五月二八日、木曜日の話
最近、また夜更かし続き

 午前二時就寝が基本に。

[◆]早く寝たいが長く続けたい

 ここのところ、家に帰ってきたら冷やかしの開発ばかりしている。プログラムの書き方を一新したので、全てのプログラムを新しい書き方に統一する作業を行なっているが、主軸プログラムは昨日の夜に全て完了し、現在はそれ以外の副プログラムの修正を進めている。新しい書き方にしたおかげで問題があった部分が見つかっており、粗もずいぶんとなくなった、気がする。結局のところ、プロに見てもらったら何言われるかわからない出来(※1)ではあるが、まあ使えないこともない水準には達しているだろう。

※1 プロに見てもらったら何言われるかわからない出来
 パスワード入力とか求めるくせに、通信を暗号化してないのは突っ込まれるところだろう。また、セッション変数が使えるくせに使ってないのも突っ込まれるであろう。

 早く冷やかしの修正を終えたいところだ。そうでないと早く寝れないというのもあるが、次の仕事が待ち構えているのである。涼宮ハルヒのアスキーアート保管庫についての構想が煮詰まってきたので、そろそろ作成に入りたい。

 もう少しだ。

[◆]大学のゼミの先生に会いに行く

 二、三日前に大学生時代のゼミ仲間からゼミ生及びゼミの先生で集まろう、というメールが来た。予定を確認した後、出席の旨を伝えたのであるがそういえば社会人になってからゼミの先生にまともに会ってないなーと思い、会いに行くことにした。

 いつもよりもそこそこ早い六時半に会社を出て先生に連絡。先生は大学にいて会えるとのことだったのだが、来客があって会えるのが八時半とのこと。大学までは電車と徒歩で三〇分というところ、どうしようかと考えて歩いて大学に行くことにした。電車で言えば五駅分。心持ち早足で直線的に行けば間に合わなくはないはずである。

 既に暗くなり始めているのでそこそこ人通りが多い道を選びつつ歩くことにして、いつもは電車で通り過ぎる地域を堪能させてもらいました。いつもは一分足らずで通り過ぎる橋を徒歩で渡ったら何分掛かることか。電車汽車を発明した人間の功績は偉大すぎる。産業革命万歳。

 地図を確認しながらスーツ姿でカバン振り回して河原を疾走したりしつつ(「うおりゃああああ!!」と叫びながら走るのは流石に自重した)、地図上で目印にしていた警察署はどこだーと歩いていたら大学についてしまっていた。タイムは一時間四〇分。河原で走らなかったらたぶん遅刻してたなー。

 二年ぶりの大学周りは少々、変わっていた。よく昼飯を買っていたコンビニがなくなっていた。クレープ屋? ができてた。友人とのおしゃべりの際によく寄っていたたこ焼き屋が閉店してた(今年の三月三〇日に閉店したらしい。他にも同じ張り紙が出ている店があったので、店の入れ替えの波に乗ったのであろう)。

 約束の時間の一〇分ぐらい前に先生に会いに行くことにして、それまで近くのデパートの本屋で新書をあさってました。インターネットを取り扱う新書も増えたなぁ。と、先生から電話が。しかし電波状況が悪くて会話することが出来なかったので、面白そうだと思った本を掴んで購入し、デパートの外に出て再度連絡しました。大学の校舎の外で待つように言われたので待機。

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 校舎から出てきた先生は元気そうでした。

[◆]先生は二年前より元気そうでした

 研究室で少し話せればいいと思っていたら、飲みに連れて行かれることになりまして。先生の隣にはもうすぐ先生の研究室にて大学院生になられるという方が居られまして、本来、現在の先生のゼミ生とともに夕食会を開こうという予定だったらしい。が、ゼミ生は来ず。ゼミ生がどういう返事をしていたのかは分かりませんが、雰囲気からして「暇だったら行きます」みたいな中途半端な返事をして結局行かなくていいやと判断して連絡しないというパターンかなと。本当にそうかはわかりませんがありがちなパターンだと思います。学生は気分任せに動くからなぁ。二年前までの僕がまさにそれ。

 先生は二年前からしてみたらずいぶん元気そうでした。顔色もずいぶん赤みが差している感じです。夕食会でもしゃべることばかりであまり食べないと言うのは相変わらずでしたが、それでも飲む量食べる量は増えているような。多少飲む量が増えても平気になったんでしょう。仕事は大変そうですが、僕が卒業した年に作られると言われていた大学院も軌道に乗って安定しているようです。

 新しく大学院生になられるという方は現役大学生がそのまま大学院に進む、と言うのではなく、既に社会に出て様々な経験をして、人材育成会社を立ち上げた方で、さらに力をつけるために先生の研究室の扉をただいたということでした。実力者の貫禄があります。最近は一旦社会に出た人が大学院に入り直す事は、まだ珍しくはあるけれども十分ありうることである、と聞いています。自分にとって必要な勉強分野がはっきりしている分、なんちゃって大学院生よりは成長力がいいし、大学院を卒業した後の生活を心配する必要も基本的にはないという点で、実に強い(参考:光文社新書/高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院)。

 本来、この夕食会はその方と現役大学ゼミ生の交流会だったそうなんですが、運悪く現役生は誰も来ず、運良く僕が転がり込んできたと言うことで、本当に世の采配って人間にはわからないものだなーと思います。いつも思うことですが、運がいいって言うのは、運を拾ってこその話だな、と思います。奇跡が起きた、と言うのは奇跡を拾える人間がそこにいてこその話です。

 そのほか、僕らの前後のゼミ生についてもいろいろ聞いてみたのですが、僕ら以外のゼミ生については肩を落とすところがいろいろあるようで。「結婚する時は絶対に呼べ!」と厳命されました(注:やや誇張あり)。今のところ、誰からも呼ばれてないそうです。ちなみに、イチノイカズイ殿のゼミの先生は一年間ドイツに行っていたそうです。

[◆]五年後、自分は何をしているか?

 この夕食会で話された話題はいくつかありますが、特に重要かと思われるのが「五年後の自分を想像してみること」というものです。この話題はゼミの先生が好きなものの一つで、よく耳にしていました。僕の場合、五年後の事はあまり考えてないけど百年後、千年後、僕はどのように語られているかと言う想像ばかりしてしまって苦手です。

 それはともかく。僕が社会人になったとき、予定を立てていました。「二年間ソフトウェア会社に勤めて技術を掻っ攫い、会社を辞めて長野県の過疎を起こしている村に行ってITで現金を稼ぎながら自作農で食糧を自給する」。必要なものは技術力、ITインフラ、資金、僕を知っている人多数。

 実に地に足が着いてない予定です。二年で必要な技術力を養うことは出来るのか? お金を稼ぐことは出来るのか? 農業できるのか? 賛同者は集まるのか? 世界群歩行者達の設立は既に鼻で笑われてます。だからこそやってみたいのですが、今のところ、この予定は現実にはなってません。技術力は中途半端、資産なんて移住色の大半を親にも負担してもらって百万ちょっと、長野県に行きたいと言いつつ長野県に行ったことがなく、僕を知っている人は増えつつありますが、親族を除くと五〇は越えてないでしょう。その中で僕の考えに賛同している人はほぼ皆無だと思います。

 ちなみにゼミの先生には悪いんですが、予定の中に結婚は入ってません。仲良く遊べる友達は欲しいですが、予定通りに進んだ場合、何時白骨死体化してもおかしくない状態になるはずなので、付き合わせられません。食料がなくて餓死するか、病気になって病死するか、虫や獣に襲われて死ぬか、人間に襲われて撲殺されないとも限りません。しかし、そういう環境を乗り越えないことには僕のやりたい事は実現しない。その辺りで死ぬようじゃ駄目ってことですね。

 さて、上のは二年前の予定であり、現在における五年後はと言うと、やっぱり白骨死体、過疎村で自給自足生活、人に使われてる今と変わらない生活、の三つが考えられます。なんとか共同体組織を作れないものか。基盤作りが急がれますが、独自の資金調達が確立できていないのが痛い。アフィリエイトじゃぜんぜん足りないだろうしなぁ。とりあえず、まずは独自の資金調達方法の確立を目指して目の前にあるやれることをやることにします。

[◆]家に帰ったら冷やかし開発

 酒を控えめにしておいてよかった、家に帰ってから冷やかしの開発作業に入れたのは午前一時ごろですが、三時になる前には本日の開発予定の半分を終わらせることが出来た。本格導入は明日にしますが、あとはもっぱらデザイン方面のみになるはずです。

 ……明日の仕事は仕事にならないかもー。