手の内からこぼれる世界


 3

「なあ、もう少しましな理由は思いつかなかったのか?」
「あれ以外に私が部活に入る理由、ないもの」
 そりゃそうだろうけど、と俊樹はつぶやいた。でも、もう少しましな理由はあったのではないか、と思う。明日には深々と立派な釘を胸にかかえた藁人形が届くかも知れない。
「私はあなたの監視をしているの。それ以上のものはないわ。そのことを忘れないで」
 瑠華は冷たい視線を俊樹に投げかける。
「……まあいいけど。新聞紙、敷くか?」
「結構よ」
 瑠華はそのままフェンスに身を寄せて、そのままちょっと冷たいコンクリートの床に座り込んで、コンビニ袋から取り出したおにぎりのパックを剥いて食べ始めた。俊樹もため息一つ付いて、下に新聞紙を敷いてその上に座り、風呂敷に包まれた弁当を広げて食べ始めた。
 林原の“これはラブレター発言”により、教室でカオス(混沌)フィールドが発生してしまった。マジ泣きをしていた人もいたような気がする。
 暴動が起こってもおかしくなさそうだったので、俊樹は弁当と水筒と新聞紙を持ち、瑠華は昼食の入ったコンビニの袋を持ち、林原は契約書を、河村はペンと下敷きを持って教室から逃げ出した。カオスに包まれた空間を鎮めるためには原因の排除と長い時間が必要だ。

 放課後、“幽玄の間”に来るように。

 林原たちは俊樹たちにそう告げて去っていった。
 俊樹と瑠華は一息付いて、昼食を取るために屋上へと登った。屋上には長椅子など気の効いたものはないため、昼食時には人気はない。もう昼休みに突入している以上、三、四人はいるだろうと思っていたのだが、運よく誰もいなかった。
 そして現在に至る。
 食事中は会話は一切なかった。どことなく張り詰めた空気が俊樹と瑠華の周りに漂っていた。
 俊樹が弁当をたいらげると、瑠華はすでにごみをコンビニ袋に入れて袋の口を縛ってブレザーのポケットにしまって、こちらを見ていた。
「そんなに見つめるなよ。照れるじゃん」
 少し笑って俊樹は弁当箱を風呂敷に包み直した。瑠華は黙って視線を外した。
 大きな青空に今にも消え去りそうな小さな雲が一つだけ見えた。すると、屋上に夏を感じさせる風が吹いてきた。
「緑の風だな」
「……」
 瑠華は何も言わなかった。俊樹は気にしないことにし、緑の、植物の匂いの運ばれてくる風を感じつつ魔法瓶のお茶を飲んだ。
 もうすぐ、夏なんだよなぁ〜。この気持ちいい気温の季節が終わり、汗を流してうちわのお友達になる季節がやってくるのだ。

 ああ、夏。

 暑いけれど、青空の日が多いので俊樹は好きだった。夏の青空を背景に持つ植物を見るのはなんとも言えないものがある。とても清々しいのだ。山の斜面などに造られた霊園などがお勧めスポット。人はいないし緑があるし、地面がむき出しなためわりと涼しい。植物園もいい感じ。大きな木の木陰で休むことができるのは学校と公園と神社と植物園と山の中だけだ。
「――俊樹」
 不意に、瑠華が俊樹を呼んだ。
「なんだ?」
「『神の姿似』ってどういう意味だったの?」
「ああ……あれは“三倍体”かどうかを聞かれたんだ」
 俊樹は軽く腕を組んで話した。瑠華は俊樹の方に怪訝顔を向ける。
「三倍体って……」
「この場合のヤツは第二三番染色体トリソミーのことだ。性染色体XXY」
 俊樹が瑠華の方に目を向けた。瑠華は黙って聞いている。
「キリスト教の旧約聖書の創世紀に、アダム・カドモンというのが出て来る。こいつは男と女、つまりアダムとエバ――エバって言うのはイブのことだけど――に別れる前の姿で、神が自らの姿を模して造ったとされる最初の人間だ。男と女に別れる前の人間だからな、両性具有なんだ。男性器と女性器を二つとも持っているヤツさ。
 そこから三倍体は『神の姿似』と呼ばれることが多い。三倍体イコール常に両性具有って訳でもないんだが。
 三倍体の場合、体力や寿命が二倍体よりも強く長いのが普通だ。これは一説によると、生殖能力がないかららしい。でもどうかな〜。生殖能力がないって言っても、それは減数分裂の段階の問題らしいからな。射精排卵はできるんじゃないかな、とか思うのだが」
 年ごろの女の子なら(男でも)赤面間違いなしの単語を俊樹はさらりと言った。瑠華も少し顔を赤くしている。しかし俊樹の手前、弱みは見せられないとでも思っているのか、全く動揺してない振りをしながら次の質問に移った。
「……こうが、なんとかって言うのは?」
「瑠華の性染色体は?」
「……XXよ」
「よし、説明しよう。林原先輩が言いかけたのは多分、睾丸性女性化症(こうがんせいじょせいかしょう)のことだ。
 これは染色体XYの人が、精巣での男性ホルモン分泌器の問題か、もしくは男性ホルモンのレセプター(受容体)の問題で男の体になり切れずに女性化してしまった症状のことを言う。この症状の場合、睾丸はあるのだが陰茎がなく、膣はあるのだけれども卵巣、子宮がなくて月経がないという様な――」
「も、もういいわよ!」
 とうとう耐えられなくなったのか、瑠華が顔を真っ赤にして叫んだ。
「それがどうして私と関係があるのよ!」
 ま、それだけは確認しとかなきゃならんわな、と俊樹は思った。
「この二つは美人が多いんだ。だから林原先輩は聞いてみたんだよ。ああ、別に悪気があった訳じゃないと思うよ。あの人は素でああいう人だからね。迷惑な人にとっては果てしなく迷惑なんだけど。まぁ、漫画や小説じゃないんだから瑠華みたいな美人はそうごろごろいる訳じゃない。林原先輩にとっての最大の褒め言葉なんだよ、多分」
「……俊樹はなんでそんなに詳しいのよ……」
 そっぽを向いて瑠華は俊樹に聞いた。俊樹は苦笑するしかない。
「文庫本を読んでて、時たま出て来るからな。気になって調べた」
「……そう」
 そして、瑠華はまた沈黙した。さすがに少し刺激が強すぎたかもしれない。
 俊樹はそんな瑠華の姿を見て少し笑った。
 ――瑠華はやっぱり、少し……。
 しばらく無言の時間が流れた。緑の風が、瑠華の綺麗な髪をなびかせている。そうしてたたずんでいる姿は普通の女の子とは何ら変わりはない。
 彼女は少し気負いすぎている。いつか、彼女が心から空を見上げることができる日が来るだろうか。
 それにしても、瑠華の後ろにいる“組織”――、なんだか動きが妙だ。絶対に何かを隠している。僕と、瑠華に関係する何かを。

 瑠華は、僕に近付きすぎている。

 監視、という割には妙にくっつきすぎな気がする。発信器の類も登場しないし。まぁ、発信器は瑠華がこの学校に来て一日しか経ってないからまだ登場しないとしても……。
 さらには、瑠華はあまり監視員の素質がない。訓練をされたようにも思えない。あまりにも素人だった。力の制御も、一通りしか訓練されているように見えない。瑠華自身は命令されて動いているのだろうから疑問には思っていないかもしれないが、やはりおかしい。
 ……裏で腹黒い計画が動いている。そう感じる。ただの僕の考えすぎという説もあるけど、ね。
 まぁいいか。そのうち何かのアクションがあるだろう。僕は黙ってそれを見ていればいい。……と、かっこよくいきたいが、やはり情報は必要だな。探りは入れておこう。
 さて。
 瑠華には聞いておかねばならないことがある。
「まぁ、それはさておき。なあ、瑠華」
 俊樹はそっぽを向いたままずっと黙っている瑠華に呼びかけた。
「――なに?」
 瑠華が少し怒ったような声で聞き返してきた。冷たさの代わりに刺がある。
「瑠華は、MW――“鏡の世界”のこと、知らないのか?」
「……聞いたことはある。けれど、そこに行った事はないわ」
 瑠華は俊樹の方を見ようとはせず、うつむいて自分の膝の少し下まで覆っている深緑のスカートを見ている。
「何個知ってる?」
 瑠華はようやく俊樹に顔を向けた。しかし、俊樹は遠くの空をぼんやりと見ていただけだった。
「“鏡の世界”は一つだけじゃないの?」
「――瑠華のいる組織は、最近できたばかりなのか?」
 俊樹が瑠華を見ると、瑠華は首を振った。俊樹は座ったまま腕を組んで黙考し、
「――そうか」
 とだけ答えた。
 もし、組織が“わざと”瑠華に情報を与えないようにしているならば、無闇に瑠華に情報を教えてはいけない。何か考えがあるのかもしれないし、下手に教えたらそれが原因で瑠華が危険にさらされるかもしれない。いい気持ちはしない、な。
「……何よ、教えなさいよ」
「やめとく。その方がいいかもしれないし」
「なんでも教えるって、あなたは言ったわ」
 瑠華が俊樹を睨んだ。しかし、俊樹はため息を付いて、
「わざと組織が瑠華に情報を渡していないのかもしれない。そうすると、今ここで情報を渡したら瑠華が危険にさらされるかもしれない。深読みしすぎなのかもしれないけど、僕からは教えられないよ。君の上司から聞いてくれ」
 瑠華はしばらくこちらを無表情で見ていた。やがて、そっぽを向いて黙った。
 瑠華は何を思っているのだろう?
 俊樹は今の瑠華の気持ちを想像してみたが……たぶん、それは俊樹自身の希望的観測の多分に混じった、ただの妄想でしかないだろうと思って想像することをやめた。それに、人の心というのは他人が簡単に想像できるほど単純なものではない。
 遠くから電車が走っていく音が響いてくる。耳を澄ませば、車の音、人の声、鳥の鳴き声、風の音が聞こえる。
 空を見上げると、青空を飛行機が飛んでいくのを発見した。飛行機雲を引いていない青空を飛ぶ飛行機っていうのは、どこかUFOを連想させる。UFOが空を飛んでいるとしたら、あんな感じだろうか。
 ああ、UFOが飛んでるのを見たいなぁ〜。エリア51に行ってみたい。本当にUFOがあるのかな? でも、それが何か判ってる物はUFO(未確認飛行物体)とは言わないか。
「俊樹は……」
「うん?」
 俊樹ははるか宇宙の神秘の想像を中断して、瑠華の方に振り向いた。瑠華はさっきからずっとそうしているようにそこに座っていた。ただ、指先がスカートの裾を握り締めていた。
「なんで……私の心配をするの?」
「――そうだな、」
 俊樹は少し考えた。僕が瑠華の事を心配する理由らしい理由と言えば、

「僕は、瑠華の事がわりと好きだからだよ」

 瑠華は黙っていた。俊樹は照れもせず、淡々と答えた。
「まー、わりとね。なんというかな、瑠華って面白いからさ。いつもは冷たく振る舞っているけども結構感情的な部分も持ち合わせているし、なによりも僕としゃべってくれるからね」
「……任務だからよ」
「別にそれでいいよ。それでもしゃべってくれるだろう。僕は嬉しいんだ、それが」
「……」
「あとは……そうだな、瑠華の人を突き放した様な態度が気になってな。瑠華、なんだか無理やり冷たくしているような、“背伸び”しているというか、そんな気がして――」
「私は“背伸び”なんかしてない!」
 瑠華が俊樹の言葉をさえぎって怒鳴った。立ち上がって俊樹を怒りを込めた目で睨む。怒った時点で認めているようなものだということを瑠華は理解していた。けれども、怒りを抑えることができなかった。
 俊樹は無表情に瑠華の顔を見上げ――少し笑った。
「そっか。悪かったな」
 それだけだった。俊樹はそれ以上の事は何も言わなかった。
 瑠華は手を握り締める。
 なんで、こんなヤツなんかに――!
 瑠華は任務をほっぽり出して踵を返し、

「新沢中学校は“当たり”だよ」

 俊樹の言葉に足を止めた。
「純粋な《闇》。中レベル。おそらくはRW……Reproduced Worldに巣くっているんだろう。林原先輩とかを止めんなら今のうちだぞ」
 会話が終わり、瑠華は振り返ることなく屋上から出ていった。
「――難しいなぁ〜。でも……面白いヤツ」
 俊樹のつぶやきが緑の風と共に流れていく。
「さて、と……」
 俊樹は胸ポケットから手のひら大の小さめの鏡を取り出した。鏡の上に手を置いて波動を送り込む。しばらくして、接続の感触と応答があった。
「“闇と踊りし者”より通達」

   ▲ ▽ ▲

 昼休みが終わって教室に戻ると、瑠華は先に戻っていた。瑠華は俊樹を一瞥してまた視線を前に戻した。
 俊樹は教室を見回し、目に映る教室の姿に複雑な気分を感じつつ席に座った。
 教室はずいぶんと閑散としていた。カオスの傷跡は生々しく残っており、机などは綺麗に直されていたが床には生モノやお茶のしみが残っていた。それと、主がいない席が目立っていた。
 寺門は昼休みあとのSHRで、ため息付きで目を覆わんばかりの報告をした。頭痛腹痛ストレス椎間板ヘルニア生理エイズエボラ出血熱や、おじいちゃんが危篤なんです子供が生まれるんです死兆星が見えます伝説の剣を取りに行かなきゃならないんです! とか、なんとかかんとかで早退してしまった者が一二人。保健室で寝込んでいるのが三人。現在無断欠席中の者が五人。なんとか教室にいるのが一六人。
「何が……あったんだ?」
 寺門は教室の何人かに聞いてみたが、ほとんどが首を振るばかりで何も答えようとしない。がっくりとうなだれていて、まるで敗戦国の国民のようだ。
「聞かないでください……」
「思い出させないでください……」
「いや、ここで言ってしまうとみんながまた傷つきますから。というか殴られます」
 なんていう答えしか返ってこない。
 もっと覇気を出せ! という寺門先生の鼓舞も空しい。出席者よりも欠席者が多い教室で怒鳴っても仕方ないことを、寺門は肌で嫌になるくらいひしひしと感じていた。
 おそらくは、今年度の異常事態ナンバーワンだろう。そう思う。そう思いたい。
 寺門は和合二年(西暦二〇一〇年)、第三次世界大戦終戦の年に生まれ、あんまり戦争の影響を受けることなく成長し、週休二日制が撤廃された一年後に小学校に入学、とんとん拍子に小、中、高、大学を卒業した。一六年間教育を受ける立場に立ち、そして現在までの四年間、教育を与える立場に立っていた。教育の場に携わること二〇年。人生の約七割五分を教育の場で過ごしてきた。
 その途中には家族を持っている喜びと初恋の不安、勉強のつまらなさに耐える日々や弟ができたときの嬉しさと嫉妬、片思いやら失恋、バイトでお金を溜めてバイクの免許をとってバイクを買ったり女友達でアルコールのある宴会を開いたり徹夜で漫画を書いたり、一時間前まで生きていた鼠(ねずみ)や馬を食したりと様々なことが起こって流れて去っていった。
 ああ、起きるときは羊の様に緩やかに近寄ってきて、流れるときは鷹(タカ)の様に一瞬で過ぎ去り、去ったあとには石の様に形を変えることはできない。時間とはなんと無情なものだろう。
 ずいぶんとたくさんの経験をしてきたと自分では思う。きっと他人も似たようなものだろう。
 しかし、寺門の人生の中でこのような事態が起きたことは噂にも聞いたことがない。まさに学級崩壊の体(てい)をさらしている。学級閉鎖はクラスの三分の二の欠席で施行されるから、授業等は普通に行われるとはいえ……。
 ここは新しい経験ができた、と前向きに驚いておくことにしよう。しかしこれ程までに珍妙な事態。一体何が起こったのだろう? ほとんどの生徒が傷心している。無断欠席者まで出る始末だ。この場にいない者の中にはこの事態に便乗して欠席した者も何人かいるだろうが……。

 で。

 ほとんどの生徒とは全く違う態度でいるのが二人。
 永谷俊樹と九連水瑠華。
 この二人が何かをやらかしたのだろうか。
 原因は究明しておかなくてはならない。今後もまた似たような事態が起こらないとも限らない。
「なあ、永谷。昼休み、一体何があったんだ?」
「さあ? いつものように林原特殊長が部活勧誘に来て、僕と九連水さんが入部しただけですが?」
「……九連水も、オカルト総合部に入ったのか?」
「はい」
 九連水は簡素に答えた。
 補足しておくが、オカルト総合部の存在はわりかし有名である。何分、部の名前が周りから浮き立つ名前だし、部長が林原。有名にならないほうが異常だ。
 そして、オカルト総合部は学内唯一の“私設部”である。いわゆる同好会のようなものだが、酉原高校は学生の意思を尊重することを旨とし、さらに部活棟に一部屋空きがあったこともあって部室が与えられた。これも、オカルト総合部の名を広めたのに一役買っている。
「……それ以外には?」
「何もありませんでしたよ」
 永谷の答えだけでは物足りず、九連水のほうにも視線で問いかけると、九連水はこくんと頷いて永谷の答えを肯定している。
 もう、ホームルームの残り時間がない。寺門は仕方なく席の半分以上が空っぽの教室で、大半が放心気味の出席者たちに諸連絡を通達し、プリントを配った。そして、永谷と九連水以外で元気な生徒を一人、教室の外に連れ出して何があったのかの尋問を始めたのだった。
 この後、寺門は脱力するほどの呆れを感じることになる。
 これも、初めての経験であった。