植物園


第三章 三時〜

「多分、車に跳ねられたのよ。最後に覚えてるのが病院の部屋の天井なの」
 彼女は特に気にしていないように話してくれた。さっきほどの気楽さはないから、ちょっとは気にしているみたいだが。
「して、なんで植物園に?」
「私、植物園に行く途中だったのよ。ちょっと、フラれちゃって」
 つまりは元彼氏持ちだったって事ですかい。まー確かに神谷さんは美人だし、彼氏になりたいと言う男は何人かいただろう。恋人を作ったことのある神谷さんがちょっとうらやましい。
「ふ〜ん。なかなか幸せな人生おくっとったんですな〜。僕なんかそういうの全く……なかったと言えばなかった」
「あったと言えばあったの?」
 僕はにやりと笑って前髪をかき上げる“かっこつけポーズ”を取った。
「ふっ、ここから先は禁断の領域。踏み込んでくるか神谷さん!」
 彼女は少し悩んだあと、
「うん、踏み込ませてもらうわ」
 僕はまた笑った。本当に面白いやつ。
「中学の時にね。形としては、僕が拒絶したんだ。そういうのがよくわからなくて、なんだか恥ずかしくて。平然と、好きじゃないって言っちゃったしな〜。惜しいと言えば惜しかった」
「惜しくなかったと言えば惜しくなかった訳ね」
 なかなか鋭くてどすっと来る一撃だ。清々しくてよろしい。
「そゆこと」
「覚悟を決めさせた割には大したことないわね」
 ふふふ、と彼女が意地悪に笑う。
「気分が大切なんだよ、気分が」
 一応返しておく。そして、話を神谷さんのことについてのほうに戻す。
「それで、神谷さんがここにいるのはただ単に植物園を廻りたかったからなのか?」
「どうかしら……。実は、私がここに来たの、いつかわからないのよ」
 彼女が肩をすくめる。
「なんで? 自動操縦で来ちゃったの? そういうサービスがあるんだ。死後の世界もそれなりだな〜」
「どうかはわからないけど、あなたとぶつかってやっと私がここにいる事に気がついて……」
「というかあれだな。幽霊とぶつかったっていうのが驚きだな〜」
 驚きと言えば驚きだが、ありそうな話ではある。
「それはね、ぶつかれたのはね、あなたの霊体に私が同調したからよ」
「同調?」
「うん。多分、それでいいんだと思う。私とあなたの霊体がぶつかった瞬間、なんていうのかな、相性がよかったから同調できたのよ。だから、あなたは私が見えるし、触ることも出来る。ほら」
 神谷さんが僕の手を取って握手した。しかしその手は“触っている”という感触のみがあるだけで、ちっとも温かくなかった。
 触っているのに温かくない。それが、こんなにも哀しいなんて今まで知らなかった。
 胸に込み上げてくるものがあった。それをなんとか抑えて彼女のほうを視た。彼女は少し寂しげに微笑んで握っている僕の手をじっと視ていた。
「相性がいいから気がねなく出会えて、しゃべることが出来たのよ。考えてる事もなんとなく、解るし」
 彼女は僕の手に両手を添えて笑う。けれども、僕はその笑顔がとても寂しそうで悲しくて……こんな時、僕はどうすればいいのだろう?
 雨が降っている。もうすぐしたら止むかもしれない。
 そんな思いと共に、僕はふっとその考えを思いついた。
「それで、君はどうしたいんだ?」
「さあ……よくわからない。どうなるのかもわからないし」
「……ならさ、」
 僕は思い切って言う事にした。僕が出来ることはこれだけだから。
「楽しもうよ、楽しめるうちにさ」
 僕も彼女の手に自分の手を添える。温かくないその手を、自らの手で温めてあげるかのように。
「君は死んだのかもしれない。けれど、まだ存在しているじゃん。ならさ、今のうちに楽しもうよ」
 雨が止んだ。雲の切れ目から太陽の光りが覗いている。ゆっくりと、周りが明るくなってきた。
「……ありがとう」
 彼女は笑いながら涙を流していた。その顔に、木々の葉の隙間を抜けてきた太陽の光が降り注いでいる。
 ――よかった。
 僕は何となく、彼女の顔を見てそう思った。我知らずに微笑みがこぼれる。
 しばらく彼女と見つめ合い、そして彼女の言葉を聞いた。

「――あなた、不思議な人ね」


 雨上がりの森を歩く。上から雫が落ちて来て、二人で驚いた。
 浅い池におたまじゃくしがたくさんいた。指を突っ込んで、おたまじゃくしが慌てて逃げるのを見て二人で笑う。その後でおたまじゃくしさんたちに二人で謝った。
 たまたま出会った白い猫とにらみ合いを敢行。五分ほどにらみ合って、辛くも勝利を手にした。大人げないな〜とは神谷さんの言だ。
 かきつばた園に行き、ぎりぎり残ってた花を見て二人でほっとした。そして、見れてよかったね〜、と笑う。
 林の中を歩いて、小さな川を飛び越える。僕は簡単に飛び越えられたが、神谷さんはギリギリで辛くも飛び越えられた。「ジャンプ力ないんだね〜」と笑ったら、ポカンと叩かれてしまった。
 くすのき並木を歩く。広い道を覆うように精一杯伸びているくすのきのすごさに、二人で圧倒された。
 そして、最後に植物園の中央にある大芝生地に来た。太陽の温かさの中、子供たちがボールを投げあって遊んでいる。向こうでは鳩たちがおじさんから食パンの切れはしをもらっている。
「この植物園、結構広かったな〜」
「そうね〜」
 二人して大芝生地の傍のベンチに座った。僕はその大芝生地に備え付けられている大きな時計に目を向けると、時計は三時四〇分を指していた。僕がここに来てから、神谷さんと出会ってからすでに二時間近くが過ぎている事になる。
「楽しかった?」
「うん。とっても」
 彼女は笑顔で答える。けれども、すぐにその笑顔が曇った。
「けど、」
「ん?」
「もっと早く、私が生きている間にあなたに会いたかったな」
「……」
「生きてる間に、あなたに会えてたなら……」
 まずい。またどんよりムードになっている。
「いいじゃん。そんなこと」
 僕は雲が流れて見えるようになった青空を見上げた。
「今日会えたんだからそれでいいじゃん。それ以上は欲張りだよ」
「そう?」
「そうそう。神谷さんは僕に出会えて喜んでる?」
 彼女はゆっくりと頷いた。
「僕も嬉しいよ。十分なほどに。だから、それ以上の事は望まない」
 僕は笑う。彼女が幽霊であるとはいえ、女の子とこんな話をしているというだけで僕は満たされていた。彼女なんてできたことないからな〜、僕って。
「……ありがとう、喜んでくれて」
 彼女は僕の手をとって微笑んだ。
「ねえ、わがまま、言ってもいい?」
「どうぞ」
「……名前で呼んでくれないかしら。……私のこと」
 彼女は僕の言葉を待っていた。それが彼女の望みなら……。
「……希望」
 二時間前に聞いた彼女の名前を、僕は呼んだ。彼女は嬉しそうに笑って、
「ちゃんと、覚えててくれたんだ?」
「そりゃ忘れる訳にはいかんし。僕に付き合ってくれた女の子の名前を忘れたりしたら、財布落しても文句言えないよ」
 神谷さんはにっこりと微笑んで、
「僕と、でしょ? 私はあなた“に”付き合ったんじゃないの。私はあなた“と”付き合ったの♪」
「……ははっ、そうだね」
 少しの間、微笑みながら僕と神谷さんはお互いの顔を見つめた。
「もう一つ、わがままを許してくれる?」
「いいよ」
「あなたの事、名前で呼んでもいい?」
「もちろん」
「……真治」
 彼女が、希望が嬉しそうに僕の名前を呼ぶ。
「へぇ、ちゃんと覚えててくれたんだ」
「もっちろん!」
 そう答えてくれる希望に対して、全く悪い気はしなかった。けれども、彼女のそういう望みは、ある事実を如実に物語っている事に僕は気付いていた。
「……今日は本当にありがとう」
 彼女が、何かを宣告するようにつぶやく。
「本当に、嬉しかった」
 彼女が笑う。今度のはとても寂しそうに。
 僕は気が付いていた。
 その寂しげな笑顔は、別れの笑顔だということに。
「最後に、もう一つ、わがまま、頼んでもいい?」
「……ああ」
「私のことで、悲しまないでね」
「ばーか。僕が悲しむことなんか何もされてない。今日は本当に楽しかったよ。……ありがとう」
 希望は一瞬だけきょとんとして、嬉しそうに笑った。
 そうして、希望はゆっくりと僕の手を離した。
「……さようなら」
「じゃあな」
 僕は笑って手を振った。希望もゆっくりと手を振った。
 そして、彼女は消えた。……いや、去っていった。
「……」
 僕は彼女が存在していたあとの空間をしばらく見つめていたあと、空を見上げた。温かい太陽の日差しが気持ちよく差している。
 僕は悲しまない。それが、彼女の願いだから。
 僕は立ち上がって、四時の鐘の鳴り響く中を出口に向かって歩いた。出口前の噴水のところに来る。一定時間が経つと水を思いっきり吹き上げ、また止まる。そして、また一定時間が経つと水を吹き上げる。
 僕はそれを見つつ、笑った。そして植物園を出た。
 よかったじゃないか。
 彼女は喜んでいた。だから、僕も嬉しい。悲しむことなんてない。
 ――希望、君のことは、忘れないよ。
 そう思った瞬間、抑え切れずに一筋の涙が流れた。けれどもそれを素早く拭き取る。こんなの希望に見られたら殴り飛ばされる。
 彼女は喜んでいた。それで、いいじゃないか。

 そうだろ?


FIN