三月一三日、木曜日の話
他人の人生は娯楽!

 いっつえんたーていめんと!

[◆]他人の人生は娯楽!

 今朝は通勤途中に電撃文庫の成田良悟著、「デュラララ!4」を読んでおりましてそれはかとなくしとやかにハイテンションでお送りしております。その日の文体が読んでるライトノベルの文体に影響されてしまうあたりは安定しているとは言えませんがやっぱ面白いから読んでしまう訳で影響されても止むをなし。おそらくすぐに戻ります。

 基本的に娯楽と言うものの大半は他人の人生であったりするわけです。映画や小説なんか最たるもので要するにそいつがフィクションの塊であろうとも人間と成り立たせてそいつが歩んできた人生を垣間見せているわけでそれが娯楽として成り立つのであればつまりは他人の人生は娯楽となりうることを如実に示しているわけでござりまする。

 ということは自分の人生を他人に見せることはすなわち娯楽を提供していると言えるわけで日記と言うものはまさに娯楽を提供していると言えます。個人の好き嫌いが強い娯楽でありますので人気不人気はそれぞれにありますでしょうがそもそも日記なんてものが人に読まれるのはそれが娯楽として成り立っているからに他ならぬと考察します。

 他人から見てより面白い人生を歩んでいる人の日記には人気があり他人から見てどうでもいい人生を歩んでいる人の日記は不人気となる。映画や小説と言うのは人気が出る人生を選択して表に出しているかいっそのこと“ない”から作ってしまえと言う発想に基づいていることでしょうしょう!

 インターネットと言う媒体を利用して多くの人が日記を公開しており人気のある日記もあり廃れていく日記もある。ある意味で人気がある日記を書ける人は他人よりもより面白い人生を送っているということになるのかもしれません。そんな中で人気があるわけでもなのにここのところはひたすら毎日更新を重ねている僕の日記と言うのは面白いのか面白くないのか。ぶっちゃけそんなの気にしていたら日記なんて続かないと思うのですがひとまず日記を書いているだけで人から感想のメールをいただけたりするのは面白い面白くないなんてどうでもいい水準で嬉しいことでありますからにしてやっぱり日記は書き続けていこうと思っております。ネットなんていう弱い媒体を使わなければならないのがいずれは終焉を迎えることと存じますがその時まで。ネットは弱いけれども速いのが売りです。

[◆]風邪か花粉症か 〜止まらない鼻水〜

 本日、鼻水がなかなか止まらずなんだか目も痛くて悔しくもないのに涙目です。今まで花粉症にかかったことがなかったのですが、もしかしたら花粉症にかかったかもしれない。やだなぁ。

 しかし、風邪になったと言う可能性も捨て切れれない。昨日は窓開けたまま寝ちゃったからなぁ。空気は程よくなったけれどもちょっと寒かったかもしれない。まあ、それでも眠いのはいつものことだからよしとしよう。もはや、睡眠不足が当たり前になってきたよ。

 しばらくしたら何とかとまったけれども。鼻水を止めるコツは鼻で息をして乾かすことだね。それで駄目なら鼻で息をしないとか。

[◆]( jjg 様 )メールへの返信

 いやー、一年が過ぎましてようやく言われた感じです。「仕事が嫌なら辞めろよ」と。最近はあんまり言われなくなったようですね、これ。むしろ、「嫌でも続けろよ」とはよく言われます。基本的に仕事している人はみんな嫌々ながらも仕事をしているようで。好きで仕事をしている人のなんと少ないことか。

 三月一一日の日記で「僕の人生目標と会社の目標は相容れない」てな事を書きましたが、「会社に個人の目標を持ち込むな」とお叱りを受けまして、だからと言って反省はしない。会社に私情を持ち込むなって言うんだったらロボット開発に全力を注げ。人間雇うな。そんなことを面と言われた日にゃ、本気で仕事を辞めざるを得ない。世間体や金よりも大切なことがある。

 そういう意味で、僕はいわゆる「立派な人間」ではない。「立派な人間」とは社会貢献している人間のことだ。僕なんか社会貢献どころか社会を食い千切ろうとしている類の人間なわけで、場合によれば犯罪者よりも性質が悪い、かもしれない。そこまで行けるかなぁ。最終的には地球に存在するすべての人間に迷惑をかけたいものだと思うけれども、どこまで行けるか。楽しみだ。

 それはそうと、jjg さんは面白い。まるでQの字のごとく、一周して来て別の場所へと出て行く線のごとく。思考がきれいに統合されていないと言えばそうだけれども、まあ時間が経てば何とかなるでしょう。


 さて、最後の質問に答えよう。「自己矛盾を起こしたとき、どうするか?」

 自己矛盾は最近は起こしたことがないので感覚として曖昧になっている。何で起こらないのかと言えば、むき出しのままの自己で生活しているからで、基本的に演技をしないからだろう。自己矛盾というものが自分で造り上げた規律に相反する行動をするものと定めるなら、僕はそもそも規律を作っていないということになる。自分に正直に生きるということは、矛盾が起きないと言うことでもある。

 そのあたりは単に予防の段階での話なので棚に上げるとして、いざ自己矛盾が起きたときはどうするか。……どうするんだろう。これからやろうとすること考えること、矛盾していることぐらい分かろうものであるが、分かっていてまた納得して行うのであれば矛盾したところで無毒化できると思う。また、そもそも矛盾していることに気がついていないと言う話であればおそらく困るのは当人以外の人間だけであり、当人は何の問題もないだろう。

 それでも問題があるとするならば、あとの人生、時々思い出して苦しむことになるだろう。高校卒業以降は自己矛盾らしい自己矛盾を起こしたことはないが、それ以前には何回か起こしたことがあり、それが今でも思い起こされることがあって「ぐあー!」と叫びたくなることもあったりするのだが、その程度であり、大抵は寝たら忘れる。またいずれ、思い出すけど。

 ここまで読んで、もしかしたら何人かは気付いているかもしれない。自分に正直に生きる、それが僕と言う人間であり、おかしなことに別の人間と違うとされている部分でもある。今の世の中はよっぽど嘘だらけであるらしい。ちなみに、ここ数年は僕は嘘をついたことがない。言わないだけである。尋ねられるまで言わない。つい最近、同じことを書いた気がするが沈黙は金なりとはよく言ったもので、まるで狐につままれたように感じる人もいるかもしれない。

 つまるところ、自分に正直に生きるのは矛盾が起こりにくく楽ではあるが、代わりに他人に配慮しないと言う問題点がある。他人に非難されることもある。僕なんか、もろに非難の的になったこともあるぐらいだから、それは覚悟する必要がある。そして、ある程度の諍いを避けるための手段が沈黙である。もちろん譲歩できない線と言うものはあるわけで、それを超えたとき、諍いを受け入れ立ち臨む必要がある。そのための覚悟が。それがなきゃ単に周りに流されているだけの無能者だ。無能にはなりたくないもんだ。

 ただで自己矛盾を起こさないようにする方法はないということかなぁ。代わりに他のものを支払う覚悟がいる。支払う覚悟がなければ自己矛盾を甘んじて受け入れることだ。あえて言うならば、気に病む必要はないだろう。大抵の場合、ほかの人は他人の自己矛盾など気にしていない。