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目次 / 1 / 2 / あとがき / 履歴 |
人間の健全なる精神 |
第一章 目覚めと恐怖チャプ……チャプ……そんな音を聞いて、俺は眠りの闇から出て来ることができた。 うっすらと目を開ける。視界はぼんやりとしているが、とりあえず目の前に白い光があることだけは判った。 なんだか水たまりの上に寝ているようだ。少し暖かい。 俺はぼんやりと目の前の白い色を見続けていた。水たまりの中に身体を横たえている。頭から足の先まで水たまりの中に浸かっているようだ。 なんで俺はこんなところで寝ているのだろう。さっぱり思い出せない。 瞬きを何回もしているうちに、視界がはっきりとしてきた。少し離れたところにある白い光の正体は、たった一本だけの蛍光灯だった。 たった一本。それ以外にはないようだ。明りは俺の上にしかないらしい。 ぼんやりとその冷たい光を放つ蛍光灯を見続けた。光は床までを照らすには弱すぎるらしく、蛍光灯の周り以外は真っ暗なままというありさまだった。まるで、闇の中からぶら下がっているかのように感じる。 そこで俺は自分の鼻が詰まっていることに気がついた。息がしづらい。 なんという事もなく自分の鼻を手でかこうとした。 そこで俺は自分が着ている服が変わっている事に気がついた。 いつもの長袖の服ではなく、大きな布みたいなのが巻きつけてあった。まるでマントのようだ。マントは万遍なく水が染み込んでいて肌に張り付いていた。 そこで俺はその下に何も着ていないことに気がついた。上着もズボンも下着すらも何も付けていない。たったマントみたいな布しか付けていないことに、俺はようやく気が付いた。 俺は異常を察する前に突然の恐怖と不安で動けなくなった。 ……俺は、なんでこんなところに……いるんだ? 俺はたしか……大学に夜の一一時まで残ってて、電車に乗って家に帰ったはず……いや、家まではたどり着いていない。なんだったっけ? 家の近くのコンビニでおにぎりとお茶を買ったのは覚えている。 それからは? それからはどうした? ……思い出せない。 ここは、どこだ? 俺は思考が止まりかけるのをこらえて、周りを見るべきだということにようやく思い至った。 俺は腕を曲げた。なんだかものすごく力が入らない。水の染み込んだマントが重い。それに、腕に何かこびりついている。それのせいで腕を曲げるのにも一苦労した。 ようやく、腕に力を入れられるようになった。マントの上から床に手を付いて上半身を持ち上げる。 とたん、手が滑った。 俺はいきなりの事に対処できずに、持ち上げていた頭をまた床に落としてしまった。激痛が頭に走る。それと共に、暗闇の中で水の跳ねる音が響いた。水滴が顔に付く。 俺はその水滴の感触が水のそれでないことに気が付いた。水の様にさらっとした感じではない。妙にぬめりとした感触がある。俺は下を伸ばして唇の上についている水滴をなめとってみた。 最初は判らなかった。水でないことだけは確かだ。量が少なすぎて判らない。鼻もつまっているし。 俺は少し考えた後、首を曲げた。汚水だったらどうしよう、というのは後回しだ。何か引っかかるものがあったのだ、さっきなめたものに。なんだかよく知っているもののような気がする。匂いを嗅げばすくに判るもののような気がする。 俺は首を曲げて、真っ暗な中に俺の周りに溜まっている液体を少し飲んだ。 それを口に含み、 すぐに吐き出した。 ……血だ、血だ! 俺は慌てて、せき込むようにそれを口から懸命に追い出し、首を元に戻した。 待て、待ってくれ! 知らずのうちに呼吸が早くなる。目が蛍光灯から離れようとしない。体を動かしたくない。それの存在を否定したかった。 俺は、寝ている……。 どこに? 血の中に……。血の中に! 俺は悲鳴を上げた。 あっというまにパニックに陥った。 血、血、血、血、血、血血血血血血血血血チチ血血血血血血血血血ちちチ血血血血血血血血血ち血血血血血ち血血血血血ちちちちちチチちちチちチ血血ちちチチちチちチちチ血チ血血ちちち血血血チ血血いいいいいい血ちちいいちちちいい血血いいい血血チチいいいいいいいチ血ちいいちいいいちチチ血いいい血チチチちいぃ――――――――――――――――――――――――!! 俺は訳も解らずに暴れた。立とうとして滑る。血が跳ねる音が闇の中に響き渡る。しかし、そんな物は俺の耳には入っていなかった。 一刻も早く、そこから逃げ出したかった。暴れるほどに滑り、俺は何回も血の海の中に体中をぶつけ、顔が血の中に突っ込む事となった。血が口に入り、それが血であることが解り、俺のパニックはとどまることなく、滑りつつも少しでもそこから逃げようとした。 俺の背中に何かぶつかった。 俺は爆発している思考と体を引きずって、無我夢中にそれに這いずってしがみつき、その上に覆い被さるように乗り上げた。 少しだけ、血が俺から離れた。顔や頭には血が大量に付いていたし、足の先はまだ血の海にひたっている。それでも俺はいくらか安心した。 俺が乗り上げているのは椅子だった。俺は気分を無理やりに落ち着けて、背持たれにしがみついてなんとか椅子に体全てを乗り上げさせた。 呼吸が荒い。訳の判らない恐怖に襲われて呼吸を和らげることができない。俺は体が震えていることに気が付いた。 怖い、怖い、怖い! なんで俺はここにいるんだよぉ! わからない! なんで俺なんだ!? 他のヤツでもいいじゃないか! なんで俺がここにいるんだ!? 俺は震える顔で蛍光灯を見つめた。それ以外に自分を安心させてくれるものはなかった。力一杯椅子にしがみつき、体を縮み込ませている。ううううう、とうめく。 寒い。そう感じた。ここは俺以外にいない、地獄の様に寒いところだと俺は思った。 それでも、俺はなんとか落ち着くことができた。発狂してもおかしくない気分っていうのは、俺の理解できないものだった。恐怖や不安なんてどこか生温い。そんな物ではなかった。 絶望でもない。判らない。 俺はなんとか自分の状態にまで気を配ることができるようになった。 俺は真っ赤なマントを羽織わされていた。その赤い色は言うまでもなく、血だった。しかし、なぜかそれを脱ぎたいとは思わなかった。 俺は椅子の腰を降ろすところに膝を乗せて乗り上げ、荒い息をしながらも周りをゆっくり見回した。 最初に見た蛍光灯からは全然離れていない。あれだけ暴れたのに、全く移動していなかったのだ。それはいい。 蛍光灯の光は余りに弱く、位置を知ること以外にはあまり役に立っていなかった。光の届く範囲以外は全て闇に覆われていた。何も見えない。 光の届く範囲には自分と自分の乗っている椅子と、あとは血の海しか見えなかった。 「ここは……どこなんだよぉ……」 俺はぽつりと声をもらした。声が出せることに少し安堵する。しかし、ここがどこなのかが全く判らない。 「夢……?」 そうだ、これは夢なんだよ! きっと俺は家にたどり着いたとたん、疲れに負けて布団に潜り込んで寝てしまったに違いない。そうだ、だから家にたどり着いた記憶がないんだ。ほとんど寝ぼけていたに違いない。寝ぼけながら布団に潜り込んだから家にたどり着いた記憶がないんだよ、きっとそうだ。 なら話は早い。早く起きよう。こんな悪夢はまっぴらだ。こんなひどい悪夢を見るなんて、俺は滅茶苦茶に疲れていたに違いないよ。無意識下のストレスが出て来たに違いない。絶対そうだ。 目覚める方法は? ゆっくり目を閉じ、目を開けたらどうだろう。それで夢から目を覚ましたことがある。 俺は目を閉じ、目を開けた。 見えたのは俺の家の風景ではなく、血の海の上からの風景だった。目を閉じる前と少しも変わっていない。もう一度やる。変わらない。またやる。やはり変わらない。 俺は手を握り締め、自分の足を叩いた。かなり強烈に叩いた。ものすごく痛かった。 それでも夢から覚めることはなかった。 顎を血が伝っていく。決して俺自身の血ではない。 誰の血? 俺は周りを見た。見える範囲内には血の海しかない。 俺は膝が痛くなってきたので、膝を少し動かした。 とたん、激痛が走った。 俺は悲鳴を上げて椅子の上から転げ落ちた。背中から血の溜まっている床に落ち、息ができなくなった。顔を血の中に浸けないように必死になりつつ痺れが取れるまでもがいた。 ようやく息ができる様になり、俺は滑らないようにゆっくりと体を起こした。 そして、なんとか立ち上がって椅子のほうを見る。 血まみれの椅子の上に、血まみれのオイルライターが置いてあった。 俺はそれをマントの裾から手を出して手に取った。血まみれの手で血まみれのオイルライターをこすっても綺麗になることはなかったが、蓋を置けると中までは血は入っていない。 なんとか点火することができた。ライターの小さな炎が今の俺には心の拠り所にできるほどに力強く見えた。 俺はライターを持ってゆっくりと周りを照らした。俺の手は血がこびりついている。体中に血がこびりついているに違いなかった。 椅子のほうを照らすと、血まみれの木製の椅子が見えた。 ……足元を照らすと、そこには血の海が広がっていた。血は俺の足のくるぶしの下辺りまで溜まっている。ものすごい量だ。 俺は泣きたい気持ちをこらえ、歯を食いしばりつつ歩き出した。ここがどこなのかを知りたかったからだ。 血に滑らないようにゆっくりと進む。ライターの炎の光では足元もまともに照らすことはできない。それでも俺は自分の素足を血溜まりの中に踏み入れ歩いた。 いきなり、固い何かにつまずいた。倒れる瞬間に、俺は段差につまずいたことを理解した。 ライターを手放さなかったのは奇蹟に近い。俺はなんとか片手を付いて顔を床にぶつけるのだけは免れた。が、手のひらが妙な物に触っている。ものすごく生物的な、いやな感触が手を這い上ってくる。俺は慌ててそれから離れようとして尻餅を付いた。 ところが、今度は尻の下にグニャリとした妙に柔らかいものの感触があった。それが何なのか、確かめるよりも先に想像ができた。 ニンゲンノ、シタイ…… 俺はライターで無意識に下を照らしていた。 周りに、ぐちゃぐちゃに潰された肉塊が見えた。 俺は目の前に転がっている妙に黒い物が、煙草の吸いすぎである人の肺の片方であることがすぐに判った。 俺は自分の真下にあるものが、誰かの太股と、誰かの大腸と、誰かの脾臓である事に気が付いた。 俺が今片手で触っているのはたくさんの血管の走った大きな大豆のようなもの。黄色い物が被さっていて、管みたいなものが伸びている。それが精巣だということは俺には判らなかった。視界の端にある心臓に釘付けになっていたもので。 俺は泣きたいというよりも、笑い出したい気分になった。大笑いしたい気分になった。 あっはっはっは、誰だいこんな気持ち悪い物をバーゲンよろしくほったらかしにしているのは? 誰か慌て者が忘れていっちゃったのかな? 悪い人が持っていっちゃうよ? こんな持ってけ泥棒みたいに置いてくなんて、どんだけ慌て者なんだ? ぜひ一度、顔を見てみたいな。 「あはははははははははは……」 俺の思考はすでに脳天をぶっ飛ばして緊急脱出していた。もう何も判らない。解らない。分からない。 そこには死体が、何十という死体が放置されていた。 どれもまだ柔らかい。固くない。死んでから、そんなに経ってないという事だ。 どれもこれも、徹底的に素っ裸にされていた。皮膚や筋肉まで脱いでしまうとは、一体何がそんなに彼等を露出狂にさせたのであろう。 「ねぇ、これ、夢、だ、ろ?」 虚空に向かってつぶやく。返事はない。誰からも。 「夢、夢、夢……」 俺は馬鹿みたいにつぶやいた。そして、立ち上がろうとした瞬間、足で何かを踏み潰した。確認しようという気は全く起こらず、俺の頭は真っ白になった。ライターが俺の手から逃げていった。じゅっという音と共に小さな火が消える。 「あ、あ、あ、」 俺は真っ暗な天井を見上げていた。 「ぅぎゃわああああああああああああああああ――――――――!!」 そして、走った。もう何が潰れようが構わない。暗闇の中を柔らかいものを跳ね飛ばしてただ無我夢中で走った。 ここから逃げ出したかった。 太陽を見たかった。 はやく、はやく、はやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやく! 唐突にぶつかった。 俺は弾かれて床に転げた。 「か、壁……!」 なぜかそれだけ理解できた。俺はすぐに壁に張り付き、なりふり構わずに拳を叩き付けた。コンクリートの壁の音がする。 「誰かぁ! 助けてぇ! 助けて助けて助けて助けて!」 ここから出られるのであればどんな事をしてもいい。ともかくも早くここから出たかった。 やがて、俺は壁伝いのはるか向こうに光が灯っていることに気が付いた。俺は走ってそこに向かう。 明りの下に、扉が見えた。 俺はドアにぶつかり、ノブを乱暴に回してドアを開け、外に転がり出た。 何もない、ひんやりとした床がそこにあった。 助かった―― 俺はそう思った。その場で転んだ姿勢のまま床に這いつくばり、呼吸を整える。 俺は助かったんだ―― 後ろで、ドアが閉まる音がした。一○秒くらいかけてゆっくり振り向くと、そこには無機質な金属製の扉。赤いペンキで「A」と書かれていた。 周りを見回す。 同じような扉が他に三つあった。それぞれ「O」、「AB」、「B」の文字が書かれていた。なんのことかさっぱり解らなかった。 そして、俺の右のほうに両開きの大きな扉がある。その向こうから光が漏れていた。 俺はゆっくりと立ち上がってゆっくりと歩いてその扉の前に立った。 扉の取っ手に手をかけて、 「開いてるよ」 突然の扉の向こうからの声に俺は腰を抜かしそうになるほどに驚いた。反射的に手を取っ手から引き離して、足の裏にまだ付いていた血糊で滑って腰を床に打ち付けた。大きい音がした。 「遠慮せずに入りな」 遠慮なんかしていない。声の主は今の音を聞いていたはずなのに、助けに来ようという気はないらしい。 俺は痛む腰を押えてゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと扉の取っ手に手をかけて、ゆっくりと開いた。 まぶしい光の中に、一人の若い白衣を着た男が立っていた。 「こっちへ来なよ。飲み物をあげよう」 男はにやりと笑ったようだった。 |
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