手の内からこぼれる世界


 2

「……で、どうなんだ?」
「なにが?」
「目標の暗殺」
「……まだ殺せてないわよ」
 任務開始から一ヵ月が過ぎた。
 途中経過報告のために槙は連絡用の喫茶店に来ていた。槙が喫茶店に来たときにはすでに相手の男は来ており、コーヒーを飲みながらケーキを食べていた。そして、槙が男の向かいに座ったときの会話がそれだった。
「ふん、お前でもてこずる事があるんだな」
「行動を起こしてもさっさと躱わされちゃうしね。未来が視える能力者なんてとんでもない化け物ね……あ、コーヒーお願いします」
「……」
 注文を聞きに来たウェイトレスにコーヒーを頼んいる槙を、男は厳しい目でじっと見ていた。
「……どうかしたかしら?」
「――お前、本当にただてこずっているだけか?」
 一瞬だけ、槙の右手が震えた。男がそれを見逃すはずがない。けれども、あえてそれについての言及はせずに男はたばこを取り出して火をつけた。一息吸って、吐いて、また槙を睨む。
「大体、今のお前の面はなんだ?」
「なにがよ?」
 槙は冷静に聞き返した。けれども男の視線は厳しかった。本当ならば私の前でたばこは吸うなと言いたいところではあるが、槙は黙ってたばこの煙に耐えていた。
「一ヵ月前、俺は槙という女に会っていた」
「なに言って?」
 槙の疑問の声を、一切の言い訳を黙殺するかのような雰囲気を持って男は無視した。たばこの灰を灰皿に落すそのしぐさには、明らかに槙の言葉を全て圧殺する意思が込められていた。
「その女は愛敬というものを知らなかった。俺の存在はただの人形かそれ以下のように扱い、周りを拒絶するような気配をまとっていた」
 そこまで言って、男はたばこを口から離してコーヒーを飲んだ。槙は黙って男の視線を受け止めているしかない。
 そして、これで無駄話は終わりだとでも言うように、まだろくすっぽ吸ってもいない長いたばこを灰皿に押し付けて火を消した。
「……今のお前の面は、なんだ?」
 もう一度同じ質問をして、男はコーヒーとケーキをたいらげて立ち上がった。
「あと一ヵ月で任務を達成できない場合、強行手段に出る」
「――なりふり構ってらんないって事ね」
「そういう事だ」
 それでもう通達事項はなくなったのか、男は別れの挨拶もせずに無遠慮に槙の横を通り過ぎ、店から去っていった。
 後に取り残された槙は、背中を伝う嫌な汗を感じていた。
 私は……変わっている。いや、変わってしまった。
 この一ヵ月、和正と共に過ごした事で私は変わってしまった。
 今思えば、この二、三日では和正を殺そうとしたことは一度もなかった。ただ寝食を共にして、家事全般やその他の知識を教えられて、二人でよくしゃべっている。
 ――楽しいのだ。そんな生活が。〈POHI〉からの命令を忘れてしまえるほどに。
 やっと運ばれてきたコーヒーを受け取り、砂糖とミルクを加えて飲む。
 一ヵ月前ならば、私はコーヒーに砂糖とミルクを入れることはなかった。けれども、最近は和正に合わせてコーヒーに砂糖とミルクを入れている。そのコーヒーはとても甘くておいしかった。なぜ、今までの自分はコーヒーに砂糖とミルクを入れなかったのだろう、と疑問に思ったものだ。
 私は……和正を殺したくないと思っているのかも知れない。
 例え、和正の全ての行動が未来を視た上での演技であったとしても、この生活を壊したくなかった。
 けれども、あと一ヵ月でそれは消え去ってしまう。
 和正がいなくなれば、自分は一体どうなってしまうのだろう? また、無機質に人を殺す人形になってしまうのだろうか。
 槙はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
 昔の自分に戻るのが、とてつもなく、怖かった。

   △ ▼ △

『恋愛とは、相手の“虚構化”である。一人の人間の中で、相手の恋人はいいように美化され脚色され、悪い部分は絵の具を塗るかのように、「想像力」で被い隠して見えなくしてしまう。
 この様に相手の本質を視界から被い隠し、その上に実に都合のいい絵の具を塗ることにより、人は恋愛を続けるのだ。だから、恋人たちは一緒にいる二時間の逢瀬よりも、それを待つ二週間の間に、快楽を見い出すのである。
 そして出会ったとき、そこには「想像力」とは関係のない相手がいることに戸惑い、心にも思っていないことを口走ってしまったりする。
 そして別れた後に、また新しい「想像」を巡らせて、次に恋人と会うことを、楽しみにするようになるのである』
「……そんなものかしらね……」
 一人でつぶやきながら、槙はぱらぱらと和正が高校時代に受けたという模試の国語の問題をめくる。
 任務開始から一ヵ月半が過ぎた日の夕方。相変わらず槙はこたつに足を突っ込んで読書に勤しんでいた。
 まったく、こたつは悪魔の発明だとどこかの本で読んだが、まったくその通りだと思う。一度入ると抜け出すのに気合いとか根性とか言われるものが必要になるのだ。
 ラジオからは今流行りの音楽が流れている。時計を見ると六時だった。外はすでに真っ暗で、少し肌寒い。もう秋なのだから当り前なのだけれども、なんだか寂しい。
 和正、早く帰って来ないかな〜と思う。でも、和正が帰って来るのは早くても八時ごろだ。あと二時間もある。
 その模試の問題を読み終えた後、槙は根性を発揮して悪魔の発明から脱出し、気合いを振り絞ってスーパーへと出かけた。
 スーパーの中を一時間ほど練り歩き、新しい歯ブラシと歯磨き粉などの雑貨と、夕食のための食材を買った。今晩は秋刀魚(さんま)とお味噌汁とチンゲン菜と豚肉の炒め物にしよう。このメニューは三回目だがまあいいでしょう。
 買ったものをスーパーの袋に詰める。固くて重いものを一番下に置き、それから順々に潰れないものから入れていく。こういう知識も和正から教えられたものだった。
 と言うよりも、和正がいなければこういう普通の買い物を槙がすることもなかっただろう。

 そこでふと思う。

 和正はあと一週間とちょっとで死ぬ。それなのに、こんな物を必要とするのか、と。
 和正はあまり買い置きはしない。今の今まで一人暮しだったから、大して気にしなかったのだろう。だから、和正の生活の中に槙が入って、日用消費雑貨は二倍のスピードで無くなっている。だから、またすぐに買わなくてはいけなくて……。
 槙はぐるぐる廻る思考にストップをかけた。
 和正はまだ死んでいない。ならば、死ぬその時まで日用品の需要が無くなることはない。だから、必要なのだ。
 袋を持って外に出た。秋風が吹いていて寒い。上着を着て来ればよかった。そう思いながら一歩踏み出すと、
「よっ、槙」
 呼び止められた。振り向くと、その先にはいかにも仕事帰りの白いコートを着た和正が立っていた。
「あ、仕事は?」
 槙は驚きつつもそう尋ねる。いつもならば和正が帰ってくるのは一時間後だというのに。
「今日は少し早く終わったの」
 和正は槙に近寄って、
「俺が持つよ」
 槙から荷物を受け取った。そして、二人で歩き出す。
「今日の板ご飯は、秋刀魚の焼き魚と、お味噌汁と、チンゲン菜と豚肉の炒め物だから」
「秋刀魚か〜。今が旬だもんな。大根は買った?」
「あっ、買ってない!」
「買ってこなくてもいいよ」
「買って……そう?」
 槙が買ってくる、と言う前に和正は買ってこなくてもいいと言った。彼の能力ならば朝飯前の所業のはずだ。
「未来を視たの?」
 槙が聞くと、和正は首を振った。
「いいや。視てない。けれども判るし」
 和正は歩きつつ答えた。
「未来なんか視ていたら会話が成り立たないしな。会話はキャッチボールだからな。どこにミットを持っていけばボールが飛び込んでくるのかを知ってたら、ただの作業になっちゃって面白くね〜の。大体、俺には細かい部分までは判らねーし。大体を視てるだけなんだよ」
「そうなの?」
「そうだ。だからな、細かいところとかはちゃんと自分の目で視とかなきゃならねーの」
 そう言って、突然和正は手荷物を地面に置いた。槙が驚いて足を止めると、和正は自分の着ていたコートを脱いで槙に渡した。
「寒いんだろ? 肩が震えてるぞ」
「え? でも和正は?」
「ははは、これから死ぬ人間の体調なんか気にするんじゃね〜よ。それに俺はこう見えても丈夫だからな、心配に及ばん」
 和正は地面に置いていた手荷物を拾って歩き出した。槙は渡された和正のコートに身を包んだ。……温かい。
 少し先を行く和正に早足で追い付いた。
「……和正のコート、温かいよ」
「おっ、女らしい事言う様になったじゃん」
 槙は顔を赤くした。考えれば確かに、今の科白(せりふ)はちょっと……。
「でも、いいよ」
 和正は嬉しそうに笑った。
「初めて出会ったときよりも見違えるように良くなったよ。あの頃は槙ったら荒んで(すさんで)たもんな〜」
「そ、そう?」
「ああ」
 和正は振り向いて、槙の頭を撫でた。
「槙、可愛く、そして綺麗になったしな」
 槙の顔が火を噴くかのように赤くなった。思わずうつむいてしまう。
 私、きっと恋をしている。
 それは虚構化なんかじゃない。これがもし虚構だと言うならば、このコートの温かさはなんなのだろう。この、頭を撫でてくれる手の温かさはなんなのだろう。
 私には、この人は殺せない。〈POHI〉に背くことになる。自分はきっと殺されるだろう。
 それでもいい。和正の傍にいられるのだったら……。

 そしてその四日後、和正と槙は逃亡した。
 和正が逃げ出しても見つからない時刻を予知してそのまま、あっさりと逃げおおせた。槙には極秘で付けられていた監視要員が、定時連絡を取るために目を離した一分間の出来事であった。

 監視要員が、和正と槙がいつの間にか家の中にいないことに気が付いたのは、丸一日経ってからのことだった……。

   △ ▼ △

「会社は辞表を出したし、親には手紙を送ったし、何の問題もなしだな」
「……びっくりしたわ。有給を取った、なんて言っていたと思ったら、実は仕事を辞めていたとはね……」
 逃亡した翌日、自宅からすでに一〇〇キロメートルは離れたがら空きの電車の車両の中に、和正と槙の姿はあった。和正は黒、槙は白のコートを身にまとい、和正は黒い帽子を被り、槙は化粧をしてヘアバンドで髪形を変えていた。それだけで以前の槙を知っている人間相手ならごまかせるとは和正の言だ。
「いんや? 書類手続き上では今日は有給で休んでる事になってるよ。明日、上司に辞表を処理してくれるように頼んだから。そうじゃないと槙の組織にすぐにばれちまうからな」
「そう……それと、私はもう、組織には所属していないわ。和正と逃げたことが判ったら、私も堂々と暗殺対象の仲間入りよ」
「ははは、心配すんな。逃げ切れるから」
 槙は和正のことを信じている。けれども、その言葉には頷くことは出来なかった。
 〈POHI〉は全世界を手中に収めている巨大な組織だ。どんな国の社会システムも、この組織の介入を受けている。こうなると〈POHI〉を組織と呼んでいいのかすらも定かではない。
 つまり、どこまで逃げても、どこまでも追いかけられて最後には殺されるということだ。例え和正が未来を視ることが出来たとしても、和正の行動能力では追い詰められて殺されるだろう。
『葉原(はばら)、葉原でございます。六合漉(くにこし)方面のお方は三番線にお乗り換えです。左側の扉が開きます。ホームとの間にご注意ください』
 女性の声の録音アナウンスが流れ、電車が駅に止まった。今、自分たちがいるのは、和正の家からすでに二県越えたところにある藍囲城市(あおいぎし)だ。ここの近くには確か、藍囲城日米軍事基地があったはずだ。
 ドアが閉じて、また電車が動き出した。
 槙はとなりに座っている和正に身を寄せた。足に着替えなどを詰め込んだアタッシュケースが当たる。
「怖いか?」
「……うん」
 槙は素直に頷いた。もしも相手が和正でなければ、こんな弱みを見せることはなかっただろう。
「実を言うと、俺も怖いよ」
「和正も?」
「ああ。でもな、槙と一緒にいると温かくなるからな。頑張れるさ」
 槙は胸が苦しくなった。
 違う。
 私は何もしていない。温かさを分けてもらっているのは私のほうなのだ。今まで冷え切っていた私を温めてくれたのは、和正なのだ。
 私は和正に温かさを分けてなどいない。
「どうした、思い詰めた顔して」
 和正は微笑みながら少しうつむき加減になっていた槙の頭を撫でた。
「……私は、何もしてない」
「そんな事ないぞ。ほら」
 和正は槙の手を取って、優しく握った。
「槙の手、温かいじゃん。これで俺は十分なんだよ」
 胸が高鳴った。自分の鼓動を聞きながら、槙はゆっくりと、和正の手を握った。和正の手も、温かかった。
 この手を離したくない。そう、思った。

   △ ▼ △

 和正の家から逃げ出して、二週間が経った。
 逃避行はさっぱりと緊張感がなく、ただの旅行のような気分で行なわれていた。和正が逃げ出す直前に銀行から三百万ほど降ろしたので、お金には困っていない。
 和正に連れられて電車に乗り、色々な地域を巡って食べ物を食べたりしていた。そして、夜には旅館やホテルに偽名で泊まる。ホテルにクリーニングサービスがあるときは、一回着た事のある服は全て洗濯してもらう。
 寝るときには、和正と槙は同じベッド、布団で寝ていた。まるで夫婦のように二人で寄り添って。
 しかし。
 はっきり言えば。
 なんだか子供が大金持って家出したのと変わりない。
 逃げるのは結構だが、その先の生活はどうするかの目処がまったく立てられていないのだ。このままではいずれ資金を使い果たして、路頭に迷うしかなくなる。
 銀行などからお金を降ろせば足が付いてしまい、〈POHI〉に居場所を教えることになる。それはどんなことをしてでも避けなければならない最優先事項だ。
 そういう訳で、和正は旅先で日払いのアルバイトを探しては槙と一緒に働いていた。この一週間のうちに四回。喫茶店でのアルバイトで、皿洗いや注文を受けたり注文物をテーブルに届けたりしていた。
 初めてのアルバイト。これは槙にとってこの世の終わりとも言えるほどの緊張感を与えていた。
 仕事そのものには問題ない。ただ、まったく知らない人の機嫌を損ねないようにしながら会話しなくてはならない。問答無用に人を殺すのとは訳が違うのだ。
 さらに、傍に和正がいないのも不安だった。和正は荷物運びや皿洗いが割り当てられることが多く、槙にはウェイトレスの仕事が割り当てられていた。距離にして和正とは四〇メートルと離れていないのだが、槙にしてみればその距離は地面と雲ぐらいの開きがあった。
 けれども、槙は頑張った。
「色々な人がいんだろ? たくさんの人を見とけ。いろんな人としゃべっておけ。人にはさまざまなタイプがいることを、肌で感じとけ」
 と、和正は言った。
 このアルバイトの本当の目的はお金ではないことがすぐに解った。和正が槙に求めているのは“働くことそのもの”だった。和正以外はまったく知らない人々の間で働く。まったく見ず知らずの人々と会話する。
 初めの内はギクシャクと働いていたが、三回目ともなると慣れてしまった。まだ多少の緊張はあるものの、見ず知らずの人に笑顔を向けるぐらいの余裕は出てきていた。移動先でのバイトとなるので、毎回バイトをする店は違う。もちろん店の人も違うし店のメニューも違う。ほぼ、どこでも時給八百円。八時間働いて六千四百円。二人合わせて一万二千八百円。決して多いとは言えない。
 けれども一生懸命に働いて、給料をもらうのは楽しかった。
 嬉しくもあったが、楽しいと感じる気持ちの方が大きい。今まで自分が知らなかった世界がそこにあることを感じる、わくわくするような高揚感があるのだ。
 和正となら、なんでも出来る。槙は心からそう思った。

   △ ▼ △

「ま、ここなら大丈夫だ」
 あるホテルの一室で、槙と和正は荷物を床に置いて備え付けのベッドの横に、もたれるように床に座り込んだ。
 逃亡生活はすでに一ヶ月が過ぎていた。〈POHI〉からここまで逃げ切れるなんて、槙はまるで信じられなかった。季節は秋から冬へと移行し始めており、気温は寒くなってきている。隠れるために厚着をしなくてはならない身としてはありがたい。
 今日もアルバイトをしていたのだが、今日のアルバイトは辛かった。残業を頼まれて明日のための物資の搬入をやらされたのだが、段ボール一つ一つが重かった……。
「ここは、普通のホテルじゃないのね」
 槙は大した疲れも見せずに周りを見渡した。元々、和正とは鍛え方が違う。その気になれば二四時間ぶっ続けで働くことができるが、移動しなければならないのと和正の体力が槙に比べると微々たるものなので、大体働けるのは八時間なのである。それはさておき。
 まず、部屋は広くて調度品が飾られ、クリーム色に統一された壁は防音性で窓は一つも取り付けられていない。今までのホテルではベッドはツインだったのに、このホテルは大きなダブルベッド一つきりだった。
「ラブホテルだからな〜。こんなとこに御厄介になるとは思わなかったよ。しかも男女で」
 くっくっくっと和正が愉快そうに笑う。
「多分、風呂場はでかいぜ。ジャグジー(泡噴き)ぐらいは付いてるかもな。ゆったり出来るぞ」
 槙もその辺りは知識として知っている。和正に渡された本の中で、こういう場所などに関することを描いた漫画があったので。
 もちろん、“それ以外の知識”もしっかりと吸収済み。
「これは……コンドームね」
 ベッドの脇に置いてあったゴム製の丸いものが入った包み、五個綴り(つづり)をひょいっと手に取って眺めた。
「ふーん、実物見たのは初めてだな〜」
 となりに歩いて来た和正が興味深そうにそれを眺めた。槙はその避妊具を元の場所に置いて、バスルームを覗いた。確かに広い。そして立派だった。バスタブは二、三人は楽に浸かれそうなぐらいの大きさだった。
 ふと、バスルームにある大きな鏡が目に止まった。そこには自分の姿が映っている。
 二ヵ月前ならば、こんな顔はしてなかったでしょうね。
 槙は自分の顔に手を当てて思った。
 私は何人もの人を殺めて(あやめて)来た。そこにあるのはとても冷たい顔であったはずなのに、今の自分の顔には冷たいものは感じられない。
 たった二ヵ月で、こんなにも変わってしまうものなのか。いや、和正が私を変えてくれたのだ。この二ヵ月はとても充実していた。和正にはいくら感謝してもし足らない。
 一応、風呂は沸かされていることを確認して、槙はベッドのある部屋の方へと戻った。そちらでは、和正が備え付けのソファに座り、テーブルに向かってここに来る途中で買った林檎を四徳ナイフで剥いていた。
「私が剥いて上げましょうか?」
「いや、別にいらね〜けど」
「ううん、私が剥いて上げる」
 そう言って槙が和正のそばに寄ったとき、和正が少し辛そうな顔をしているのを槙は確かに見た。けれども、和正はすぐにその顔を隠して笑った。
「……じゃあ、剥いてくれ」
 和正が槙に半分剥きかけの林檎とナイフを差し出した。それを受け取って、槙は和正のとなりに座って林檎を剥き始めた。切り落とした林檎の皮は、テーブルの上に置いてあるスーパーのビニール袋の上に置いた。
「……うまくなったな、槙」
「おかげ様でね」
 槙は林檎を剥き、四等分して芯を切り取った。
「はい」
「……ああ」
 槙が差し出した林檎の一片を、和正は言葉少なく受け取った。
 会話がしにくくなった。槙も和正の様子が変だということに気が付きながらも、聞くことができずに自分も林檎を食べた。
「槙」
 唐突の和正の呼び声に、槙はびくっと驚いた。
「な、なに?」
「槙には、もうすぐやらなきゃならない仕事がある」
 和正は笑うこともなく、無表情に言った。けれども、その声には少し辛そうな響きがあることに槙は気が付いた。
「何かしら?」
 槙は手に持っていた四徳ナイフをテーブルの上に置いた。和正はたっぷりと間を取って、言葉を続けた。
「槙が知ったことを、次の子に伝えること」
 そこで、にっと和正は笑う。とても寂しそうに。
「もうすぐ、この旅はお終いだ」
 今度こそ、槙は飛び上がるかと思われるほどに驚いた。
 この旅の終わり。
 それは……
「もーすぐお別れだ」
「嫌よ」
 槙は即座に答えた。手に持とうとしていた林檎の一片が手を離れてテーブルの上を転がる。
「ここまで来て、そんなの」
 ゆっくりと、槙は和正に抱きついた。ただ、離れたくないという気持ちが槙の心を支配していた。今この手を離せば、もう二度と掴むことができないのではないかと不安に駆られる。
「もう十分、槙はいろんなことを知っただろ? だから槙は次は教える側に廻るんだ。俺はそのために槙をここまで連れて来たんだからな」
「和正は、それでいいの?」
 和正は優しく槙の頭を撫でた。そして、「ああ」と頷く。
「俺はさ、この世界が好きなんだ」
 槙は的外れのように思える和正の言葉に怪訝な表情をした。
「出来れば滅びて欲しくない。この世界には槙がいるんだから、さ」
 そっと、槙の身体を抱きしめた。
「俺の幸せとは、槙が幸せになってくれることだ。だからここまで槙を連れて来たんだ。槙が俺にしがみついていたら、俺は幸せにはなれない。俺がどんな事になろうとも、決して立ち止まらずに進んで欲しい」
 槙は長い間、和正を見続けたまま、黙り込んでいた。
 これが最後の選択だと思う。
 ここで和正の差し示す道を拒否すれば、おそらくは二人とも無駄に死ぬことになって和正の今までの努力も無駄に終わるだろう。
 けれどもその道を進めば、自分は和正と離れ離れになるだろう。おそらくは、永遠に会えなくなる。

 永遠に。

 自分は、和正がいなくても生きて行くことができるだろうか?
 和正のいない世界を想像することができない。
 和正のいない世界なんて想像したくない。
 まるで世界が手の内からこぼれ落ちて行くかのようだ。一生懸命に手の内に押し止めようとしても、さらさらときめ細かい砂のように指の隙間からこぼれ落ちていってしまう。自分は何と無力なのだろう。自分は、指の隙間を無くすことができないのだ。
「俺の、最後の我がままだ。素直に受け止めてくれないか?」
 和正の言葉が心に染み込んだ。
 もう、答えは決まっていた。槙は、やがて頷いて、静かに泣き始めた。
 これは決別の誓い。
 二度と会えないことを理解した証し。
 和正は優しく笑って、槙を抱きながら槙の頭を撫で続けた。
「じゃあ最後の決別の儀式として、」
 和正がそこで口をつぐんで、こう言った。
「名前を、捨てよう」
「えっ?」
 槙は聞き返した。和正はにっと笑って、
「槙は今の名前を捨てて、新しい名前を持って新しい道を歩くんだ。槙なら出来るから」
 名前を……捨てる。それは、“槙”という名のヒューマノイドのピリオド(終止符)を意味する。
 人を殺すためだけに生きている私。何人もの人間を殺すだろう私。自分にはない物を持つ人々を殺すだろう私。ただ命令をこなす日々。命令のないときは訓練とつまらない情報収集をするしかない日々。
 それらを、捨てる。
 構わない。
 喜んでそれを捨てよう。
 組織にも命を狙われることになる。
 けれども私は、和正を信じる。和正は私が幸せになれると言った。私が幸せになれば、和正も幸せになれると言った。だから、私は和正を信じて幸せになる。そのために昔の自分に戻る道を捨てなければならないと言うのならば、喜んで捨てよう。
 槙は頷いた。和正はただ優しく、微笑んだ。
「槙の新しい名前はもう考えてあるんだ」
 和正が鞄から紙とペンを取り出した。そして、林檎の皮などを退けてテーブルの上に紙を置き、ペンで大きめの文字、『槙』の字を書いた。
「槙の名前はこれだ。けれども、完全にこれを忘れてはいけない。たとえそれは捨てることになろうとも、これは間違いなく槙の過去だ。その全てを捨てることは許されない。だから、この字をちょっといじくってさ、」
 槙は和正の隣から、紙に書かれた自分の名前を見ている。
「こういう名前にした」
 かりかりとペンを走らせる。
「何のしがらみもなく、何にも束縛されていない本当の姿になれることを願って」
 和正がペンを置いた。
「これが槙の新しい名前」
 そこに書かれていた名前。『槙』という字の『木』の部分が消されて『真』という字が残っていた。
「おまえの新しい名前は、『さな』、だよ」
「さ、な?」
「そう。それが、おまえの名前」
 次の瞬間には、槙――いや、“真”は和正に抱きついていた。真の体を、和正はしっかりと抱きとめる。
「――嬉しい」
 そうして二人はお互いの顔を見つめ、目を閉じてゆっくりと唇を重ねた。
 やがて二人の唇が離れて、
「こういう時には、こういう事をしてもいいんでしょう?」
「全然、構わねえよ」
 和正は少し恥ずかしそうに、少し嬉しそうに答えた。真と和正はお互いの体をしっかりと抱きしめる。そして、真は和正の耳元で小さくつぶやいた。
「こういう時には、ああいう事もしてもいいんでしょう?」
「――ああ、真が望むならな」
 和正の心臓の音が聞こえる。和正の心臓の音は早く、そして力強く鼓動していた。その音を聞きながら、真は自分の心臓も同じく早く動いていることだろうと思う。
「私の名前、たくさん呼んでね」
「分かってるよ、真」
 涙が頬を伝った。それは紛れもない、喜びの涙だった。

 ――何回も何回も私は和正に名前を呼ばれた。私は自分が何を言ったのかをよく覚えていなかった。
 ――けれども、
 ――和正の体は、とても温かかった。
 ――それだけが、とても嬉しかった。