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東北地方太平洋沖地震、発生。
その時、僕は職場にてどのように製造したものかよく分からないプログラムの製造に躍起になっていた。連日の残業にもかかわらずちっとも進捗があがらない。明日の休日だって解析をしなければちっとも製造を推し進めことが出来そうにない。苛立つこともすでにピークを超え、暗澹とした安定期に入っていた。隣では実力を持った人にウェブサーバの構築について質問している人たちがいて、ホワイトボードを中心に話し合いを続けていた。
突然、地面が傾くような感触を覚え、ついに疲れが表に出てきてしまったのかとも思ったのだが、話し合いをしている人たちとは反対側を見ると隣の席でほぼ、僕と同じ作業をしていた人が手を止めて僕のほうを見ていた。「揺れを感じました?」という顔をしている。
そこでまた地面がゆっくり傾くような感触を感じて、ようやく地震が発生していることを認識した。徐々にあちこちから「揺れてる?」という声が聞こえ始めて、あわててドアを開ける人や机の下にひとまずもぐりこんでみる人などが出始めた。ビルの外まで避難した人もいたぐらいだ。
揺れそのものはゆっくりしたもので激しい揺れはなかったものの、ひどく長く揺れ続けた。完全に揺れが収まったと感じるまで一〇分はゆうにかかったと思う。
気象庁のページを確認して、東北のほうで震度六強の自信が発生したことを確認した。テレビがある部屋ではテレビニュースを確認しており、とてつもなく大きな地震が起きたことが報じられていた。阪神大震災が起きたとき、おそらく東北の人たちはこんな風に感じていのかもしれないな、と思いつつ、結局それ以上は自身に関して情報を集めることもなく仕事を続行したのである。
家に帰ったのは日付が変わってからで、そこでようやく自身についてのまともな情報を得た。マグニチュード 7.9、阪神大震災の三倍のエネルギーを持った大震災である。後にこのマグニチュードは 9.0 に修正された。この日記を書いているのは半月後なんです。
最初はほとんど被害状況が分からない。震源地が沖合いであったこともあり、津波が発生してかなりの部分が津波に飲まれたようだ。また、福島にある原発に甚大な被害が出ているという情報もあり、放射能汚染が懸念されていた。おそらくは相当ひどいことになるのではないかと思う。
おそらくは被災者の数は阪神大震災を越えるだろう。地震そのものよりも津波が強すぎる。
地震はいつ起こるかわからないものであり、それゆえに誰が死んだとしてもそれは運任せである。もしかすると僕が知っている人が被害にあっているかもしれない。死んでいるかもしれない。しかしそれはどうしようもないことなので、どのような状態に置かれようとも諦めるしかない。
とりあえず、義援金は何万円ぐらい送ったらいいだろうか。個人で出来る事と言ったら金を送るしかない。物品の寄付は配送の手間を考えると効率が悪いことは阪神大震災のときに分かっている。金を出してその道のプロにすべて任したほうがいい。さて、五万ぐらいでいいかなぁ。……ちゃんと被災者に配られればいいんだが……。