ぼくらの思い出


場面3 夢の終わり

 夏休みも半ばに達した頃、片山が早く役を覚えるために、役の名前で呼びあうようにしようと提案した。確かにそうすれば役を覚えるのは早くなる。そうすることに決定された。
 そうして練習していくうちに、“それ”が起こりはじめた。

「ああ、夏だな。暑いし……だるいし……」
「言わないで……わかってるから……」
 ぼけけ〜としたエキストラその一の男子のつぶやきに、エキストラその二の女子が力なく文句を言う。
 蝉の声が聞こえる。もう、やかましい。しかし、暑かろうがうるさかろうが学校に来ないといけない訳で。ふぅ〜。
 ああ今日も劇の練習は続く。それに伴おうが伴わなかろうが、道具は造らないといけない訳で。
 他のクラスに比べると、三年七組はかなり楽な方だ。五組なんか、自転車を入れるでかい段ボール箱をもらってきて何か造ってるし。今はまだただの寄せ集めだが、一体何に化けることやら。
「そんなこと言ってないで、練習しろよ。ボケるんだろ」
 エキストラその三の男子が喝をいれるようにズビシ、と拳を掲げる。
「わかったよ〜」
 その一が答えた。
 その一が紙を取り出す。真っ白な、上等な紙だ。大きさはA4。それを折り始める。てきぱきと折られて、紙飛行機が姿を見せる。それを楽しげに一回飛ばす。うん、いい感じだ。
 そして、床に落ちた紙飛行機を拾いあげ、それを机の上に置いた。
 何を思ったか、いきなりその上に座る。
「出発進行!」
 その一が叫ぶ。そして、紙飛行機をお尻に押し付けて、キーンと口で言いながら少し歩きだす。そして、
「できるかアホー!」
 と紙飛行機をドビシと床に叩き付ける!
 それを目撃し、その二とその三が噴き出した。
「あはははははははは!!!」
 もう爆笑! その三がどんどんと床を叩き付ける。
「ヒットヒット!!」
「やるわねぇ、きっと受けるわよ、それ!」
 その二が口に手を当てて、笑いながら答える。
「はぁ〜、なんか情けないよ。僕は。さっ、次やれ! 次!」
 顔を赤くして、その一が手を振った。
 ひとしきり笑って、その三が立ち上がり、教台の上に立ち、教室の向こうに向かって、
     愛っていったいなんなんだ!?
      恋人っていったいなんなんだ!?
       愛してるだけじゃだめなのか!?
        って言うか俺は愛されたいのか!?
         なんなんだよ、畜生〜〜〜〜〜〜!!!

 叫ぶ。その三が叫ぶ。熱いぜ、その三!
 ウオオオオオ〜とその三は教室から駆け出して行った。
「……ああ、あの人、いったいどこへ……」
「気にすんな、これも青春の一ページなんだ。“青春とは何もかも実験である”。バイ、スチーブンスン」
 がたっと音がした。教室の後ろのほうのすみ。そこには大江がいた。馬手(右手)にうちわ、弓手(左手)にアイスという夏対策の装備を持っている。足元にはクーラーボックスと水の入ったバケツ。
 くっ、とその一がうめく。そりゃそうだろう、クソ暑いのに、クソ暑いのに、クソ暑いのに〜〜〜!
 ――そう思ったのは一瞬である。
「はい、オッケー。アイスをどうぞ〜」
「待ってました〜」
「わ〜い」
 その一とその二がだるげな歓声をあげる。
「俺もくれ!」
「大丈夫、ちゃんとあるよ」
 戻ってきたその三にも声をかけ、大江はクーラーボックスからアイスを取り出した。それを、全員に渡す。
「やっぱ、アイスはいいなぁ〜♪」
 その三がアイスをがりがりと削って食べている。
「“ボケる練習をしている”とこの練習はもういいかな。それにしても暑いよなぁ、ミツル君」
「仕方ないよ、夏だもん」
 大江、いやミツルが笑う。
 廊下を走る音が近づいて来る。現われたのは森川、いやトシロウだった。
「ごめん、遅刻した」
「どったの、トシロウ」
 ミツルが机に腰掛け、アイスをなめながら聞いた。
「母さんにおつかい頼まれて、遅れたんだ」
「森川君と大江君、役の名前にすっかり慣れたみたいね」
 その二がポツリと言った。
「……え?」
 森川、いやトシロウが疑問符を浮かべた。
「もう、役名に変えて二週間か。もう完全に慣れただろうね」
 その三が頷く。
「なあ、森川と大江って……誰だ?」
「は?」
 と声をあげたのは大江だった。エキストラ三人も怪訝そうな顔をしている。
「どうしたんだ? おまえ」
「そうだよ、自分の名前、忘れたとでも言うのかよ!?」
「……え〜と、なんだったっけ……? 思い出せない……」
 トシロウが頭を抱える。
「おいっ! おまえの名前は森川だぞ! ……気分がよくないのかもしれないな。今日はもういいよ。家に帰って休むんだ。いいな?」
「えっ、でも練習……」
「いいから帰るんだ。そして思いっきり寝ること。いいな!」
「……わかった、そうする……」
 トシロウ、いや森川がくるりとこちらに背を向ける。大江たちが見守る中、森川はとぼとぼと歩いて教室から出て行った。
 その後ろ姿にはまったく力が籠っていない。“森川”という人物の存在が希薄な様に感じた。
 しばらく沈黙が立ちこめた。その場にいる誰もが、何が起こっているのか正確に理解できなかった。お互いに顔を見つめあう。けれど、誰もが疑問顔で不安げだった。
 ただ一言。
「森川のやつ、いったいどうしたって言うんだ……?」
 大江の言葉だけが、その場を支配した……。

 ♪♪♪

 混乱が起こり始めた。メインの役の人の中にこんな思い込みをする人が現われ始めた。
 原因はあまりにも、相異なる人格の強制移入……。そして、元来の性格までも変わり始める人が出てきた。
 誰もが、そんな事が起こりうるとは思わなかった。何も、警戒しなかった。あまりにも受け入れすぎた。そして、気付かなかった。

「一糖のグルコース、フルクトース、ガラクトースは、C6H12O6。二糖のスクロース、マルトース、ラクトースは、C12H22O11。水、H2Oを加えると分解して一糖になる……。アミノ酸。グリニン、H2N−CH2−COOH。アラニン、CH3−CH−NH2−COOH……」
「あら、ソウタさん。何をなさってるの?」
 空木、いやアスカが片山、いやソウタに話しかける。ソウタが読んでいるのは化学の参考書。かなり読まれているらしく、マーカーやアンダーライン、書き込みなどで汚れていた。
「いや、ただの有機化学の勉強だよ。劇の練習の休憩の間に少しでも覚えたくて。大学行きたいしね」
「あらそうなの? 大学といいますと、東京大学?」
「いや、僕ではとても行けませんよ。アスカさん」
「あらそうなのですか。ごめんなさいね」
 アスカが離れていく。それをちらりと横目で睨みながらソウタはつぶやいた。
「まったく、世間知らずのお嬢様が……」
 大学といえば東京大学しか出てこないのか。鼻で笑いながら周りを見る。教台の端にはトシロウが何か神妙な面持ちで目をつぶって座っていた。他にはアスカがいるだけだが、アスカは教室から出ていった。
 アスカさんと入れ替わりにカオルさんが教室に入って来たのが見えた。
 カオル、いや佐村はソウタに近づいた。今は休憩時間だから、特に用事はないのだけれども。ただ単に暇だったのだ。
「あっ、勉強してるわね〜、片山、じゃなくてソウタ君。今は休憩時間だから、劇の人物の性格通りにしてなくてもいいのに」
 くすくすと笑う。しかし、ソウタは真面目顔で、
「いや、真面目に勉強しないと大学に行けないからね。国公立大、行きたいから」
「なるほどね。それにしても……ソウタ君、性格変わったね」
 ソウタはきょとんとして、
「えっ、そうですか? カオルさん」
「うん、かわったよ。夏休みの前なんかじゃあ、『大学に行ったってどうせ遊び回るだけで勉強してるやつ、少ないじゃん』って言ってたのに」
「そんなこと言ったかな? ……でも、今は僕は大学に行きたいんだ」
「そう、がんばってね」
 佐村はソウタから離れた。次になんか黒板の前でストレッチをしている森川のところに行った。
「トシロウ君、なにしてるの?」
「えっ? いや不審者……犯罪者を見つけたときに取り押さえるイメージトレーニングをしてたら、身体も動かしたくなったもんで。絶対に警官になるんだ」
「不審者……それって変態である君のことじゃないの?」
 佐村は冗談のつもりだった。森川も自他ともに認める変態。笑うだろうと思って。
 しかし、そうならなかった。
 森川、いやトシロウは――いきなり、怒鳴った。
「なんだって!? 僕は変質者なんかじゃない!! 僕は警察官になるためにがんばってるんだ! 勝手に変質者にしないでくれ!!」
 あまりに突然の事に、予想だにしなかったことに佐村は言葉をなくした。一瞬、頭が真っ白になる。
「……わかりました。ごめんなさい……」
 ゆっくりと、後退る。トシロウはまた教台に座って、しかめっ面で目をつぶった。
 周りを見ると、ソウタがこちらを見ていた。しかし大事に至らずと判断したのか、また参考書に目を落とした。
 おかしい。片山君は、あんなそっけない態度はとらなかったはずだ。森川が怒鳴ったならば、すぐに飛んできて原因究明に乗り出すのだけど……。
 みんな、どうしちゃったんだろ。あんな人たちじゃなかったのに……。
 まるで、別人じゃない……。

 ♪♪♪

 夏休みも三分の二が終わった。何だか奇妙な感じがする。あまりにも早く日々が過ぎていくような……。けれども楽しいんだ。今が。何ともいえない、みんなと協力して劇の練習をしていることが。台詞を覚え、役になりきり、演技をする。
 そこはぼくらの世界。ぼくらが創造する、ぼくらの王国。誰にも邪魔されない。努力と面白さと快感のある場所。
 そうだよ、楽しいんだ。これからが。
 けれども何かを失っているような気がしてならない。
 それは、なんだ?
「おいソウタ。準備はいいか?」
 はっと我に返る。そうだった、笛を吹かなきゃならないんだった。いままで練習してきた、あの曲を吹かなきゃ。トシロウと、一緒に。
「じゃあ、いってみようか。一、二、三、」
 ソウタとトシロウがリコーダーで曲を奏でる。
 木の葉の舞う秋の森にいるような、そんな雰囲気を持つ曲。夏の今では雰囲気の外れた曲ではあるが、劇を披露する文化祭は秋にあるから問題はないはずだ。
 三分間の短い曲。それでも、綺麗な曲。それだけに難しい。ソウタとトシロウはそれを吹き切った。
 曲が終わり、拍手がされる。ミツルだ。
「うまい! すごい! チカさんも、すごいと思うだろ!?」
 ミツルは教室の後ろのほうでうつむいているチカに振った。しかしチカは何も答えず、ちょっと顔をあげて周りを見たあと、また元の状態に戻った。
「……つくづく、無関心なお人だなぁ〜」
 しかし心の中では、
(あれが大佐かよ。もう、全く威厳も元気もないなぁ〜)
 と、大江は思った。まったくもってして半年前の面影が見受けられない。ここ最近、奥義を発動する瞬間を見たことも聞いたこともない。まるで何かの病気にでもかかっているかのように、ここ最近はずっと静かなままだ。一体、どうしたというのだろう……。
それはともかく、大江は首を回りにめぐらせた。次に、
「カオルさんは、どうだった?」
「べつに、なんにも」
 んん! ムードブレイカー! 見事に雰囲気ぶち壊し! すばらしい! ここまで役の性格をものにしているとは!
「でも、やっぱりリコーダーとか吹いてると小学校、中学校を思い出すなぁ。あの頃はよかったな。大学も、勉強も、あんまり考えなくてよくて」
 ふと、劇とは関係ないことをしゃべった。頭の中を小学校での思い出が流れていく。そういや、誰かが好きな子の笛をなめたとかって言ってたような……。
「そうだな、無邪気に遊んでるだけだったな。あの頃は」
 トシロウが頷く。ソウタも頷いて、
「僕は、今も楽しいよ。僕の考えた劇をみんなと一緒にすることができて」
「そうだよなぁ〜。けっこう変更多かったけどこの劇はソウタが作ったんだよな」
「うん、そうそう」
「よく、ここまで出来たよなぁ〜」
 ソウタは笑って、
「いやいや、みんなの協力があったからだよ。結局のところ、僕だけじゃこの劇は完成しなかった。この劇を完成させたのは、みんなだよ」
 ソウタはとても嬉しそうだった。
 みんなで協力して、劇を創る。それこそがソウタの願いだった。
 初めは採用されないと思ってた。ただ、創ったということがみんなに知ってもらえばそれでよかったのだ。
 ところがソウタの劇は採用された。そして、みんなの意思の元で再構築された。今使っている台本は、もう継ぎはぎだらけだ。一回、全て印刷し直したこともある。
 それでも、みんなが投げ出さずにソウタの劇を支持してくれた。本当に、嬉しかった。
「さて、次の練習に行こうか」
 ミツルの言葉に、トシロウとソウタ、チカ、カオル、アスカが頷く。
「じゃあ、始めようよ」

 ♪♪♪

「も〜すぐ、夏休みもおしまいかぁ〜」
 男子生徒が窓から外の景色を眺めた。今日も快晴、暑い! けれども、もう、九月はすぐそこ。もうすぐ、新学期が始まるのだ。
「そうね、劇の練習も終わりにきてるし……」
 彼の隣を歩く女子生徒が答える。手には、自分たちのクラスの台本。もう、継ぎはぎだらけできれいな部分はほとんどない。けれども、それが自分たちがこの劇に対する努力を思わせるものだった。
「そうだな、練習ももう終わりか……。楽しかったなぁ〜」
「青春って感じだったわね……」


「もうすぐ、夏休みも終わりだな」
 ミツルがつぶやく。
「もう蝉の声も少なくなってきたしな。……夏休み終わったら、みんなとはほとんど遊べなくなるんだよな」
 トシロウが教室の外に広がる景色を見ながらつぶやいた。
 とても名残惜しい。本当に、そう思う。
「そうだな。だからこそ、クラスの友情魂を合わせてこの劇を完成させようぜ!」
「ああ。この劇は僕らだけの劇だからな。一人でも欠けたら、完全な劇ではなくなると思うよ」
 ソウタが頷いた。
「じゃあ、病気にならないように体鍛えないとな。どうだ? 今からバスケをしに行こうぜ。鍛えてあげるよ」
 ミツルが腕を叩きながら笑う。
「いや、僕は予備校の夏期講習に行かないと――」
「いいから行こうぜ。太陽の下で汗を流すことも必要だよ。運動不足なんだろ?」
 ソウタの言葉をミツルがさえぎる。ソウタはしばらく考えていたが、笑って、
「――わかった。行こう」
「警官をめざしてる以上、運動しないとな。よ〜し、バスケ部員に劣らぬ俺のテクニックを見せてやる!」
 トシロウが意気高揚とガッツポーズをとる。ゴゥッ! と熱い空気が流れる……様な気がした。
「そこまで言われたら引き下がる訳にはいかねぇな! とことん、やってやる! 行くぞ!」
 ミツルが叫んだ。そして、腕を回して、外に出るように促す。
 と――
「はい、完璧です。大丈夫でしたよ。もう本番でも大丈夫だと思いますよ」
 教室の後ろから見ていた小野寺先生が三人の前に出てきた。
「そうですか。くぅ〜、いい感じの緊張感が……きてる、きてる、きてる〜〜〜!」
 ミツルが左手の掌に右手の拳をぱしぱしと当てる。
「はぁ、つぎは本番か。緊張するな」
 トシロウが吐息を吐く。
「みんな忙しくて、全部を通したリハーサルはできそうにありませんからね。後はイメージトレーニングをするだけです」
「先生、今日の六時ごろなら全員集まることができます」
 トシロウが答えた。先生は少し驚き、
「へえ、そうなんですか。けど六時ですか。もう学校閉まってますけど」
「がんばってください、先生」
「……わかりました。なんとかしてみます」
「イェ〜、先生、頼れるぅ〜! こんど、奢りますよ♪」

 この日の午後六時に僕らは集まり、僕らの劇をみんなで練習した。みんな、楽しかった。この劇は、人生で忘れられない劇になるとみんな考えていた……。


 緊急車輛が通ります。緊急車輛が通ります! ご注意ください!
 ピィーポーピィーポーピィィィポーヒーポーヒーポー……

 ♪♪♪

「そして夏休みが終わり、僕らのクラスの一人が死んだ。バイクではねられたのだ」
 トシロウが言った。
「運転者は同じ歳の高校生だった。無免許ではなかった。ただのスピードの出しすぎだった」
 チカが言った。
「死んだのは、僕らの劇を考えだしたあいつだった。僕らは愕然(がくぜん)とした。この劇は、一人でも欠けると完成することはできないと僕らは考えていた」
 ミツルが言った。
「だからこそ……」
 カオルが言った。
「だからこそ……」
 アスカが言った。
「だからこそ、僕らはこの劇を多くの人に発表した」
 トシロウが宣言する。
「死んだあの人の思いを受け継いで」
 チカがささやく。
「僕らの劇はあまりいい評価は得られなかったけど、僕らには評価なんてどうでもよかった!」
 ミツルが叫んだ。
「僕らはこの劇を忘れはしない。あいつを忘れはしない!」
 トシロウが叫んだ。
 そして、その場の全員が叫んだ。
「僕らの人生の中の僕らの劇だから!!」


 みんなで演劇について考えていた。そこに持ち込まれた一冊の台本。その台本の内容はとても拙くて、まだまだ完成しているとはとても言えない物だった。だから、みんなで作ろうと決めた。

 ――会議が開かれている。そこには三人の男子生徒と三人の女子生徒、そして教師の七人。黒板らしきものに『劇決め』と書かれている。

 一学期のある日、LHRでそのことをクラス全体に伝えた。賛否両論の意見がそれぞれから飛び出し、けれども委員長の働きで場を納得させた。
 僕たちは、私たちは演劇そのものがわずらわしかった。
 なぜ、大したことでもないのにそんなに騒ぐのか。やったって、どうせつまらないものになるに決まっている。僕たち、私たち素人が二ヶ月ちょっとがんばって練習したところで、客に笑われるに決まっている。

 ――十人前後の生徒達が机に座りながらもわいわいとしゃべりあっている。そのうちに一人が立ち上がり、何かを持った手を生徒一人一人に差し出し、紙片を取らせ始めた。

 私たちは、演劇なんてものやりたくなかった。
 私たちがなぜ劇をやらなければならないのか。三年生の文化祭では、演劇をやることになっているから? 疲れるだけじゃない、この暑い中で練習しても。せっかくの夏休みを、なぜしょうもないものにつぎ込まねばならないの?

 ――暗闇の中から聞こえてくる生徒のざわめき声。そしてそれを静めようとする声。生徒の故意が聞こえなくなったと同時に、こんな声がスピーカーから聞こえてきた。
「え〜、明日から夏休みに入ります。くれぐれも体調に気をつけ、高校生である自覚を持って生活していただきたい……」

 僕たち私たちは、文化祭が解らなかった! なぜ、みんなそんな物に平気で時間をつぎ込めるのか。もっと、他にやりたいことはないのか。なぜ、

 そんなに楽しそうなのか。

 解らなかった。だからかもしれない。僕たち私たちが、そこにいたのは。

 ――机に座っている男子生徒に別の男子生徒が近寄ってきて、「役割は何だった?」と聞いている。「俺……役者になったよ」と尋ねられた生徒は嫌そうに答えていた。

 僕たちは、役者をやることになった。
 私たちは、役者をやることになった。
 台本を読んで自分の役を覚え、体を動かして声を出し、その場にいることを“当たり前”にした。演劇をやることが嫌な自分たちがそこにいることを“当たり前”にした。

 ――一人の男子生徒と一人の女子生徒が、腰をかがめつつ口に手を当てて誰かを探している。「アスカちゃ〜ん」「お〜い、ソウタ〜」。

 何が変わったのか判らない。けれども、確かに何かが変わった。
 僕たちは、遅くまで学校に残って練習した。
 私たちは、必死になって演じようとしていた。
 初めはがむしゃらだったのかもしれない。けれども、やっていくうちに笑うことが多くなった。なんでもないことに笑みをたたえ、がんばった人には拍手を送り、嬉しいことはみんなで喜んだ。

 ――コンビニのような舞台で、走って逃げようとした黒っぽい服の男を青っぽい服を着た男が取り押さえた。その動きには無駄がなかった。袖から出てきた四人の学生服の生徒が、すばらしそうに拍手をした。青っぽい服を着た生徒は少し頭をかいて照れていた。

 これが“楽しい”ということ。
 僕たちが、私たちが知らなかったこと。
 そして、みんなは気が付いた。文化祭における本番なんて、大した意味はないのだと。

 ――リコーダーの音色が流れてくる。それは少し物悲しくて、寂しさを感じる、秋の曲。そこにあるのが当然とでもいうように、空間に音色を響かせている。

 それはただの区切りに過ぎない。確かに観客に演劇を見せることは重要かもしれない。しかし、僕たちが求めるものはそこにはない。私たちが求めるものは、この練習の中にあるのだから。
 そう、この演劇の練習そのものが、僕たちの、私たちの求めるものだったのだ。
 しかし、練習はいつまでも練習でいられない。いずれは舞台の上で観客に見せるという終焉(しゅうえん)を迎える。終焉があればこその練習。それが少しさびしい。
 だからこそ、みんなは張り切って舞台に上がったのだ。
 道具製作係の人も、証明係の人も、舞台設定係の人も、音響係の人も、宣伝係の人も、さびしそうに、けれども楽しそうに僕たちを、私たちを舞台へと見送ってくれた。
 僕たちは、私たちは、みんなの思いを受けて、幕を下ろすために舞台にいる。幕が上がることは観客にとっては始まりを意味するが、僕たち、私たちにとっては終わりを意味する。

 ――音色が、消えていく……。

 さあ、幕を下ろそう。僕たちには、私たちには舞台の幕を引く役目があるのだ。それが、僕たちの、私たちの最後の練習。
 僕たちの、私たちの練習を見てくれた全ての人に。

 ありがとう、ございました。

 ♪♪♪

 沸き上がる拍手。緞帳(どんちょう)が降りて一息。
 はぁ〜。
「あ〜、やっと終わったね」
 佐村が背を伸ばす。
「ねっ、途中ずいぶんと変わっちゃったけど僕の考えた劇、良かっただろ!?」
 片山がふふん、誇り切った顔でびしっと親指を立てる。
「そうね、片山君のにしては良かったわよ」
 狩野も頷く。その言葉に片山は、
「……えっ?」
「結局、一人死んじゃったけど、感動してる人多かったようだったわよ、すごいわ片山君」
「僕の名前は、ソウタだよ」
 片山は佐村に少し戸惑いながら言い返した。佐村と狩野がびっくりした様な顔をする。
「劇はもう終わったの。もう本名に戻っていいのよ?」
「本名……?」
 佐村の言葉に片山が頭を抱える。
「ソウタだろ。名前」
「そう、私もそう思う」
 森川と空木が言う。劇をやりきった、という気持ちから一転、一体どういうことなのか、どうしたらいいのか判らない雰囲気に変わった。何かが体を蝕んでいる。けれど、その正体がわからないままパニックを起こしかけていた。そして、真っ先にその場の理解を示したのは大江だった。
「もう片山が創った劇は終わったんだ! 森川、終わったんだよ! そうだろ、空木さん!」
「僕の名前はトシロウだ……」
 冗談とは思えない顔で森川が答える。狩野と佐村はまだ飲み込めていない。きょとんとして、何も言おうとしない。ちがう。何も言えないのだ。
「私は……アスカよ。でも……何かが違うような気がする……。でも、わからない……」
「劇が終わった後も、劇の役に浸食されたままだっていうのか?」
 大江の言葉に、はっと狩野と佐村が理解する。
「……片山君の創った劇、【文化祭】はもう終わったの。いい? ……どんなときでも、自分を見失ったら負けなのよ。片山君、森川君、舞」
「……そんなことない」
 片山が言い返す。
「ある!」
 佐村も言い返す。
「ない」
「ある!」
「ない」
「ある!」
「ない」
「あるんじゃ、ない?」
「ない、あるよ」
 空間にひびが入ったような音が聞こえた……様な気がした。佐村は優雅に、大振りに、びしっと、
「インチキ中国人!」
 片山を指差した。片山は悔しそうに口をゆがめて、
「つられたんだよう」
「それはおいといて」
 大江が場をいったん止めてほかの会話を止めてから、ゆっくりとしゃべりだした。
「確かに自分が自分であると他人に証明することは難しいけど、今の君達は間違いなく、偽物だ」
 片山、森川、空木にゆっくりと視線を投げかける。ただ言葉だけに頼らず、ただ眺めるだけで何かを訴えかけるようだった。
「劇の役の他人なんかに浸食されてしまうほどに自分を無くしてしまっていたら、人は生きていくことなんかできやしないんだ。そんなことを言っていたら、まちがいなく現実が君達を潰しにかかるぞ。今の君達がどんなにわめいても現実は今の君達なんか簡単に潰すだろう。わかるかい? 他人と自分の違いをよく考えるんだ」
 ゆっくりと、片山が口を開く。
「……自分って……なに?」
「――自分を自分だと思ってる状態じゃないかな」
「……他人って……なんだと思う?」
 森川が大江に問いかける。
「――自分以外の、自分を自分だと思っている人のことだと思ってるよ」
「……自分を……自分が自分だと証明できる?」
 空木の疑問に大江は少し考えた。そして、
「僕は自分が自分であると思い続けることと、他人に認められることが証明になると思う。人によってはそんなあやふやな、抽象的なものは証明にはならないというかもしれないけど、それが僕の答えだ」
 そして、大江は周りを見る。
「どうだい? 片山。自分の存在を確かめることが出来るかい? 自分という存在を、証明できるかい? 自分という存在を、信じられるかい?」
 片山は少し黙っていた。そして、
「……そうだ、僕は……片山なんだ」
「俺は、森川……なんだな」
「……わたしは、空木……空木なのね」
 それを聞いて、大江はにや〜と笑った。
「すべての混乱が解消されることはないと思うよ。もしかしたら、それらは混沌のまましっかり根付いてしまうかもしれない。まるで理論的背景を持たないまま効果を発揮する呪いのようにね。でも大丈夫。自分を見つけて、胸を張っていれば人間はどんなことでも乗り越えていけるさ」
「……ちょっと、わかんないとこがあったけどかっこいいわよ、大江」
 佐村がパチパチと手を叩く。
「いやぁ、照れるなぁ。こんなことが起こりうると予想して、いろいろといい科白(せりふ)を考えてた甲斐はあったな。はっはっは」
「え〜〜!!」
 大江の科白に、狩野と佐村が驚く。狩野が非難しているような声で、
「わ、わ、わかってたの!?」
「いやぁ、いっしょに練習してたらわかりますよぉ」
「さっさと言いなさい! バカァ〜!!」
 佐村のグーが大江の頭に叩き降ろされる。大江はがぶっ! と悲鳴をあげた後、
「……はは、まぁまぁそんなに怒らないで。ねっ、ねっ?」
「もぉ〜!」
「まぁ、大江、おかげで目が覚めたよ。おはようございます」
 片山がペこりとお辞儀する。大江はそれを呆れ顔で見ていた。
「……はぁ〜、やれやれ、だね」
「なんか夢から覚めた様な気分だな〜」
 森川がつぶやいた。
「夢の終わり、か」
「おっ、今の科白はなんかかっこよかった」
 片山が笑う。そして全員で笑った。と、
「お〜い、これからみんなで写真取りますよ〜。早く来なさい〜」
 先生が叫ぶ。そして、そのまま体育館裏口から出て行った。
「ま、こういうことがあったっていいんだ。どんなものでも変化し続けるんだ。この世に“絶対”はないからね。こんな変化も僕らの新しい思い出、もしくは青春、人生の一ページには違いない。ゲーテいわく“若いうちは誤りも大いに結構である。ただそれを老人になるまで引きずってはならぬ”だってさ。よし、行こうよ。……うにゃあ、大佐、号令を!!」
 大江が親指を立て、狩野大佐を促す。
「……じゃ、行くわよ!」
『お〜〜!!』
 みんなが拳を掲げて叫んだ。

 僕らの文化祭はこうして幕を降ろした。本当に楽しい文化祭だった。
 あの劇のおかげだと思う。紛れもない、僕らの劇だったのだから……。