 シートの下の小さなくぼみ。そこに非常ブレーキがあった。
 確かに非常時のためにあるのだから、今ブレーキをかけてもいいかも知れない。けれど別に今、非常時じゃなかったら? もしも何もないのに勝手に電車を止めたら、ダイヤを狂わせたとか言われて莫大な損害賠償を求められることになる。絶対にそんなことになって欲しくはない。
「と、とりあえず、誰か他の人を探しましょうよ。歩いていったら、誰かに会えるかもしれないし……」
 私は混乱している頭で必死に意見を出した。
「じゃあそうしようか。さて、先頭に行く? 後ろに行く?」
 彼は前と後ろを指して、私に聞いた。でも、私にはどちらへ行けばいいかなんて判らない。考えがまとまらない。
 どちらに行けば人に会えるのか……後ろか、前か? もしかしたら、どちらに行っても会えないのではないか? 誰も、いないのではないか?
「……わかんない。あなたはどうするの?」
 彼は意外にもすぐに答えた。
「後ろの方」
「――なんで?」
 彼は少し苦笑して、
「ゲームとかじゃ、全てのマップを歩いた方がいいんだ。アイテムとかあるかもしれないから」

 ( ∵ )

 私たち二人は電車の進行方向とは逆に、つまり電車の後ろのほうに向かって歩いた。けれど、
「ねぇ、あと何両ぐらいで後ろに着くの?」
「さぁ?」
 彼は暢気(のんき)に判らない、と答えた。それもそのはず、この電車には一体何両つながれているのかがよく判らないからだ。
 普通の電車なら、多くても一〇両がいいところだろう。けれど通路から見える後ろ、もしくは前の車両は何両あるのかが判らない。
 車両がずっと続いているように見えて、端が見えないのだ。まるで無限に続く回廊のよう……。
 一二両歩いた。けれど、まだ後ろには着かない。見えすらしない。
「この電車、私たちが乗ってた電車じゃないのかしら……」
 私は電車の通路を見渡す。車両の造り、広告、ドア横の路線地図。どれも私が学校へ行くときと帰るとき、あと近くの遊べる街に行く時に使う、あの私設鉄道の電車に間違いなかった。
「車両は僕らが乗ってた電車に間違いないみたいだけどね。ファンタジーの世界に入っちゃったのかも知れないよ?」
「そんな訳……」
「じゃあ、これをどう説明する?」
 彼はがらんとした車両を見渡して、私を見た。私には答えられなかった。
「誰かのいたずらだとしても、ちょっとやりすぎじゃない? 無駄だよ。こんなの」
 彼はそう言って、また歩き出した。律儀に閉まっている連結部のドアを開けて先へと進む。
 運転席のある連結部に来た。計器を見てみる。速度計測器には何も表示されておらず、ユニット表示(つまり、他の運転席で制御されている)で、時計は……何も表示されていない。
 私たちがいた車両から二一両目に入った。まだ後ろには着かない。見えもしない。
 時間が過ぎる度、歩く距離が長くなる度にどんどんと混乱と不安が大きくなる。
 理解できない納得できない判断できない。他の人はどこに行ったの? なんで私達はこんなところにいるの? 私達? 私の前を歩いている彼はどんな人なの? 危ない人じゃないの? 私はどこにいるの? ここはなんなの? 誰かいるの? 私は何をしたらいいの……?
 わからない、わからない、わからない。
「どうしたの〜? 和美さん〜」
 はっと前を見る。斉藤さんとの間がかなり開いていた。立ち止まってしまっていたらしい。
「大丈夫? どこか具合悪い?」
 斉藤さんが私の傍まで戻ってきて、尋ねる。私は首を振った。
「少し、休もうか?」
 私は頷いた。ちょっとでも落ち着きたかった。私達は誰もいない車両の中で誰も座っていないシートに座った。斉藤さんは反対側に座っている。
「あなたは……」
「ん?」
「あなたは、なんで、そんなに平気そうにしていられるの?」
 私は不思議でならなかった。私は自分でもよく解らないほどに混乱している。疑問がたくさん出てくるのに、答えが見つからない。彼だって同じ状況に放り込まれている。なのに、なんで彼は平気そうにしているのか。わからない。
「……多分、小説を書いてるからだよ」
「……?」
「小説だよ、小説。ライトノベル」
 私にはよく解らない。小説とこの状況がどうつながるのか。
「つまりさ、いつも想像してるんだ、こういうことを」
 だからなんだと言うのか。
「言い換えると、非現実をいつもシュミレーションしてるんだ。運動前のイメージトレーニングと同じだよ」
 ……変だ。そうだ、彼は変だ。いつも、非現実を考えている?
「そんな事で……あなたは平気にしていられる、の?」
「限界はあるだろうけどさ、今はまだなんとか状況は飲み込めているよ」
 狂ってるとしか思えない。なんでこんな状況で平然としているの? 違う? 狂ってるのは私のほうなの? 彼が普通で、私が異常なの?
「わからない……」
「えっ?」
 私はつぶやいていた。しかし、声が小さくて、彼には聞き取れなかったようだ。けれどもそんな事、関係ない。
「わからない、わからない、わからない、」
 私はわからないと連呼する。彼が困ったような表情で、しかし納得した様な声で、
「……そうだね、確かに解らないことが多すぎる。けど、だからって暴れちゃ駄目だよ」
「わからない、わからない……」
「考えちゃ駄目だ。何も考えるな」
「そんなことを言ったって、誰かちゃんと説明して……。ここから出してよ……家に帰して……」
「昨日の晩ご飯はなんだった?」
 突然、彼は私に聞いた。昨日の晩ご飯を思い出す。
「……ご飯と魚……菜っ葉の漬物……なすのいためもの……」
「友達からメールは来た?」
「来てた……」
「学校の予習はしてる?」
「そんなのしてない……」
「自分は水をよく飲む方だと思う?」
「……うん」
「風呂上がりに牛乳を飲む?」
「飲まない……」
 彼はこの調子で、私の昨日の行動を聞いてきた。私はよく解らずに答えてしまう。昨日の私の行動を次々と思い出す。
 お姉ちゃんからハサミを借りた。スナック菓子を食べた。お風呂に入った。シャンプーが切れてた。洗濯された服をタンスに片付けた。昨日の学校の授業、六時間目は国語だった。五時間目は化学だった。昼休みは友達と面白いTVについてしゃべってた。四時間目と三時間目は保健体育だった。二時間目は英語だった。一時間目は数学1だった。
「と、こんなところかな」
 斉藤さんが問答をやめる。私は不思議だった。
「なんで、こんなことを聞いたの?」
「今の状況とは関係ないことを考えたら、気分が良くなっただろ?」
 そう言えば……あれ? 私、かなり混乱してたはずなのに……。
「違うことを考えていればいいんだ。そうしたら、混乱しなくて済む。危なくなったら、昨日でも一昨日でもいいからこの状況とは関係ないことを思いだしてだな、疑問を持たないようにするんだ。考えたら混乱のどつぼにはまるよ」
 彼がパンパンと手を叩く。その音に少しびっくりしてしまったけれども、少し落ち着いた。自分ではない人が発した音だから、かな。
「でも、人間の限界はたかが知れてるから、気をつけてね。一時期安心しているように思えても、あっさり壊れること、あるから」
「うん……」  それは、どうしようにもない制御不可能な危険への警告、だと私は思った。
 斉藤さんがシートに深く持たれて、首を横へと曲げた。が、すぐに持たれていた体を起こして立ち上がって、斉藤さんが何も言わずに歩き出した。

 置いていかれる!

 恐怖が私の心に湧き起こり、慌てて私も斉藤さんのあとを追いかけた。そしてその向こう、車両の一番端のシートの上に週間漫画雑誌が置かれているのに気が付いた。ぱらぱらと、車両の中を流れている風にめくられている。
「人がいた感じはあるのにな……」
 彼はつぶやくと、その漫画を手にとって読んでみた。そして、
「……なんだこりゃ。三週間前の雑誌じゃないか」
 彼は一番最後の次号発売日の日付を見て、そう言った。見せてもらうと日付は二週間前。この漫画雑誌は週単位で発売されるものだから、これが発売されたのは三週間前ということ。
 しかし、なぜそんな古い雑誌が電車の中にあるのか? 誰ももう持ち込まないだろうし、普通なら一週間読んだらもう読まないだろう。よっぽど面白い読み切り漫画があるという訳でもないようだ。
「どうなってるのかしら……」
「ファンタジックに考えるのなら」
 彼が答える。
「時間が戻っているって事かな?」
 つまり、タイムスリップしているというの? そんな馬鹿な。
「――そんな訳ないわよ。だって、タイムスリップなんて、誰かが想像したものでしょ? いたずらよ。こんなの」
「そうだといいんだけど。なにせ“異常事態”だからね、何が起こってももう不思議じゃないよ」
 突然、金属性の音が響いた。
 びくっと音のしたほうを見ると、からからとコーヒーの空き缶が廊下を転がってくる。
「不気味さ満点だね」
 彼は空き缶を拾って、シートの下に立てた。
「さて、そろそろ行こうか」
 私たちはまた歩きだした。

 ( ∵ )

 三四両目。けれど、まだ最後尾に着かない。
「どうなってるの、この電車……」
 私は呻いた(うめいた)。一体、何両つながっているというのか。いくら何でも長すぎる。
「貨物列車のようだねぇ」
 彼が暢気(のんき)に答える。
「よくそんなに気楽でいられるわね」
 私は彼にいらついていた。もう少し不安そうにしたらどうなのか。
「怖がってても仕方ないんだよ。どうにもならないことなんだって、すぐに判るさ。それよりも別の心配をしていた方がいい」
「……別の心配って?」
「食料と、水」
 彼は立ち止まって答えた。
「君も思っているだろうが、この電車は何両つながっているのか判らない。本当、あと何両歩けば後ろに着くことができるのか判らない。後ろに着いたら、今まで歩いてきた車両分戻って、さらに歩かないと先頭車両には行けない。その間に食料と水がなくなるって事もあるんだ」
 私は彼の話を聞いて、本当におかしくて笑ってしまった。
「こ、この電車の中で、餓死するとでも、言うの? ふっふ、そんな訳、ないじゃない……」
 そう言っているそばから、私は涙を流し始めた。
 わからない。
 何で自分がこんなところにいるのか、わからない。
 他の人は?
 なんで駅に着かないの?
 この電車は何両あるの?
 家に、帰れるの……?
「家に、帰りたい……」
 私は床に座りこんで泣きながらつぶやいた。
「――まずは、歩いてくれ。そうすれば帰れるさ」
「あなたはそう言い切れるの……?」
 私の言葉に、彼は少し言い淀んだ。けれども、すぐにはっきりと、
「――あきらめたら、おしまいだ」
 目の前に黄緑色のハンカチが差し出された。
「あきらめたら何もできない。僕は、あきらめない」
 私は彼を見つめて、差し出されたハンカチを受け取った。
「……そうね」
 ハンカチで顔を拭き、私は立ち上がった。
「――行きましょう」
 彼が頷く。

 その時だった。

 私の携帯のメール着信のメロディーが流れたのは。二人ともびっくりした。全く予想していなかった。
 メロディーが鳴り終わり、電車の走行音しか聞こえなくなった。しばらく二人とも無言だったが、斉藤さんが目を私の鞄に向けて、私にただ一言、尋ねた。
「――メール?」
「……う、うん」
 私は混乱と、言いようのない不安に駆られた。だってさっき見たとき、圏外だったじゃない! それなのに、どうしてメールが届くの!?
 誰? 誰? 誰? 誰?
 外から? それとも、この電車の中から……? 誰が、私の携帯にメールを送ったの? なんでメールなんか送るの? 見ているんだったら、なんでここに来ないの……?
 私は震える手で、自分の携帯を鞄から引っぱりだした。
 メールが一通、来ていた。けれど、電波は相変わらず圏外だった。
「ご、ごめん。あなたが読んで」
 ほとんど押し付けるような形で、私は彼に自分の携帯を渡した。
「俺、携帯持ってないから、操作の仕方わかんないんだ」
「……左のメールボタンを押して、受信フォルダを開いて、新着メールを選んで、決定」
 彼が言われた通りに操作する。
「件名は……ないね」
 彼がメールを開けて、一回目を通した。そして、平坦な声で読み上げる。
「早く来て。もうすぐだから。もうちょっとよ。お願い、早く来て」
 彼が携帯から目を離す。彼の目に映る私の顔は、きっと恐怖に歪んでいるだろう。
「……差出人の名前はないよ」
 私はまた床に座りこんだ。女の人からかな? という斎藤さんのつぶやきも、もはや私を助けてはくれなかった。
「ついでに、発信、到着時間も書かれてないよ」
「……なによ」
 私は、叫んだ。とうとう、なんとか保っていた心の均衡が崩れてしまった。
「なによ! なんなのよ! 一体何がしたいのよ! なんで、なんで!」
「さぁ、さっぱり……」
「あなたも何よ! そんな落ち着いたような顔をして!」
 私は飛び起きて彼につかみ掛かった。彼は振りほどこうとはせず、黙って私の暴力を受け入れた。けれども必死に訴える。
「落ち着け! 冷静になれ! 考えちゃ駄目だ!」
「なによなによなによ! 私が何をしたって言うの!? 何でこんな目に会わなくちゃならないのよ!」
 私は彼を突き飛ばして、彼を置いて走った。私を制止する彼の叫びが聞こえたけれども、私は止まらなかった。
 走って走って走った。
 そして、やっと立ち止まって、後ろを見た。誰もいなかった。

 私は独りになってしまった。