01. ミニ・ロマンスシート ―― [ミニ・ロマンスシート] |
投稿者/狩谷義朝 更新日/2010/05/29 23:51:34
喧しい案内放送の声音が響くターミナル駅の一番隅で、まだ残る眠気を噛み殺しつつ乗車待ちの割と短い列に並びながら、ぼんやりとまるで無機質に見える人の流れを見ていた。制服の開襟から寒さの沁みる日だった。
朝の駅の降車ホームは今入線してきたばかりの十両の列車から吐き出された無数の背広姿で埋め尽くされ、その外套や鞄が黒い波のように蠢いていた。 それが一段落すると、向こう側の扉が閉まってから少し間を置いて目の前の茶色い扉が静かに開き、俺は何時ものように前に続いて車内へ乗り込み、左前の二人掛けの短い緑色をした座席へと腰掛けた。 さっきまでホームで列を作っていた集団が大方何事も無く座席へと振り分かれていくと、車内は外の喧騒とは反対に奇妙な静寂に包まれ、顔を上げて見渡すと、マフラーやコートやらに包まれて毛玉のようになりながら、皆人形のように押し黙っていた。 高校へ入ってこの方、繰り返し見た光景だ。 それを無感動に眺めたあと、俺は右前の誰も居ない連結面の空間へ視線を向けたまま、今日は何か特別な予定は無かったかな等と思い返す。特に無いのも、いつも通りだった。 腕時計を少し見る。朝の八時を幾分過ぎて、もう一分足らずで発車時刻が来る。そう思っていると自動音声の案内放送が掛かって、音の盛大に割れた音楽が流れる。あまりに普段通り過ぎて、小さく溜息をつき、顔を上げて再び連結面の幾重ものガラス越しにエスカレーターを眺めていると、慌てて飛び乗ろうと駆けてくる女の子が一人見えた。 同年代に見えたが、何かそれだけではなく見覚えのある気がしてその動きに目線を奪われていた。惜しくも彼女の目の前でドアは一度は閉まったが、直ぐに再び開いて、一寸だけ申し訳なさそうにしながらその娘は隣の号車へ乗り込んできた。 小さいカタカタとした前後動を伴って、電車は動き出した。 俺は何か知っているようで誰か思い出せずに居るその彼女の姿を、気がつくとずっと見ていたから、席を探して周りを見渡した彼女が俺の姿を見つけたのも無理はないと思った。 でも、彼女がガラス四枚挟んだ向こう側からこっちを見つけたとき、丁度電車が駅舎を抜けて向かい側から彼女の顔へ朝の陽が当たって、そして彼女が笑顔になって会釈してきたのが見えたので、ついつい俺は会釈を返していた。そして彼女は転轍機を踏む車両の揺れでよろけながら、こっちの車両へとへ歩いてきた。 「久しぶり」 と、彼女は開口一番にそう言った。 「ああ、久しぶり」 そう返事したはいいものの、まだ俺には相手が誰だか今ひとつ解っていなかった。 彼女は俺の目の前のつり革を一度握ってから、口を尖らせてこういった。 「あー、覚えてないんでしょ。相も変わらず反応が解りやすいんだから」 「うーん、何となく覚えている気もするけど」 見栄を張っているだけで、実際は雲か霧かのような漠然とした感じしか沸かなかった。 「四,五年経つし、君には特に連絡とってなかったもんね」 という科白の最後まで行かぬあたりから、橋を渡る轟音が床下から響いてきたから、少しの間会話は途切れた。 俺は横に置いていた鞄をどけて、まぁ座りなよ、と身振りで示した。次の駅からはやはり、立ち客が少し増えてきた。そんな中二人並んで座りながら、やっぱり、この席は二人で座るには窮屈だな、と思った。 「君はいつもこの電車? 途中から乗り換えるんでしょ、よく間に合うね」 駅を出てすくのギクリとする質問に、また何となく見栄を張って答えてしまう。 「遅刻寸前の常習犯ではあるけど、幸いにも遅刻した事はないな」 だが、やっぱり遅刻してるんだ、と顔に書いて頷かれてしまったので、少し落ち込む。 「そういう君は、いつもはもう少し早め?」 「うん、一寸乗り遅れたらさらに遅れで…… まぁ、この電車を逃がさなければ間に合うよ」 お互い、着ている制服を見れば通っている学校なんて直ぐ知れる。でも。 「何で俺って解ったの?」 「や、だって君、昔と少しも変わらないでしょうが」 何となく小馬鹿にされた気がしたので、 「じゃぁ、君は相当変わったと見えるね」 と言って言い返した気になっていたら、君の記憶力が悪いだけでしょ、と返されてしまった。 でもなんだか、照れ笑いしてるようにも見える。 「前にも一度、こうやって座ってた事があった。こう、電車で短い席に、二人で」 ああ、と呟いた。思い出した、小学校の遠足でだ。動物園へ行く往き帰りに、こうやって誰かと話していた気がする。でも、それが誰だか、今までよく覚えていなかった。 「確かその割と直ぐ後だったよな、君の転校が決まったの」 彼女は頷き、やっと気がついたか、と彼女は呟いた。 「進歩がないよね、お互いにその頃から」 ゆっくり走っていた電車が徐々に速度を落とし、駅の間で止まった。信号待ちの放送が入る。 「そのころは、もっとゆったり座れたのにな」 暫し、昔を思い出して無言になる。たったの数十秒の間に、色んな思いが巡り、そして電車はまたゆっくりと動き出した。 話し掛ける言葉が見つからないまま向かいの扉が開くと、冬の空気が車内へ吹き込んできた。意識してかせずしてか、彼女は少しだけ体を寄せてきた。 ドアが再び閉まって駅の喧騒が遮断されると、再び車内には静けさが戻る。 「そういえば、なんでこっちの学校へ来ようと思ったの?」 「誰かに会えるかな、って思ったの。でも学校には知り合いはいなかったし、遠くから通ってる分、あまり人付き合いよくなくてね……」 車輪が分岐器を越える幾重もの音が響き渡る。 「ひょっとして中学の時も」 俺が言いかけると、頷いて、転校生の憂鬱だね、とだけ彼女は答え、 「みんな元気にしてるのかなぁ」 と、彼女が少し顔を上げて呟いた。 「小学校の友達かぁ、俺もあまり近況は知らないな」 何人かの顔が浮かんでは消える。 楽しかった思い出とともに。 「私は別に勉強がしたかった訳じゃなくて、北の方の高校へ行きたいって思っただけ。なら勉強のできる所へしなさいと言われて、だから頑張っただけ。でも結局、また友達と言うほどの友達はできないままなんだよね」 電車はまだゆっくり走っている。過ぎ去る景色が全て灰色に見えた。 「私ね、最近学校が嫌だなってちょっと思うようになって、なんでこんな所に居るのかな、とか思ってた。そう思うと、今日も一寸足取りが重くて。」 止まりそうな速度で流れる上り坂の車窓を見ながら、答えを出す時間はたっぷりあったはずなのに、俺は彼女に何も言えなかった。 「でも」 高架の頂上の駅で電車が急に加速して、お互いに体が少し押し付けられる。 「一日行けば、何か一歩進めるはず、気づいて無くても、何気なく過ごす日々それそのものが、常に新たな前進なんだ、って」 下り坂を一気に駆け抜けた電車が、甲高いモーターの音を立て、大きな横揺れと共に転轍機を踏んでいった。橋から見えた水色の水面が、瞬間、黄金色に輝いて後ろへ過ぎた 「目標が見えてなくったって、歩いていればたどり着くべき場所に着けるよ。立ち止まったままじゃ、何時までたってもそこに居るだけだけど」 「そうだよね、現状に満足しないなら、とにかく歩いてみないとね。歩いて、迷って、どこか落ち着く場所にたどり着けるよね」 快走を続ける電車の大きな音に負けないよう、互いに少し大声になっていた。踏み切りの音が素早く近づいて、音程を変えて通り過ぎた。 そして停車駅が近づいた。彼女は鞄を肩にかけながら、 「結局、結構ぎりぎりになっちゃったね」 と、ちらと腕時計を見ていった。 「頑張って走れよー」 うん、と頷いて、でもね……と彼女は何か言いかけた。 電車はもう駅に滑り込んでいた。彼女は立ち上がって 「君とこうやって通えるなら、毎日この時間でもいいかな、なんて」 そういって笑顔で手を振りながら、目の前の階段を降りていった。 中間運転台の後ろは二人掛け、それは小さなロマンス席。時に小さな物語を乗せ、いつもと変わらず電車は走る。 |