手の内からこぼれる世界


 3

「これでよしっと」
 和正はコインロッカーの戸を閉じた。お金を入れて鍵を掛け、キーを引き抜く。
「鍵は真が持っとけ。この中の物はあとで必要になるから」
「うん……」
 真は鍵を受け取ってズボンのポケットに入れ、和正に連れられて駅のコインロッカーコーナーから出てバス停に行き、やって来たバスに乗り込んでバス前部の二人用の席に座った。
 今、真たちは財布以外は何も持っていなかった。手荷物は全てコインロッカーの中だ。
 今日、自分たちの前に暗殺者がやってくるのだ。和正によれば、もうどんなことをしても逃げられないのだと言う。まだ発見されていないのか、もうすでに発見されているのかは和正の能力では判らない。けれども、何が起こっても何を行なっても、暗殺者と対峙する時間が前後に揺れるだけで避けることはできないのだそうだ。
 和正も真も、話すことがなくてただ黙って席に座っている。窓側に座っている真はぼんやりと外の流れる景色を眺め、真はうつむいてただバスが動いていくのを感じるのみだった。
 今日、和正が死ぬのだ。
 明るくできようはずもない。
 コインロッカーの中味があとで必要になるなんて嘘だ、と真はぼんやり考えていた。和正がいなくなれば、もはや自分には生きる糧はない。きっと、一日と経たないうちに死体に化けることだろう。なんなら自殺してもいいかもしれない。使い慣れたナイフは二ヵ月前に無くしてしまったが、予備ならば持っている。
 景色は街並を外れてだんだんと緑が多くなり、坂道を登ることが多くなってきた。どうやら山の方へと向かっているらしい。ほとんど会話をしていないので、真は和正がどこに向かっているのか知らなかった。
 知ろうとする気は起こらない。ただ、こうやって和正の手を握っているのが精一杯だった。
 昼頃になってバスを降り、食事処を捜して入り、昼食を取った。けれども、真はあまり食べる気になれなかった。それでも、和正に言われて食べるものは食べた。味なんか味わってなかった。ただ、少し噛んで呑み込むだけだった。
「さて真。よく聞いてくれ」
 食事が終わった時、和正がそう切り出した。
「これから俺らはここから歩いて山の麓(ふもと)にある廃虚に向かう。そこがゴールだ。けれど、俺はそこまで付いていけない」
「……」
 真はただじっと、向かい側に座る和正の話を聞いていた。
「廃虚のある場所は、俺らが別れる場所から右に行って、次の十字路を左、次の信号を信号無視して直進、両脇に畑のある道を進んで突き当たりを右に行くとぽつんと廃ビルがある。裏手に廻って裏口を壊して中に入り、最上階に行ってくれ。そうすれば、真だけは生き延びる事ができる」
「……和正は」
 力なく真はつぶやいた。まるで魂の抜けたような顔をして、ずいぶんと老けているように見える。
「……まあ、二度と会えないのは確実かな」
「……」
 真はもう何も感じなかった。
 和正は死ぬ。殺される。それは〈POHI〉が和正の死を宣告したときから決まっていたことだ。その瞬間から何をやっても和正は死ぬ運命にあっただろうし、だからこそ和正は逃げなかったのだろう。自分の未来が視えていて、助かる道があるならば和正はそちらを選んでいたことだろう。
 和正は、自分の運命を受け入れている。だから、自分にはどうしようもないことなのだ。
 けれど。
 私は、和正を愛してしまった。
 失いたくなかった。例え、すでに運命が決められていようとも。
 和正も私を愛してくれた。
 悲しかった。
 なんで、人造人間である自分に愛なんて物が与えられたのだろう。愛が無ければ、こんな苦しみを、絶望を味わうことのなかっただろうに。
 なんで、私は和正と出会ったときに和正を殺さなかったのだろう。あの時に和正を殺していれば、私は人の温もりを知ることもなく、いつまでも平気でいられただろうに。
 心に穴が開いたようだった。
「真。生きることとは存在することだ」
 和正の言葉を理解する訳でもなくぼんやりと真は聞いた。
「存在さえすれば、それは生きていると言える。生きているならば、きっといつか、幸せになれる」
「……幸せ?」
「ああ。真だって存在しているんだ。存在している以上、幸せになる資格があるんだ」
「……」
「俺がいなくても、真は幸せになれる。だから、俺のことなんかさっさと忘れて幸せになるよ〜に」
 和正が少し無理やりに笑って見せる。和正だって辛くない訳ではないのだ。和正も強い悲しみを持ち、そしてそれを隠している。
 私は――
「……分かった」
 覚悟ならば、すでに昨日の内に済ましてある。もう、迷わない。
「約束、したぜ」
 和正の言葉に、真は静かに頷いた。
 二人は店から外へと出た。人気のない、道路沿いに植えられた今は一つも葉の付いていない木々の並ぶ冬の町並は、とても寂寥(せきりょう)としていた。
 冬の風は、ことさらに冷たかった。

   △ ▼ △

 冬の夜の足は早い。四時半頃には日は沈み、五時ともなれば、そこはすでに、闇。
 そして、その闇に乗じて“敵”は来た。
「来るぞ……しゃがんで右へ!」
 和正が叫んだ。真は疑いもせずにその言葉に従った。
 しゃがんだ瞬間、〇.二秒前まで真の頭があったところを何かがしゅんっと通り過ぎていき、右へと飛び出した後にも真がいた空間を何かが通り過ぎていった。
「へえ、やるじゃない」
 闇の向こうから賞賛の声が上がった。真はその声に聞き覚えがあった。
「私の“子供たち”を躱わすなんて……それが未来を視る能力って訳ね」
「ミーシャ……」
 真は背筋が震えた。
 閑散としている畑の多い町の中の、ぽつんと一つ立っている街灯の光の届くぎりぎりの闇の中に、一人の色の落ちたスリムジーンズとGジャンに身を包んだ、ボーイッシュそうなイメージのある女がいた。
 まさかランクBの暗殺者が来るなんて……!
「用件はもう分かってるわよね、とーぜん」
 両手をジーンズのポケットに突っ込んだ、ちょっとお散歩でもしているような気楽な体勢で女は笑う。
 そんな体勢でも、その女、“ミーシャ”は自分を殺すことができるだろう。対し、こちらはかすり傷一つ、いや、まず二メートルまでの距離に近づけるかどうかも怪しい。
「いちおー宣告しといてあげましょうか? 〈POHI〉を裏切って男と逃げちゃったランクD3、ネルフェスとー、そっちの〈TEV〉を――」
 ミーシャが爪先を少し持ち上げた。
「抹殺しま〜す」
 爪先が、地面を叩いた。
 同時に、真が引っぱられて地面に叩き付けられた。また、紙一重でミーシャが放った攻撃が躱わされる。それからすぐに引き起こされて、
「行け!」
 和正に言われて、真は走り出した。腰の辺りが何かに濡れてべったりと張り付いている。きっと、和正の血だ。
 迷わない。私は誓ったんだ。和正と約束したんだ。
 後ろから飛ばされたらしいミーシャの攻撃で、簡単に左腕が刎ねられて長い髪の毛が断ち切られ、右脇腹に穴が開いた。それでも走り続ける。
 真は涙を流しながら、闇へと続く道を走った。

   △ ▼ △

「あ〜あ、逃がしちゃったじゃない」
 真が自分のテリトリーから外れたことをぼやきつつ、ミーシャは視線を下へとずらした。
 そこには真へと向けられた攻撃に体をぶつけて、攻撃を無理やり逸らして一瞬で無残な姿へと変えられた和正がいた。
 右腕が中ほどからなく、左足の足首が無くなっていた。腹に大穴が開き、千切れた腸がそこからぼとぼと落ちている。
 血が止めどもなく流れる。暗闇の中ではそれはまさしく闇の色をしていた。深く深く、人々の光をも簡単に奪い去る、闇の色。
「そんなに惚れてたの? 作り物であるあの女に? ま、私も人の事言えね〜けどさ」
 ミーシャは和正の腹を小突いた。和正が痛みに呻き(うめき)声を上げる。
「そんな能力を持っているあんたよ。自分が死なずに済む方法ぐらい判ってたんでしょ?」
「……それでは……童貞は捨てられなかったんでな……」
「なにそれ。何かのジョーク?」
 ミーシャはにやにや笑いながら和正の腹に蹴りを入れた。和正はごみ箱のように何かを蒔き散らしながら吹っ飛ばされる。胃が破裂したらしく、こぼっと黒い血を和正は噴き出した。
 それでも、和正はまだ死んでいなかった。
「ま……だ」
「あん?」
 ミーシャは“死”に首まで浸かっているそれに近づき、顔を近づけた。
「ま…っ…だぁ……おわ…っ………てなっ…い……」
 和正は必死にミーシャの足を掴む。けれどもミーシャはその腕を簡単に振りほどき、和正の手を踏み潰した。ベギョリ、と嫌な音と共にあちこちに和正の手の指が飛ぶ。
「おーおー、この後に及んでまだ悪あがき? いいこんじょーしてんじゃない。悪いけど、あんたはここで終わりよ。それくらい、あんたにだって分かってんでしょ? いくら、“世界にハッキングをかけられる”からってねぇ?」
 和正にその声が聞こえているかどうか確かめもせずに、ミーシャは死にゆく人間を面白そうに眺めていた。
「“未来が視える”だけで、他人を成功に導ける訳なんてないでしょ? あんたはさぁ世界にハッキングを仕掛けて、こうすればこうなるってことを視てたんでしょ? 世界の攻略本持って生きてるようなもんだもんね。人間ってなぁ怠け者が多いから、攻略本があるならばそれに越したことはないって誰もが欲しがんのよね。そして、それを手に入れたヤツはいずれ世界を征する。そういうヤツが出てこないようにするのが私らって訳よ。ま、因果な力を持って産まれてきたと諦めてちょ〜だいね。すぐに連れを送ってあげるから」
 それが言い終わるほんの少し前に、和正は死んだ。さな……と言い残して。
「最後まで人の話は聞きなさいよ〜」
 少し怒りつつ、ミーシャは自分の左手の手のひらを、右手の人さし指でとんとんと叩いた。
 闇が動く。
 闇が和正の死体に取りつき、がっ、ごきり、ぶちゅっ、みしり、ぶちっ、べきっ、と殺伐とした音を立てながら和正の死体を食べ始めた。
 そして、その闇の中からぽーんとボールが飛んできた。
 ミーシャがそれを受け取る。それはまだ微かに拍動している心臓だった。手の中でまだ動いている心臓を、ミーシャはぺろりとなめた。
「いい味してるわ、うふ」
 恍惚とした顔をしながら、ミーシャは心臓を専用の瓶に入れた。
 それからまた何かが闇の中から放り出された。
「あーもう。精子取るだけなんだから棒の方はいらないわよ」
 ミーシャは和正の性器を拾い上げ、いらない部分はナイフで切り落として睾丸をまた専用の瓶に詰めた。
「これをすり潰せば精液のでき上がり♪」
 そう言う間に、闇がまた街灯の光の外へと退いていく。もう、そこには死体はなかった。周りにもすでに綺麗に片付けられており、ついさっきまで血まみれの人間が転がっていたと思わせるような痕跡は全て削除されていた。
 そこにミーシャが立っている、という事以外は。
 ミーシャはサンプルを懐にしまうと、楽しげに笑った。
「じゃ、次行きますか♪」

   △ ▼ △

「結局、逃げられなかった……」
 暗闇の中に、女の声が響く。女は荒く息をしながら、床に寝転がっていた。女の周りには液体が溜まっている。それから臭う臭いから、その液体は血であることが知れた。
 女は死にかけていた。左腕はなく、脇腹は大きく削り取られており、もはや手の施しようがない。
 女は泣いている。そこにあるのは深い悲しみ。他人には理解できるはずもない絶望。生きることを放棄してしまいそうになるほどの虚無。
「でも……よかった……」
 女は闇の中でつぶやき続ける。音のない世界の中で、女はつぶやく。
 もはやまともな思考は残っていないのかもしれない。ただ、死の縁にぎりぎり止まっているだけ。もう、女は死ぬ。女に残された道は、もう一本道となっていた。
 けれども、女は微笑んでいた。死ぬ間際としては場違いなほどの嬉しそうな微笑みだった。
「私は……」
 声もほとんど出ていない。かすれた声で女はつぶやいた。
「私は……誰かに言って欲しかった……」
 女が何かを求めるかのように弱々しく自分の手を上へと掲げる。女が触れたかったもの――、女が欲しかったもの――、女には手の届かなかったもの――。
 女はとても短い間だったけれども、確かにそれに触れたのだと思った。それを抱きしめることができたのだと思った。
「こんな私でも……幸せになれると……」
 すっと闇の中から伸びてきた手が、女の手を握った。
「なれるよ、今からでも」
 少年の声が闇の中に響いた。
「あなたは、幸せになりたい?」
 少年の声は女に問う。女は微笑んだらしかった。けれども、少年は女が微笑んだことをはっきりと見ていた。
「なりたい……約束……だから……あの人との……」
 そこで女の声は止まった。少年が握った手から力が抜ける。少年は女の手を握ったまま、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
 少年の手に淡く青白い光が生まれ、それが女へと流れていく。光は女の身体を浸食し、そして包み込んで最後には安定した。まるで女の身体が淡く光っているように見える。
 少年はそれを確認すると、ゆっくりと手を握ったまま“引っ張り上げた”。
 ずるり、と女の体から淡い青白い光に包まれた半透明のものが引きずり出て来る。少年はそのまま引っぱって半透明のものを女の体から完全に引きずり出した。
 それは、言うなれば今死んだ女の幽体――魂だった。
 まだ、幽霊となった女は目を覚まさない。今はただの仮止め状態だ。これから時間をかけてゆっくりと本止めをしなければならない。そうすれば、彼女はまだこの世界の中に存在することができる。
「保証はしないよ」
 少年はつぶやいた。今し方幽霊となった女の幽体を抱き抱える。少年の体では女の体は少しばかり大きすぎたが、幽体である彼女ならばとても軽いので無理ではなかった。
 少年は横に振り向く。
 その先には、一人の男が立っていた。その男も女と同じく、体が透けていた。男は微笑みながら少年と女を見ていた。
「彼女が幸せになるかどうかは彼女が決めることだよ。彼女が幸せにならなかったとしても、僕は責任は持たないよ」
 少年はつぶやく。男は黙っている。
「……ま、走っていったら追いかけてあげることぐらいはするけどね」
 少年は優しげに微笑を浮かべた。男も嬉しそうに微笑む。
「――」
 男がゆっくりと指を突き出し、何かを言った。空気を振動させない言葉。けれども少年はその言葉を聞き取り、もぬけの殻となった女の死体のズボンのポケットを探り、コインロッカーのキーを取り出した。
「――分かった。渡すよ」
 そして、男が少年に深々とお辞儀をした。そして、その姿がどんどんと霞んでいって、見えなくなった。
「ま、たまたま僕がいるところに来たんだ。そう、たまたまね。だから、僕は彼女の願いを聞こうと思った。くじの当たりみたいなものかな、僕との出会いは」
 少年は誰もいない闇の中で、自分が今感じていることを言った。それからふと、階段があるほうに顔を向ける。下の階から気配がした。誰かが上がってくる。
 少年は“彼女”を抱えたまま、近くのガラスのない窓から飛び出した。
 地面に物が落ちる音は、いつまで経っても聞こえることはなかった。

   △ ▼ △

「ありましたよ、ネルフェスの死体」
「ん。じゃあ回収しろ。“リサイクル(再利用)”に使うから」
「え? あなたの力を使えば簡単に処理――」
「ぐだぐだ言ってんじゃねーわよ。さっさと袋に詰めなさいよ。もうすぐ回収班が来るから」
「は、はい」
「それと付近の捜索もね。何か残してあるかも知れないし」
「それも、私が一人で?」
「そうよ、文句あんの? ノルファーム」
「い、いえ」
「なら、回収班が来る前にちゃっちゃとやっちゃいなさい。回収班を手間取らせるんじゃないよ」
「……ネルフェスの死体に何か?」
「んー、もしかするともしかするかも」
「?」
「あんたが考える必要はね〜わよ。さっさと済ませなさい。私は先に帰るわ」
「は、はい」
「あ、そうだ。帰りにコンビニに寄って温かい缶コーヒーとサンドイッチ五個、おにぎり七個、アンパンとクリームパンとジャムパンを三個ずつ買ってきなさい。缶コーヒー、冷めてたらぶっ殺すからね」
 それ、一人で食うのか。ノルファームは暗澹(あんたん)たる気分になった。
「はい……」
 そしてミーシャは去っていった。かんかんかんかんと足音が階段を降りていく音が響く。
 くそっ、とノルファームがつぶやいた。そして作業を始める。
「今に見てろよクソが。絶対に俺の前にひざまずかせて靴をなめさせてやる」
 絶対に達成できない野望である。しかしそうとでも愚痴らなければやってられない。今は死体となってしまったこいつのせいで、どれだけ走り廻ったことか。そして、あの女はいいところだけを持っていきやがった。俺だって、俺だって活躍してもいいだろうが!
 そう思いつつ、ノルファームは死体と成り果てたネルフェスの死に顔を見た。どこか、少し笑っているように見える。
 この女が死ぬ間際に心に思っていたことはなんだったのだろう。きっと、それは俺には永遠に解らない事だろう、と思う。
 ため息を付いた。
「お前のこと、割りと好きだったぜ」
 そうこぼしつつ、死体を入れる袋を広げた。
「ん〜、あのね」
 今ならば空間を跳躍できると思った。今し方去ったはずの後ろから聞こえたミーシャの声は、ノルファームを外宇宙までぶっ飛ばせるだけの威力があるはずだった。
「言い忘れてたわ。たばこも五箱買ってきなさい。いいわね」
 頷くことも出来なかった。ましてや振り向くことなんか出来なかった。
 そしてまた、階段を降りていく音。登ってくるときの音は聞こえなかったはずなのだが……。
「……部下が出来たらそいつに命令しまくってやる」
 そうしよう、と心に誓った。

   △ ▼ △

「瑠華ってさ、“光と笑いし者”っぽくないね」
「俊樹は“闇と踊りし者”らしくないわよ」
 視線がぶつかる。
「なんでそんなに寡黙なんだよ」
「なんでそんなにしゃべるのよ」
 また視線がぶつかり、また同時に言い返す。
「にぎやかなほうが楽しいし」
「静かな方が気が楽だし」
 同時に口を噛み締めて、言う。
「《光》の者ならプラス思考万歳だろー!」
「《闇》の者なら棺桶にでもこもりなさいよー!」
 二人とも立ち上がって睨み合う。
 が、しばらくして俊樹が笑い出した。その様子に瑠華が戸惑いを見せた。
「瑠華、面白〜い!」
「な……!」
 ようやくからかわれたことに気が付いて、瑠華は顔を赤くした。
 その二人の様子を見て、真は静かに微笑んだ。野菜庫(冷蔵庫の下の段)に買ってきた野菜を詰め込み、次に冷蔵庫を開けて、
「あら、俊樹様、牛乳を買って来られたのですか?」
「ああ……」
 真はまじまじと俊樹を見た。そして瑠華の方にも目をやって、
「俊樹様、やはりもう少し身長があったほうがよろしいのですね」
「……うん」
 俊樹が珍しく、はっきりと答えを返してこなかった。それを見て真は微笑んだ。
 俊樹の正面では、瑠華が怪訝そうな表情をしている。
「身長が欲しいの? なぜ?」
「……やっぱり身長は一七〇センチはあった方がいいかな、と思って」
 俊樹が少し気にしているような声でぼやく。そんな俊樹を見て、真は少し微笑んだ。
 真から見ると、俊樹の身長と瑠華の身長ではその差はほとんどない。瑠華の身長は割りと高いのだ。やはり男の子として、女の子よりも身長は出来る限り高く離れていた方がいいのだろう。
 平和だった。
 そこにある光景が全て、真に喜びを与えてくれていた。真は通常の幽霊とは異なった存在なので、希望を叶えたとしてもこの世界から存在が消えるということはない。
 だから、思う。
 ――この世界が好きなんだ。真のいる、この世界が――
 私も、この世界が好き。和正が好きだったこの世界が好き。だから、もしもこの世界が滅びにさらされるのだったら、何としてでもそれを防ぎたい。
 私が幸せになれる世界を護ることが、和正の幸せに繋がるのだから。
「雨が上がったようだな」
 俊樹の声が聞こえ、真は閉じていた目を開けた。真は静かに、キッチンからベランダへと続くドアの窓から外を眺める。
 さっきまで降っていた雨は上がっていた。空を見上げると薄くかかっている雲に隙間が生じて、やがて青空が見えた。そこから陽の光が街を照らしていた。真はその光景を見つつ、つぶやいた。
「台風、通り過ぎたようですね」
「そうだな。ようやく連続雨の日が終わったってことかな。まだ続くかな?」
 俊樹が答えながら紅茶を飲み干した。
「さてと、せっかくの日曜だしやっと雨上がったんだし、本屋に行ってくる。瑠華、行こうぜ」
「命令しないでよ」
「言わなくてもどうせ来るだろ?」
「そうだけど……」
 面白くなさげな顔をしつつも瑠華もコップの紅茶を全て飲み、俊樹と一緒に玄関へと歩いていく。真は俊樹と瑠華を玄関まで見送った。
「いってらっしゃいませ」
「あい、行ってきま〜す」
 俊樹が手を振って返事をし、一応傘を持って俊樹と瑠華は出かけて行った。
 ただ一人、家の中に残った真は、頭にヘアバンドのように巻いている黄色いスカーフを触りながら昔のことを思い返した。
 真の体が今の体に落ち着いたあと、俊樹に言われてコインロッカーの中味を取りに行った。ちょうどその日はクリスマスで、雪が降っていた。
 そこに入っていたのは、二人の逃亡生活で使った服と使い残されたお金と、手紙とプレゼントだった。

 クリスマスプレゼント!
 これを頭に巻いてみそらしど。ぜってー可愛いと思うぞ。俺が保証する!

 和正

 その言葉と共に、黄色いスカーフが真宛てに残されていた。それを見た瞬間、あの人はもう帰って来ないのだという思いに囚われて、不覚にも大泣きしてしまった。
 傍には俊樹様がいたのに。大恥をかかせてしまったと思う。まあ、真がその事について謝ったとき、
「泣いたって構わないよ。泣きたかったんでしょ? 別に僕は構わないし」
 と平然と答えてくれたのだった。俊樹様には泣いている人を慰めようという気は起こらないし、他人の視線などは気にかけないらしい。そのドライさが俊樹様らしいのだけども。
 ただ一人、書斎の開け放たれた窓から流れ込む風に身を任せながら、書斎の窓に寄り添って真は空を見上げる。温かい日差しを投げかける光のカーテンが、順次に街並を照らしていく。
 和正と遊園地に行ったあの日も、こんな天気だったと思う。こんな天気から、夕方には綺麗に晴れ渡って……。
 また、思う。

 ――和正。

 両手を胸に添えて、黙祷する。愛したその人の冥福を祈って。安らかに、眠れることを願って。

 ――私は、幸せです。


番外編 ―― 幸せになる資格  了