手の内からこぼれる世界


番外編 ―― 幸せになる資格

 1

「結局、逃げられなかった……」
 暗闇の中に、女の声が響く。女は荒く息をしながら、床に寝転がっていた。女の周りには液体が溜まっている。それから臭う臭いから、その液体は血であることが知れた。
 女は死にかけていた。左腕はなく、脇腹は大きく削り取られており、もはや手の施しようがない。
 女は泣いている。そこにあるのは深い悲しみ。他人には理解できるはずもない絶望。生きることを放棄してしまいそうになるほどの虚無。
「でも……よかった……」
 女は闇の中でつぶやき続ける。音のない世界の中で、女はつぶやく。
 もはや、まともな思考は残っていないのかもしれない。ただ、死の縁にぎりぎり止まっているだけ。もう、女は死ぬ。女に残された道は、もう一本道となっていた。
 けれども、女は微笑んでいた。死ぬ間際としては場違いなほどの嬉しそうな微笑みだった。
「私は……」
 声もほとんど出ていない。かすれた声で女はつぶやいた。
「私は……誰かに言って欲しかった……」
 女が何かを求めるかのように弱々しく自分の手を上へと掲げる。女が触れたかったもの――、女が欲しかったもの――、女には手の届かなかったもの――。
 女はとても短い間だったけれども、確かにそれに触れたのだと思った。それを抱きしめることができたのだと思った。
「こんな私でも……幸せになれると……」

   △ ▼ △

「よう、待ったか? マキ」
「――次の暗殺対象は?」
「はは、つれないねぇ。もうちっと愛想よくできねぇのか?」
「……」
「わかったよ、そう睨むな」
 街中の大通りに面したどこにでもある並の喫茶店。平日の二時だから、店内にはほとんど客の姿はない。暇そうにコーヒーを飲みながら本を読んでいる中年の男が一人。ウェイトレスも暇そうに奥の厨房でゆっくり洗い物をしている。
 もちろん、この店の中で物騒なことが進行中とは誰も気付いていない。
「今回の〈TEV〉はこいつだ。ちっと大物らしいぜ?」
 男が手持ちの鞄の中から書類を取り出し、マキに差し出した。マキはにべもなくそれを受け取って、まず今回のターゲットの顔写真を見た。それから名前を見る。
 なにか面白い事でもあったかのように小さく笑っている、少し締まりのない顔の男。
 中山和正(なかやま かずまさ)。
 それが、今回の暗殺対象だ。
「そいつの能力は、“他人に的確な指示を出す”事だ」
「言われなくても書いてある」
「……つれないねぇ」
 男のぼやきは無視して書類を読んだ。
 能力――他人の未来を感じ、現状況、及び“近接未来状況”に合うもっとも適切な助言を与えること。
 “予言者”、か。
 このタイプの〈TEV〉はその存在自体は無害なれども、見逃す訳にはいかない相手だった。ほいほいと未来を見られては困るのだ。存在が露呈すれば世界バランスが崩れることは必至。誰もが望む未来をかいま見る能力。そんな物、早めに削除するに越した事はない。
 年は二五歳。自分よりも二歳年下だ。自分の年齢が二七歳であることが正しいならば。
 自分の記憶は一六歳とされるところから始まっている。その前の記憶は一切ない。おそらくは、“設定”されている年齢よりも、自分が生命活動を行なっている年数は短いはずだ。
 何となく苦々しい気分になりつつ、マキは続きを読んだ。
 今までにこいつに助言され、成功とも言える道を歩み始めている人数が多い。こいつは、自分の能力に気が付いている。そう見るべきだろう。
 そして、
「Gだ」
 男の言葉を無視して資料を読む。
 レベル−G――九段階中の第五段階(上から四番目)。“自分の未来も視えるが戦闘能力なし”。
 “未来を視る”能力において、自分の未来が視えるか視えないかの間にはかなりの溝がある。戦闘能力の有る無しにかかわらず(レベル−Yだろうがレベル−Gだろうが)、自分の未来が視えるかどうかのほうが決定的なものとなる。
 未来が視えるというのは、たとえば戦いにおいてならば敵が通る位置が判るという事であり、敵がどんな作戦を練っていたとしても地雷なりなんなりと料理することが出来る。
 ただし、自分の未来が視えないという事はいつどこから流れ弾が飛んでくるか判らないという事であり、運が悪いと頭に弾を受けて無価値な死体に成り下がることになる。逆に自分の未来が視えれば流れ弾に当たることはない。
 一つの事が出来るか出来ないかで全てが変わるのだ。生と死は隣り合せとはよく言うが、まさにぴったりだ。
 調査の結果、目標は調査員の投げた野球ボールを避け、上から落とされた植木鉢を避けた。その避け方はとっさのことに反応したというものではなく、前々から自分の身に起こることが判っていたようなあまりにも自然な動きだった。身辺調査によると、特に戦闘訓練もしていないのでレベル−Gに認定された。
「……一キロ先からの狙撃の弾も避けるようなヤツを、一体どうやって殺せと言うのよ」
「さてな」
 男は投げやりに答えた。
 自分の片眉が上がるのが自覚できた。
「なにそれ? 殺せない相手を殺せって言うの? 馬鹿げてんじゃない? 降ろさせてもらっていいかしら?」
「命令だ、ネルフェス」
 男は短く答えた。もちろん、素直に降ろしてくれるとはこちらも思ってはいない。言われたことに逆らうほどの力はないのだ、自分には。
 けれども、ささやかながらではあるが反抗はしていた。
「……その名を呼ぶの、やめろって何回も言っているはずよ」
 ふん、と男は鼻を鳴らした。
「ともかく、すぐに行動に移ってくれ。期間は二ヵ月だ」
 マキは立ち上がって、一度も振り返ることなく店から出ていった。その後ろ姿に流れる長い黒髪を見ながら、ふぅ、と男はため息を付いた。
「……つれないねぇ」
 それから目をテーブルに戻し、それを見て苦い顔をした。
「……金くらい、払って行きやがれ」
 男は伝票を手に取って角でこんこんとテーブルを叩いた。

   △ ▼ △

 目標はすぐに見つかった。
 中山和正。ただ資料に書いてあるとおりに、目標の帰宅に使う道の途中の繁華街で張っていただけだ。
 自分の未来が視える者に小細工は一切通用しない。狙撃は避けられるし、色仕掛けでもどうにもなるのではない。楽しむだけ楽しまれて、あとはさよならが関の山だ。
 では、未来が視える者を殺すためには?
 簡単だ。避けられなくすればいい。
 今は目標の周りには無関係の人間が何人かいる。そいつらが目標の障壁となり、逃げ出すにしても一瞬だけ隙が生まれるはずだ。
 その一瞬で決める。自分の脚力を持てば、目標までの三〇メートルなど三秒だ。隙が生まれたその瞬間に押さえ付けて首をかっ切れば、いかに未来が視えていようとも一本道のはずだ。
 目標を処理したあとはただ逃走すればいい。後始末は〈POHI〉がやってくれる。
 さあ、やろう。
 マキが自分のズボンのベルトに付けたナイフの柄(つか)を握った時だった。

 目が合った。

 目標と。
 その自信ありげな目に射抜かれて、手が止まった。
 目標が、こっちを視たまま軽く人さし指を左に向けた。一瞬、何の事が判らなかった。
 次の瞬間、

 ズガアァンッ!!

 マキの左後ろにあったガスボンベが突然爆発し、マキはなす術もなく吹っ飛ばされた。
「がっ!」
 悲鳴を上げつつも意識を飛ばされないように踏ん張り、地面に転がると同時に素早く起き上がって逃走
「よう」
 出来なかった。目の前に目標が立っていた。
 無意識に腰のナイフを握って、目標に切りかかった。目標は動かない。殺れる――!
「残念」
 目標が小さくつぶやき、腕を広げた。そこに突っ込むようにナイフを突き立てて――
 目標に抱きしめられた。
 頭が真っ白になった。どういう事か判らなかった。何がどうなったのかが見えなかった。
 まず噴き出るはずの血は? 肉を切り裂き骨を砕く感触は? 耳をつんざくような断末魔はどうしたのか? なぜ倒れない? なぜ死なない? なぜ温かい?
 ……なんで抱きしめられているのだ?
「あんたを待っていた」
 目標がつぶやいた。訳が判らない。
「……なぜ、死なない?」
「だって、あんたはナイフを持っていない。胸を叩かれたぐらいでは死なないぜ」
 はっと自分の手を確かめた。確かに、そこに握っていたナイフはない。そんな馬鹿な。こいつは予知能力以外の何らかの力を持っているとでも言うのか?
「あんたのナイフは爆発に巻き込まれた瞬間に飛んでったぜ。あとはあんたが訓練で刷り込んだ動作を無意識で行なっただけ。ナイフを握ったと錯覚したんだ。それだけさ」
 必死に状況を理解しようとした。けれども頭がうまく回ってくれない。初めのなにかが引っかかっていて思考が流れない。
「あんたはいつでも俺を殺す事が出来る。だから、しばらく俺に付き合ってもいいだろ?」
 それが、目標との初めての会話だった。
 会話の半分も、理解できなかった。

   △ ▼ △

「包丁の握り方はこうだ。そういう持ち方じゃなくて……そうそう」
「……」
 そして一日経った今でも半分理解できないでいる。
 今日は土曜日で目標の仕事は休み。よって目標は家にいる。そこまではいい。
 しかしなぜ私までが目標の家にいて、しかもなぜ目標から包丁の握り方などを教わっているのだ? さらに目の前には林檎。これを剥かなければならない……?
 何で料理なんか習っているのだろう、私は。
「女なら林檎ぐらい剥けるようになっておかねーとな。特に槙(まき)の場合」
「……」
 目標、中山和正は私のコードネームを馴れ馴れしく使っている。なぜ目標が私のコードネームを知っているのかと言えば、私が教えたからだ。
 それで、なんで目標の家で台どころに立って、林檎を包丁を使って剥く練習なんかしているのだろう……。
 延々この疑問が頭の中をぐるぐる回っていて、一向に答えが見つからない。
「林檎の剥き方にはおおよそ二種類ある。まず皮を剥いてから四つに切り分けるやり方と、四つに切り分けてから皮を剥く方法。今のうちに説明しておくと、別に四つじゃなくても好みに合わせて八つと切り分けてもらってもいい。でもうさぎさんにするなら八つのほうがいいけどな。そっちの工夫のほうはまあ一度、ちゃんと剥けてからだな。包丁はよく切れる包丁を選べよ。思い通りに切れなかったら怪我することもあるからな。切れないと思ったら砥石でといとけ。いざとなったら新品買いに行け」
「……おまえ、何をしている……?」
 槙が冷たく和正を睨む。和正のほうは挑発的に笑って、
「何しているように見えてんだ?」
「……私に料理を教えようとしているように見える」
「ならそうなんだろ」
 その瞬間、槙が目にも止まらぬ動きで和正の首元の少し横に包丁を突き出した。
「……私はおまえを殺しに来たのよ」
「けれども今、槙は俺を殺さない」
 ひょうひょうと和正は答えた。ちっ、と舌打ちをして槙は包丁を引っ込める。
「また持ち方間違えてるぞ」
 和正に言われて、槙は包丁の握り直した。それから無言でまな板に置かれている林檎を一つ取り、剥き始めた。
「ほら、ちゃんと皮の部分を親指で押さえろよ。押さえずに剥いていたら指切るぞ」
 そして、見ておけと言わんばかりに和正も林檎を剥き始めた。綺麗に薄く林檎の皮が剥かれていかれ、すぐに林檎は上のへこみと底のへこみの部分を除いて丸裸になった。
 それを見てから、槙は自分の剥いていた林檎に目を落とした。剥いたというよりは切り落とした感じで角々になった林檎が手にある。林檎の身がたくさん付いた皮が洗い桶の中に落ちている。
「へたくそ」
「……」
 情け容赦ない和正の言葉に顔には出さなかったが、槙はなぜかショックを受けた。
 林檎がちゃんと剥けないぐらい、一体自分に何の関係があるというのか。自分の生きる目的は人間の暗殺であり、こういう家庭的な事柄には全く無関係なはずだ。
 ……いいや。
 槙は自分の考えを自分で否定した。
 自分は、憧れて(あこがれて)いたんだ。暗殺なんかしなくてもよくて、こうやって普通に生活することを。
 暗殺対象は実にさまざまな人間がいた。自分の能力を使って金を貪る者、他人を喜んで傷つけていた者、力に呑まれて頭が壊れた者……。けれども、そういう者ばかりでもなかった。
 他人を助けていた者、物探しをただ手伝っていた者、家族を愛していた者……。そんな彼等を殺す時は心が痛んだ。自分が憧れる立場にいる者達を殺してもいいのか、と。
 幸せになりたいと願う自分が、幸せである者を殺していいのか、と。
 判らなかった。
 判らないまま、命令に従って殺していた。〈POHI〉に危険だと判断された者達――〈TEV〉。彼等を生かしておくことは出来ない。なぜならば、彼等が存在するだけでこの世界のバランスは崩れるから。
「さて、剥いただけでは林檎はおいしく食べられない。ここから四等分にしてだな、」
 和正は剥かれた林檎をまな板の上に置き、上から包丁を当てて四等分にした。ごろっと四等分になった林檎がまな板の上に転がる。和正がその一つを取って、
「残っている皮の部分を剥き、芯をV字カットで取り除く。こうすりゃあ綺麗に食べられる部分だけが残って食べやすくなるだろ?」
 手本として一片を綺麗に剥いて、まな板の上に置いた。そして食器棚から器を一つ取ってきて、完全に剥かれたそれを器に移す。
「さあ、やってみろ」
 槙は和正に言われてしばらくぼ〜と黙った後、ともかく途中で止まっていた林檎を最後まで剥き、四等分にして芯を取り除いた。さっきまでのド下手な包丁の使い方ではなく、和正の説明通りに行なって林檎は綺麗な形になっていた。先に切り落としてしまった部分はどうしようもないが。
「おっ、綺麗に出来たじゃん。先に手本を見せておけばよかったな」
 からからと笑って和正が器を槙の前に差し出す。槙は完全に剥かれた林檎の一片を手に持ったまま、じっとその器を見、次に和正の顔を見た。
「……私にこんな事を教えて、どうするつもり?」
 目標の行動目的の核心を突く質問だった。核心を突きすぎて受け流されるかと思ったが、
「槙を助けたい」
 と簡素に和正は答えた。その言葉はちゃんと聴いていたが、あまりに突飛な内容で槙はすぐには理解できなかった。
「なんですって?」
「槙を助けたいと言ったんだよ。そのためには家庭的な知識、経験がどうしても必要になるんだ。一般的な知識から料理、洗濯などの家事も教え込むから覚悟しろ」
 槙は呆気に取られてしまった。暗殺対象、それもこれから殺されると解っている者の言う言葉じゃない。
 ……何を考えているのだ? こいつは?
「ほらほら、呆けている時間も惜しい。質問タイムはこれが剥き終わってから取ってやるから、今は林檎を剥け。ともかく最後まで剥け。いいから剥いておけ。林檎を剥く角には福来たる」
 なんとも勝手な命令をして、和正も林檎を剥く作業に戻った。槙はしばらくぼんやりとその姿を見て、ともかく理由も解らず林檎を剥くことにした。
 林檎を全て剥き終わり、綺麗に剥かれた林檎と角々に切られた林檎を乗せた器を持って、和正と槙は畳敷きのTVのある居間に移動する。
 住宅地にひっそりとある安アパートの一室。そこが和正の家だった。部屋は綺麗に片付けられており、一人暮しなのに住人の性格を見い出せる雰囲気があった。和正はちゃぶ台の上に林檎の入った器を置いて座り、TVのリモコンを使ってTVをつけた。適当にチャンネルを回し、ニュースをやっているチャンネルで止めた。
『昨日の午後八時ごろ、巴山市(ともえやまし)瀬煮区(せにく)にある飲食店で爆発事故がありました』
「あ、昨日のやつだ」
 和正がちゃぶ台の上に置いた器から林檎を取ってかじりつつ、TVの中のニュースキャスターを見ていた。槙はただ座らずに林檎も食べずに、突っ立ったままニュースを見ていた。
『調べによりますと、ガスボンベのパイプが破損しており、そこから漏れたガスに何らかの原因で火が付いたものと見られております。爆発に巻き込まれた人は居らず、怪我人はないとのことです』
「あっ、ひでーな、巻き込まれた人はいるっつーの。なぁ?」
「……」
 和正の面白がるような笑みを無視し、まだ手に持っている包丁で
「先に林檎を食え。それからでもいいだろ?」
 手を動かす前に和正に林檎を勧められ、またも暗殺するタイミングを逃した。いや、林檎なんか無視して包丁で目標の首を引き裂けばいいだけだ。こんな有利な立場にあるのに、なんで私は殺そうとしないのだろう?
「突っ立ってないで、まあ座れよ。自分で剥いた林檎なんだ、食っといた方がいいぞ」
 槙は言われるままに座り、包丁はちゃぶ台脇に置いといて林檎を一口かじった。
 ……甘い。
「うまいだろう?」
 和正の言葉には頷かず、黙って槙は林檎を食べた。食べ続けた。

   △ ▼ △

 それから、奇妙な共同生活が始まった。
 いや、はっきりと言うと同棲生活だった。
 朝、槙が起きるとすでに和正も起きており、朝食の作り方を和正に教えられながら朝食を作り、食べ終わったら和正は槙に「これを読んでおけ」と、たくさんの本を渡して会社へと出勤する。
 和正が置いていく本は今まで槙が触れたこともないような内容の物ばかりだった。化粧の仕方から高校の保健体育の教科書まで、今まで槙が知らないことがたくさん書かれている本がそろっていた。
 昼は今まで通りにコンビニに食品を買いにいくかどこかの店で食べるかだったが、五日も過ぎれば食材を買ってきて自分で料理するようになった。
 それからは和正に与えられた本を読み、暇になったら本来の自分の拠点であるマンションへと行って着替えなどを持って来た。
 九時過ぎに和正が帰ってきて、また槙は料理を教わりながら二人で夕食を作って食べる。それから槙は家の風呂を使い和正は近くの銭湯に行き、和正が帰ってきたら今度は掃除、洗濯、物の片付け方や傷の手当などの、家事の諸知識についての講義及び実践が行なわれた。さらにビデオゲームや将棋、チェスなどといったボードゲームからトランプ、ウノなどといったカードゲームなどの娯楽まで教えられた。
 休日になると和正は槙を連れて街へと出て、本屋に行って本を眺めて購入したり、銀行に行ってお金を降ろしたり、映画を見たりファーストフード店で食事したりした。そしてあまつさえ、槙の服を買ってくれたりもした。
「……どういうつもり? こんなものを私に与えれば、自分が殺されないとでも思ってるの?」
 槙は和正が買い与えた肌色の上着に白いツータックのズボンに身を包み、しかしその服の色には似つかわしくないほどの無表情で、和正を見ていた。
 和正は少し笑いながら首を横に振った。
「いんや。ただの俺の趣味」
「じゃあ、なぜこんなところに連れて来るのよ?」
「あ、連れて来させられたとか思ってる? 駄目じゃん、俺を殺そうと思ってるんだったらそっちが主導権を握らなきゃ」
「……私はあなたを追いかけてここに来て、あなたを殺すためにこんなところにいる。……なぜ、こんなところにわざわざ来るのよ? 逃げ道はないわよ」
「うるせーなー、これから死ぬ人間のやることに文句言うなよ」
「……」
 なんとも身勝手な言い分に、槙は半ば呆れを感じた。ここまでずうずうしい人間はそうそういないのではないだろうか。
「見ろよ、夕方の街並は綺麗だろ? ここから見る景色は格別だなぁ〜」
 槙は少しだけ首を曲げて、窓から外の景色を見た。眼下に広がる、夕日に照らされた街並。少し覗き込んで下を見ると、ここからだと道路を歩いている人々がとても小さく見える。
 もしも和正に連れて……和正を追いかけてこなかったら、こんな光景はずっと自分が死ぬまで見られなかったかもしれない。
 観覧車の頂上付近から見た街並は、確かに綺麗だった。