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よく、悪いことをすると罰が当たる、と言うが?
ふと、悪いことをしたら神に罰せられるという類のことを聞く。神を掲げる宗教家がよく口にすることかもしれない。宗教家でなくても、祖父母が言っていたような気がする。
さてこのとき、本当に神は悪いことをした人間を罰したいと思うだろうか。
僕の感覚では、まず神は悪いことをした人間を放置するであろう。悪いことが出来るのもまた人間であり、悪いことをする人間がいなくなれば人間自身の力か衰えてしまうからである。障害が出現した時こそは鍛える機会であり、それをわざわざ奪う真似はすまい。
てなわけで、「神は罰を与えない」という僕の考えを前提とした場合、結局のところ、人間を罰したいのは人間自身である。それは人間としての自浄作用であり、起きたとしても不思議なことではないだろう。
ここで神頼みにするのは単純に、罰を下したいと思う人間に罰を下すだけの力がないだけではないだろうか。自分には処罰するだけの力がないから他人に頼っているだけではないか。おそらくは近くに力がある人間がいれば、神に頼る前にそっちに頼みに行くのではないだろうか。暴力事件が起きたら、神の前に警察に行くだろう。
とはいえ、警察も四六時中目を光らせているわけでもないから、四六時中目を光らせている存在として神を引っ張りだすのだろう。自分がみてればいい物を、見てることしかできないから神頼みになるのである。
力がないことには何もできないってことだね。