植物園


第一章 午後一時〜

 この日、僕は予備校をサボってどっか行こうと考えた。サボる授業は化学。サボる理由としては、
 ひとつ。先生がつまならいヤツ。
 ひとつ。大学受験に当たって、化学は必要ない。
 なぜ必要のない授業なんぞ受けているのか。今では記憶が少しあやふやだが、確か受けても受けなくても授業料が同じ値段だったからだ。睡魔の軍団と激しいバトルを繰り広げ、追い詰められてた時の話だから、『値段が同じならたくさん受けたほ〜がいいじゃん』なんて考えてたんだろうな。
 最も、今ではそれでよかった、なかなかやるな過去の僕よ、と思っている。
 親には受講時間割表のコピーを渡してある。その受講時間割表を見た親は、僕は化学を受けていると思い込む。そうすれば、僕は受験生の身でありながらお咎めなく自由に遊びに行けるというわけだ。必要のない授業だから、気兼ねなくサボれる。金もかかってないし、言うことないではないか。
 午前の授業中、何をするか、どこに行くかを考えていたのだが、あっさりと決まった。
 今日は晴れてるし、植物園に行こう。
 前々から行きたかったんだ、植物園に。なぜっていうと、性格的に緑の色が好きだから。愛用のペンは緑のインクのボールペン。今日のTシャツの色は緑。ハンカチも緑だ。そういうわけで、緑好きならば緑の集まる植物園に行かねばならん、と思ったのである。
 まあ、緑と言えば何でもいい訳じゃない。明るい色のほうがいい。やや黄緑、というのが好きだ。


 僕は午前中の授業をすら〜と過ごし、飯を食べたらさっそうと予備校から出た。
 んん、ちょっと雲行きが怪しい……かな? 難しい、微妙だ。昨日、雷鳴ってたしなぁ〜、ありゃ多分近くのデパート(の避雷針)に落ちたね。あ〜と、その隣の警察署かも。
 まあいいや。意気込んで出てきたんだ、行け行けゴーゴー◯◯ー◯◯!(昔のある少女漫画の科白(せりふ))
 てな訳で、僕は地下鉄に乗って植物園に向かう。前に別の目的で植物園の前までは来ていたから、迷うことはない。
 到着! 自動券売機にてチケットを買うことにする。と、なぜか五百円玉カムバック。ちらっ、と見ると「新五百円玉は使えません」のはり紙。あ〜、そうですかと千円札を突っ込んでチケットを買った。
 ヒマそうにしているおっさんにチケットをもぎってもらい入園。御自由にどうぞの園内マップも取る。やっぱ全域を廻りたいよな。
 遠くに見える噴水を見つつ、傍にある「ワイルドガーデン」に足を運ぶ。そこに咲いている花を少し見てから、手のパンフレットに目を落とした。
『半日陰を好む種類を中心に、四季折々の草花を植栽してします』
 なるほど、だからこの春と夏の半端な時期で少しシナ〜としているのか。でも、まあ綺麗だな。よし、次行くか。

 どん。

「きゃっ!」
 女の子が驚きの声を上げた。……えっ? ぶつかったのか?
「あっ、すいません……」
 僕は不注意で、と言いかけたとき、『本当にそうだったか?』という言葉が脳裏に浮かんだ。
 思い返す。おかしい。僕はちゃんと前を見ていた。それでぶつかった?
「ごめんなさい、まだちょっと不慣れなもので」
 向こうも謝っている。
 普通の女の子だ。黒髪のセミロング。顔はそこそこかわいい。肌はちょっと白いかな? 白いコートを着ている。その下からは白いスカートのすそが見えた。
 けれども、僕の視界内に入らないというほど背が低い訳ではない。僕よりも少し背が低いぐらいだ。自慢じゃないけど、僕の身長は一七〇センチもない。ぎりぎり七〇台に乗ってないのだ、クソ。
 それはともかく……。
 ……? なんだろう? 変だ。
 何が変なのかは判らないが、おかしい。何かおかしい、この子。僕の感が告げている。
 この時に僕が感じた感情――それは喜びだった。
 これも自慢じゃないが、僕は妙だとか変だとかいう感覚が大好きだった。常識の枠の中にはないものがある。そういう感じが好きだった。
 だから、
『……あなた、一人ですか?』
 びくっとした。向こうも驚きの表情を浮かべている。それはそうだろう、見知らずの誰かさんと声がハモるなんてそうそう起こるまい。なぜ向こうも僕と同じことを? ……気に入られたか?
「そう、一人で来てるんだ。今来たところで」
 素早く微笑んで(実際にはにやりと笑っただけだったが)僕が先に答えた。女の子は少し微笑んで、
「あの、出来れば私と一緒に植物園を廻ってくれませんか?」
 わぉ。衝撃のお言葉。ぶつかっただけでそんな事言うかぁ? 一目惚れでもされたかな。あるんだな〜、一目惚れ。
「ああ、いいよ。一人で廻るよりも楽しいだろうしね」
 しょっぱなからタメ口で話してくるこの男に、彼女は笑顔を見せた。
「私、神谷希望(かみや のぞみ)といいます。よろしく」
「僕は二宮真治(にのみや しんじ)」
 そして僕らは歩きだした。歩幅は彼女に合わせて、ゆっくりと歩く。
「僕はさ、予備校をサボってここに来たんだ」
「いいんですか? 勉強しないで」
「サボってもいいような授業だし、ここに来たかったっていうのもある。来てよかったよ」
「私もここに来てよかったかしら」
 彼女は微笑みながら元気に答えた。
「よかったじゃん」
「うん!」
 本当に嬉しそうだった。見ず知らずの異性に取る態度ではないような……。頭の中の記憶の箱をひっくり返してみるが、顔も名前も浮かんでこない。
「え〜と、あなた、僕の知り合いでしたっけ?」
 ちょっと心配になったので、僕は尋ねた。彼女はにま〜とした顔で、
「ええそうですよ。つい先ほどから」
「いや、そうじゃなくて、」
「いいじゃないですか♪ そんなこと」
 そんなこと、で片付けてしまうのか……。ずいぶんとポジティブな人だ。
 しかし、面白い。現代の日本のこんなところではまずいそうにないタイプ。僕好みではあるね。
「神谷さんは緑が好きなの?」
「うん。ずっと前から来たかったの、植物園に。今日やっと来れたのよ」
 彼女は周りを見回した。その周りにはずっと前からそこにいたことを感じさせる、大きな木々があった。
 もうすぐ、夏。木々は緑の葉を茂らせている。
「家、遠いの?」
「うん、遠いかな。でも来れるし」
 へへん、と笑う。何の屈託もないその笑みに、僕はけっこうどきりとした。そのときにこういう状況になったとき、何も感じないだろうと想像にふけっていた僕の予想はがらがらと音を立てて崩壊した。涙が出るね。
 もちろんそんな事では涙は流さないけどね。この先、僕が一筋でも涙を流すことなんてあるのかな……。
「あなたは? 二宮さんは?」
「僕はまぁ電車に乗らなきゃいけないけど、そんなに遠くないよ」
 ただし、これは僕の感覚の上での話だ。他の人は間違いなく「遠い!」って言うだろうね。
 僕らはつばき園に来た。しかし、時期が時期だ。花なんか一つもない。けれど、僕らはそれらを見ていた。花をつけていない、緑の葉だけの木々を。
 あと、どうやらそのつばきの木、一本一本に名前がつけられているらしい。白鶴、初嵐、沖の朝日、花大臣、玉手箱、日月、赤花秋の山、時雨の滝、不知火、淡乙女、花見車、白雪。
 一番気になったのが、「財布」。ああ、命名者が財布を落とし、怨念をつばきに込めている姿が脳裏に浮かぶ。本当にそういう理由でそう名付けたのかは知らないけど。
 ぽつりと僕がその想像図を神谷さんに言うと、神谷さんは笑ってくれた。
 ゴロゴロと雷の音が聞こえた。空を見上げると空が曇ってきたようだ。ついでに雷さんも御到着。雨さんも御一緒ですよ♪ という感じか?


 針葉樹林帯の前に来た。
 壮観だ。
 木の背が高い。広々とした空間。緑の匂いが風で運ばれてくる。
 傍の説明板を読む。ストローブマツ、という種類らしい。松なのか……というのが僕の正直な感想だったけれども、確かに地面に落ちている葉は松のそれだ。
「すごいな〜」
「強く、生きてるのね〜」
 針葉樹林の中へと入る。緑の匂いがする。ちょっと空が曇ってきたせいか、さわやか〜ではなかったが、それなりに気持ちよかった。
「やっぱ緑はいいなぁ〜」
 上を見上げる。針葉樹林の細い葉がたくさん重なって、空の光りを遮っていた。しかし、その葉の隙間から漏れる光りが何とも……。
「そうね」
 神谷さんが頷く。彼女を見ると、彼女は静かに笑っていた。


 針葉樹林を抜け、僕らは水車の前に来た。水車、と言ってもただの見世物としてあるだけだ。水車の上に流し込まれている水は、元を辿れば水道パイプから流されていたし、水車小屋の中を覗けば、ただ水車が回転するだけのものになっていた。
 神谷さんはそれが普通だと思っていた様だ。
「水車って言うのは、昔の人が考えた自動粉引きだよ。水の力で水車を回し、小屋の中の杵(きね)を持ち上げて臼(うす)の中の穀物を砕いていたんだ」
 彼女は教えてくれた事を感謝した。まあ、悪い気はしないね。
 そして、僕らは水車の回転軸のところに触った。見世物とはいえ、力強く回っているそれは僕らの力では止められるようなものではなかった。何だか、それがおかしくて面白くて、僕は笑った。彼女も笑った。
 もう、僕が今日、植物園に来たことは天命だと感じていた。なんとも気楽なものだけれど、ね。