三月 五日、木曜日の話
仕様書との戦い

 冷やかし仕様書(解析書とも言う)の作成が進まない。

[◆]冷やかし仕様書

 仕様書とは要するに設計図のことである。「このシステムにはこういうプログラムがあり、このプログラムはこういう目的と機能を持ち、こういうデザインでこういう情報が表示されてこういう入力部品があってこういうボタンがあって、このような動作をします」ということが延々書かれているものである(実際には「このシステムにはこういうプログラムが欲しくて、このプログラムはこういう目的と機能を持っていて欲しくて、こういうデザインにしたくてこういう情報が表示されていればよくてこういう入力部品があるはずでこういうボタンがないとまずいよね、最終的にはこういう動きをしてほしいなぁ」みたいな曖昧な部分が多々あり、「やっば止めます、こうこうこうこうこうしてしたいなぁ」と変わることがよくある)。

 ()で実に曖昧なものであることを解説した訳だが、だからと言って作成をおざなりにするとこれがまた実にややこしい問題を引き起こすものだったりする。これは人間の記憶能力に関係するものなのだが、大抵の場合、何らかの事情で一週間ほどプログラムに触らなければ細かい部分を忘れてしまい、その後に引き続き作ってみたら仕様の食い違いでいろんなバグを生み出したりする。プログラムは曖昧な記述や曖昧な道筋では動いてくれない。どれほどこちらが祈ろうともプログラムは書いてあることしかしないし、書いてない事はしてくれない。一言一句どころじゃない、一文字すら間違ったら正しく実行してくれない最強の指示待ち野郎である(実は人間もそうだけれども。パソコンよか状況に対するプログラムコードが多いってだけだ。一〇年、二〇年、三〇年と一日も休まずプログラムを作成し続けているコンピューターがある事については地球最強としか言いようがない)。

 さて、そんなわけでおざなりに出来ない仕様書であるが、現在おざなり中だ。仕様書がないわけではないのだが、現物プログラムが軽く仕様書を飛び越えて開発が進んでおり、開発内容が仕様書に反映されていないのである。仕様書に書いてあることが古い。仕様書を書いたのは僕でありプログラムを作っているのも僕であるならば、プログラムを作っているのは僕であり仕様書を書かなければならないのも僕である。体一つでは両方を同時に書いていくことは難しく、仕様書を書きたかったらプログラム開発を止めなければならない。

 「SEとはシステム開発前に仕様書を書いていて、システム開発中にも仕様書を書いていて、システム開発終了後にも仕様書を書いている人」という定義をどこかで見た記憶があるが、的を得ている。開発している間にさらに便利な方法が見つかったり仕様変更の指示が来たりして、システムが仕様書とは違うものになるのだ。大抵はプログラムの修正のほうが早く、仕様書は後回しだ。そして、システムが完成したあとでも、別のシステム開発のときにそのシステムの機能を参照したり修正があったときにすばやく修正できるように仕様書を最新にしておくのである。この辺りになると仕様書と言うより解析書になるだろう。

 どうせ書き直すなら、システムを作り切ってから書き直したほうがいいような気がするな……。複数人で作っているならまだしも、一人だけでやってるんだしなー。うーん。

[◆]ゲームに対する態度

 ここ最近はずっと同人ゲーム「命短したたかえ乙女」であそばせて貰っているが、オンラインで他の人を見ている時間が長くなってくるとおおよそ人の型が分かってくる。この型と言うのは人格的なものではなく、あくまでゲームに対する態度、みたいな物だ。

 オンラインゲームの人の型と言えばそんなに種類は多くはない。ゲームに対して真面目か不真面目か、気楽にやっているかやっていないか、人と遊びたいか遊びたくないか、ゲームに飽きているか飽きていないか。さらにゲームの種類よっていくつか個別の属性が付くが、たたかえ乙女の場合は勝つことが大切か大切でないか、辺りだろう。

 僕の場合はゲームに対して真面目で気楽で人と遊びたくて飽きていなくて勝つ事は大切でない。ゆえに、勝負をするときには常に勝てる道を模索して遊んでいるわけではない。ある程度は勝つためのセオリーを心得てはいるが、勝敗、勝率なんぞ気にしていないから何時まで経っても一定以上の相手には勝てない。

 さて。ここで気になることが一つ。

 勝敗を気にしている人は強い。これは当たり前だろう。勝つために努力をしているのだから、努力をしていない人より強いのは自然なことである。いざ勝負して強いほうが勝つ。これもまあいい。ただ気になるのは、勝った人が勝敗を気にしている人だった場合、勝負終了後に戦闘の解説が始まることである。勝敗を気にしている人たちにとって戦闘の見直しは非常に重要な意味を持つ。何かまずい点があれば改めることで勝率を上げることが可能だからだ。最終的には洗練された操作が勝利へと続く最短ルートとなる。それはわかるのだが、それをこんこん解説されると解説というか説教に近いものになる。勝つために遊んでいる人にとっては有益ではあるが、そうでない人たちにとっては辛いものがある。僕も結構辛い。

 僕にとっては勝ち負けなんてどうでもいいのである。勝つにしろ負けるにしろ、それは遊んだ結果に過ぎず大した意味はないし、負けることが出来るのもゲームならではだろうと思っている。特にトーナメント戦でもない限りは勝てばさらに続きが楽しめ、負ければそれで終わりというものでもないし、ましてや金や命がかかったプロの試合でもない。単なるゲームである。その中で勝つための方法を伝授されてもさして利用する気にはならない。多少影響はあるだろうが、結局は自分のやりたいように落ち着くだろう。ゲームとはそういうものである。

 僕のようなこうした態度は勝ち負けにこだわる人にとっては面白みのない相手である。解説のし甲斐がないわいつまで経っても強くならないわ(だから、自身の力を思いっきり発揮することができない)、普通の会話にも花開かないわで扱いづらいだろう。

 まあ、周りがそんな人ばかりだったらさすがにオンラインで遊ぶのを控えていたかもなーと思うのであるが、幸い、そうでもなかったのでいろいろと遊ばせてもらっている。新しく来た人がいろいろと遊んでいき、僕を乗り越えていく様は見ていて面白いものがある。つまりは大抵、新しい人が僕よりも強くなっていくってことなんだけれども。まあ、そういう遊び方をしているのは僕だしなぁ。はっはっはっ。

 最後に思うのだが、どうにもこういうのはオンラインゲームにおいてテンプレート的に存在する感じがする。大きく分けて三、四種類しか人間が分かれないような。ゲームは現実ほど自由があるものではないので、一定の制限がかかるのだろう。そうした中で見出される人間の型はせいぜい三、四種類。そんなもんかなぁという気がする。逆に言えば、オンラインゲーム上から人間の全てが見えるわけではない、決してないってことなのであるが。現実で会えばいろいろと見えるものがあるだろうねぇ。

 なんか、よくわからない日記になってしまった。まあいいか(笑)