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人間の健全なる精神 |
第二章 事実と解放「……」俺は無言で俺の頭を流れ、首をしたたり、体をの表面を通り抜け、足を流れていく透明なお湯を眺めていた。 もう、さっきまでそこにあった赤い色はない。 みんな、流れていってしまった。もう、俺の体には赤い物は付いていない。 『ああ、そうだな。先にシャワーを浴びたらどうだ?』 白衣を来たひょろ長い男が俺に向かって告げた。 『そんなままじゃ、気分が落ち着かないだろ? シャワーでも浴びて頭をすっきりさせたほうがいいぜ?』 俺はそして、シャワーを浴びた。赤い布を脱ぎ、血まみれの全身を見たときにはもう何も考えていられなかった。 俺はふらふらとした足取りでシャワー室に入り、シャワーを浴びた。初めは冷水だったと思う。けれど、俺はそんなのはどうでもよかった。 少しでも早く、血を洗い流したかった。俺は壁に掛けてあったタオルを使って体を洗った。どんどんと血が流れていく。ホラー映画のような赤い水が排水口へと流れていく。いや、ホラー映画に比べてそんなに血の割合は多くはなかった。ホラー映画のは赤すぎだ。だけども、あれは作り物だ。本物じゃないんだ。 そして、シャワーが温水になったころには液体の血は洗い落とされ、後にはこびりついた血ばかりになった。俺は懸命にこすってこびりついた血すらも落とした。 その時に気が付いた。 体がおかしい。 体調がおかしいのではなく、体そのものがおかしい。 俺の知らないところに傷があったりホクロがあったり、手の指の太さが微妙に太くなっていたり。 どうなっている? まるで他人の体の様じゃないか? 馬鹿な。そんな事ある訳ない。俺は俺だ。ここにいる。体が換っているだって? そんな事ありえない! だんだんと気分がむかついてきた。嫌悪感が募る。 俺は一体、どうなってしまったんだ? それを知るためには。 あの男。 あの白衣の男。 あいつから聞かなくてはならない。 俺はようやくシャワーを止めた。血に染まっている濡れたタオルをしぼって体を拭く。何回もしぼって拭いた。 シャワー室から出ると、床に脱ぎ捨てた血に染まったマントはなくなっており、代わりに真っ白なマントが置かれていた。それを被るように着て、俺は部屋の方に戻った。 白衣の男はそこにいた。大きめのローラーの付いた椅子に座ってこちらを笑顔で見ている。 「まぁそこに座りな。何も気にしなくていいからな」 医者のような男が俺に丸い椅子に座るように指示した。俺は呆然としてそこに座るしかなかった。 「まぁ、これでも飲め」 男が俺にコップを手渡した。俺はコップを受け取って、コップの中身を見て、 悲鳴を上げて床に落としてぶちまけた。 血だった。 血がコップに入れられていた。 「あ〜あ、もったいない」 俺は平然と残念そうにつぶやくその男を化け物を見る目で見ていた。 「あ、あんた、なんなんだよ!?」 「僕? 僕の事なんてどうでもいいだろう」 つまらないことを聞くな、とでも言いたげなように男が答えた。 「血を飲まないと君、死ぬよ?」 俺は黙っていた。その男が何を言っているのかさっぱり理解できない。言葉が頭に入ってこない。俺の思考は全て停止しかかっていた。 「何を、言っている?」 「おいおい、寝ぼけてるのか? 血を飲まないと死ぬと言ったんだ」 「なぜ……?」 「そういう身体だからさ」 「なに……?」 「説明するとだねぇ〜」 男はもったいぶるかのように俺の前の大きな椅子に座って足を組んだ。 「フランケンシュタインだよ。知ってるか?」 俺は無言でその男を見つめていた。男は関係なく説明を始めた。 「フランケンシュタインとは、死体を繋ぎ合わせて造った人造人間の物語だ」 死体。死体を繋ぎ合わせる。自分の体が換っている? 違う? 換えられた……? じゃあ……俺は……? 俺の焦点定まらぬ引きつる様な顔を白衣の男はじっと見ていた。悪魔の笑顔を顔に張り付けて。 「君はね、あっちの世界から戻ってきたんだ。蘇ったんだよ」 俺は目の前の男が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。 蘇った? つまり、俺は、一度……いいや、そんな訳ない! そんな事、ある訳ない! しかし、しかし……! 「僕はね、長年魔術や呪術というものを研究してきた。そしてとうとう、僕は人造人間を造りだす方法を見つけた」 男は誇らしげに俺に言った。俺には狂人のようにしか見えない。 「たくさんの人間を集めて血液型別に分けて監禁しておく。一定量、溜まったっら全員を殺して血を集めて骨を取り除くんだ。さらに一人の人間を死体から選んで頭を残し、他の死体からパーツを集めてきて繋ぎあわせる。ここは医者としての腕の見せ所だ。綺麗に繋がっているだろう?」 男は嬉しそうに俺の全身を舐めるように見回した。マントを着ているため、直に肌を見られている訳ではないが、俺の背筋に嫌悪感が走った。こいつの前にいるとどうしようもなく不安になる。その笑顔の下に覗いている狂気に、俺はいますぐに逃げ出したい衝動に駆られていた。しかし、どういう訳か体が動かない。 「あとは魔術を使ってお前の体の中に、う〜んと、そうだな、『鬼』を住まわせた」 「……お、に?」 俺は声が震えていた。どんどんと知ってはいけないことを知りつつある。知ってしまったら、俺は……! 「まぁ、『鬼』とは少し違うんだけど解りやすいだろ? 僕はやさしいから、解りやすく解説してあげるよ」 俺は歯を食いしばっていた。こいつが怖くてたまらない。 「『鬼』と契約したら体の方は準備完了だ。あとは呪術によって体に魂を縛り付ける。これには大量の血と肉が必要でね。君も見ただろう? 君の周りに置いておいた材料を」 俺の脳裏にあの血の海と死体の山の映像が走った。吐きそうになったが、胃の中には何も入っていないせいか唾をごくりと飲み込んだだけでなんとか抑えることができた。 こいつは、何が、したいんだ……? 「まー、『鬼』がいないと肉体を維持し続けることができないから、血を飲まなくちゃいけない。血を与えることが『鬼』との契約内容だからね。何、大した事じゃない。一週間に一度くらい、輸血パックから血を飲めばいい。でも、半年に一度は生き血を飲む事。二年に一度は人一人くらいの生き血が必要だよ。わかった? ちゃんと飲んでくれよ」 まるで医者が薬の使用法を言っているかのような穏やかな声で男は俺に言った。 しかし、俺はこの男の狂気に怯えていた。 「お、お前、何が、したいんだ……?」 「はん?」 俺の震えた声での質問に、男は顎をなでてしばし黙考した。 「そんなの、やりたかったからに決まってんじゃん。人間なら当り前だろ?」 「なんだと……!?」 こんな事、こんな事人間にできるはずがない! 「せっかく蘇生術を完成させたんだ。作ったものは使わなきゃ。そう思うのが人間の健全なる精神って物だろう?」 こいつは、狂っている。そんな物が、そんな事が、許されていいはずがない! 「あとは……そうだな、もしかしたら“拒絶反応”が起こるかもしれないけど――」 「ふざけるな!」 俺は男の声をさえぎって怒鳴った。 「人をたくさん殺しておいて、それが人間の健全なる精神だと!?」 俺は荒く息をしながら目の前の“化け物”を睨んでいた。化け物は俺を眺めたあと、くすくすと笑い出した。 「そうだよ? 何を怒っているのか知らんが……人をたくさん使ったことを怒っているのか? ちょっと待ってくれよ、材料を使って実験をして、何が悪いんだ? 人間なんて、日々他の生き物を実験台にしてるんだぜ? 人間自体が実験台にされてるのなんて日常茶飯事。別に問題もないだろう?」 「人間を実験台に使うだと!? そんなの間違っている!」 「なんで?」 「そんなの、当り前だ!」 「何が当り前なのさ?」 平然とした口調で問い返してくる男に、俺はだんだんと怒りが弱まっていき、怒りによって消えかけていた言い知れぬ恐怖が膨らんできた。 こいつに何を言っても無駄なのではないか。こいつには何を言っても止められないのではないか。 「なぁ、人を殺しちゃいけない理由って言うのは、なんだ?」 男は面白がるように聞いて来る。俺にはもう答えられなかった。 「お前は、ただ親や世間から人を殺しちゃいけないって教えられただけじゃないのか?」 男は笑っている。ただ、笑っている。 「一度も考えたことないんだろう、なんで人を殺しちゃいけないのかって。ただ親から駄目、世間から殺人は駄目って言われてきたから、ただその言葉に従ってそういうのを常識として刷り込まれただけなんだろ」 俺は何も言い返すことができなかった。男の言う通りだったからだ。理由を考えるよりも先に駄目だ、と言われてきたから。結論が先に教えられたから、何も考えなかった。とりあえず自分には損な事だと教えられたから、その考えに至るまでの過程が全く解っていなかった。 「なんで人を殺しちゃいけないのかって解ってないヤツにそんな事を言われる筋合いはないね。僕には人を使う理由がある。必要だから使う。悪い事か? なぜ悪い? 理由のない常識なんか何の役にも立たないよ?」 「……お前みたいな奴を、社会は認めないぞ」 その言葉は、俺の“人間として”の反発だった。こいつを認めてはいけないという、俺の精一杯の反発だった。 「ふん? 社会って面白いものか? つまんないじゃん。いつもいつも人にレールの上を歩く事を強要してさ、人間としての自由を奪い取ってるだけじゃん? お前みたいに“理由なき常識”を刷り込ませてさ」 「ち、違――」 「社会が素晴しいものなら、僕も従ったかもしれないよ。けれど、もはや社会はメリットよりもデメリットのほうが多い。お前のお父さんはリストラに怯えてないかい? あっはははは! 必要のない人間はさっさと切り捨てる、それが今の社会の実態じゃないか! きゃはははははは! メディアだってみんながやってる悪そうな事を黙認し、目立ってきたら生贄を出して袋叩きにしてるじゃん!?」 何が面白いのか解らない。俺は震える手を握り締めて何とか耐えようとした。 「僕が人間をさらってきて一週間になるけどさ、ニュースでも全く話題に出て来ないんだよ! 新聞では時たま出てる事もあるけど記事小さいし! 社会は人が減って喜んでんだよ! 行方不明者が出たとしても、殺人が行われたとしても、大して気にしてないのさ!」 「そ、そんなこと」 俺が反論しかけようとすると、男は笑みを引っ込めて冷たい口調で問いかけて来た。 「ないって言えるのかな? お前だって、新聞やニュースでどこそこでだれそれさんが殺されましたっていう話を聞いても、ああやってるやってるで気にも止めないだろう?」 俺は今度こそ言葉につまった。目の前の化け物の言ったことは正しいと、頭のどこかで頷いてしまったからだ。 殺人事件の報道がなされても、火事で人が死んでも、次の日には忘れている。 なぜ? ……どうでもいいことだからだ。 俺には関係ないことだからだ。 例え人が死んで悲しんでいる人がいるとしても、世間は“そんな事”でさっさと忘れてしまう。社会は人が死んでいることに無関心だ、どちらかといえば喜んでいると言われても、文句の言い様がない。 喜んでいるのは確かなことだから。 人が死んで、社会は話題として喜び、そしてさっさと忘れる。事件が起こることを喜んでいると言われれば社会は反発するだろうが、実際には陰で喜んでいるんだ。 俺は悔しくて悲しくて、震える口を食いしばり、両手を握り締めて泣きそうになるのを耐えていた。 そんな俺の姿を、化け物は心底面白がっていた。笑い声が聞こえる。けれども、俺にはそれを止めることはできない。俺には、止める資格がない。いや、多分、誰にも止める資格はない。 「ま、君もせいぜいその体で生きてくれよ。他人の体だけど」 びくっと俺は体を震わせた。気が付かないうちにうなだれていた顔を上げて絶望に満ちた声で聞いた。 「たにんの、からだ……?」 「そうだよ。何人もの体を繋ぎ合わせたって言っただろ? フランケンの話、したじゃん」 俺は握り締めていた自分の手を見た。違う! これは、他人の手だ! 「あ、ああ、」 手も腕も足も体も内臓も血も、何もかも、全部他人のものだ! 「い、嫌だ」 俺が感じた感情は“絶望”ではなかった。 「嫌だ、嫌だ、嫌だ」 俺は頭を両手で押さえ、しかしすぐに引き離した。これは、他人の手なんだ! 俺のじゃない! 目の前の化け物は平然とした顔で俺を眺めていた。何も言わない。 俺の目に、机の上に置かれたペン立てが見えた。 「嫌だああぁぁぁ――――!!」 俺はペン立てに置かれていたカッターを掴み、 「おい、そのカッターは」 俺は自分の首を切り裂いた。大量の血が俺の首から飛び散る。けれど、それは他人の血だ。俺のじゃない! そんなものいらない! 「雑務用であって、解体用じゃないぞ」 俺が感じた感情。それは、何物にも換え難い、“拒絶”――。 俺は血が抜けて、意識を失いつつ床に倒れた。床に広がるのは他人の血。そんなもの、いらない。 「ああ、また刃を替えなきゃ」 俺は、助かったんだ。 今度こそ、本当に、助かったんだ――。 男は死体を見下ろしてため息を付いた。 「あ〜あ、“拒絶反応”が出ちゃったか。軟弱だな〜」 男は血の付いた白衣を脱いだ。 「なんでみんなこのカッターを使うかな。そんなに切れ味良くないのに」 ぶつぶつとつぶやいていると、死体がびくんと動いた。男は驚きもせずにそれを見下ろしている。 やがて、死体の背中を破って黄色い液が漏れ出してきた。ぼこぼこと噴き出してきて床に広がる。 「次はO型で行ってみようか。次は女だよ」 黄色い液は床に広がり、また一箇所に集まった。そして、一筋、液が流れていく。液は両開きの扉のすき間から向こう側へと伸びていき、全て流れて出て行ってしまった。 「ま、もう女しかいないんだけどね」 そして、男は死体の首を片手で掴んで引きずり始めた。首が半分くらい裂けているので掴んだ瞬間、首がぱかりと開いた。残っていた血が少し滴る。 男は気にも止めずに死体を引っぱり、となり部屋へと続くドアを開けた。そこには、先着がいた。 七つの死体。全て男のようだ。血に染まっているマントも投げ捨てられている。 男は無感動に死体を投げ捨てた。 「あ〜あ、男の死体なんてあっても全然興奮しないしな。やっぱ女の悲鳴を聞きながらっていう方がいいよな」 そう言いつつ後ろ手でドアを締め、部屋の中の血を始末しにかかった。ルンルンと鼻唄を歌いながら血を拭きとる。 血を綺麗に拭きとり、最後に血まみれのカッターを洗い、刃を丸ごと替えた。そしてそれをペン立てに入れておく。 そして、ロッカーから新しい白衣を取り出して着込み、机に向かってレポートを簡単にまとめる。対話、実験体の挙動の記録を取り、データを分析してまとめる。 最後に実験の感想を書いた。 『男はA−2を最後に全て自殺。どの個体も他人の体を使っているということに対する精神的な“拒絶反応”により事に至った。どれも精神状態は健全とは言えない。さらに、血を飲む事に対する拒絶も著しい。男は血に弱いからだろうか。そうすれば、女のほうが血には強いため、乗り切れる可能性もある。 これより、実験は女のグループのほうに移る。女のほうが健全な精神を持っている可能性は高い。成功を期待する』 こんこんとペンの尻で机を叩き、レポートを片付けた。 時計を見ると前実験体死亡から三〇分が過ぎようとしている。そろそろ来るはずだ。 案の定、ドアを開ける音が聞こえた。しかし、男のグループのときに比べるとその音は小さい。 男はにやりと笑った。これならば成功するかもしれないな。 ぺたぺたと足音が聞こえて、 「開いてるよ、遠慮せずに入りな」 男が両開きの扉に向かって言った。しばし、扉の向こうが沈黙した。 うんうん、いい感じだ。前の奴なんかびっくりして無様にひっくり返ったのにな。 やがて、扉がゆっくりと開かれた。 扉の向こうに覗いていたのは、中学生くらいの女の子だった。全身を血に染め、無表情でこちらを見ていた。 男は笑いながら手招きした。 「こっちにおいで。飲みものをあげよう」 やがて、扉が閉じられた。 後に残るは、闇ばかりだった。 |
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