三月一七日、火曜日の話
向上心がない、とも言う

 先日、オンラインゲームで遊ぶ人間の型について少しばかり触れたのだけれども。

[◆]向上心がない、とも言う

 先日の日付の日記において、オンラインゲームで遊んでいる人には三、四種類しか型がないという話をしたけれども、その時の話の締めに妙な違和感を感じていた。しっくりこない。自分の書いた終わり方に齟齬を感じる。齟齬を感じたのは「僕は勝ち負けにこだわらずに遊びたい」という部分と「僕よりも新しく始めた人のほうが僕よりも強くなっていく」という部分で、後者を書いた瞬間に何かが違うと感じたのである。

 先日の日付ながら締めまで書いたのは昨日の話なので書いてから一夜明けたわけだが、考えてみると勝ち負けにこだわらないという部分にすっぽり抜けているものがある。向上心だ。勝ち負けにこだわらないのはそれはそれでいいのだけれども、自身を磨く向上心がすっぽり抜けてしまっている。これでは新しく始めた人に追い抜かされるのは当然で、勝ち負けにこだわらないのは単純に勝てないことへの言い訳になってしまう。

 向上心。

 おそらく、僕の行動の大抵の部分において向上心はすっぽり抜けているものだろう。努力をしないと言い換えてもいい。必要なものを得るための行動はするが、そこに努力らしい努力はあるのかというと、ないような気がする。試験を受ける時であっても「あるものしか出ない」という考え方は僕の根底にある。ゆえに、試験前日であっても基本的に無理な勉強はしなかったし、早めに寝たりしていたわけである。大学の受験の時ですら、試験と試験の合間に勉強するのではなく関係のない新書を読んでいたりしたわけだ。

 仕事をしている時にもこの向上心がない、というのは常にあるかもしれない。ゆえに仕事は効率化されず遅々として進まないのだろう。……。

 本当にない、ということはないとは思う。理性の上では何かしら向上心はあるはずなのは理解している。そうでなければ新しい知識や技術は身に付かないだろうし、そもそも自分のために行動をしたりはすまい。ついでに言えば、多くの人が携わるような企画を実行したりもしなかっただろう。僕が自身に向上心がないと思ったのはなぜだろう。

 おそらくは、のんびりと日和ながら活動をしているせいか、向上心を傾けた行動で成果を出したことが稀だからか、向上心を傾けて行なった行動が無駄に終わったからか。

 一つ思うに、僕にとってはやる気を出すことと向上心がある事は別物なのだろうと思う。やる気とは行動する時に必要となるものであり、向上心とは行動に上乗せしてさらに効率化もしくは研究を進めるために必要なものである。行動したら投げっぱなし、と言うことかもしれない。