三月 二日、月曜日の話
不穏当

 首にするなら早めに首にしてくれ。

[◆]どうなる四月から

 うちの会社では四月に入ってからめっきり仕事がなくなるらしい。保守の仕事はあるのだけれども新規の受注はなく、別会社に派遣されていた人も仕事がないからとこちらに戻ってくるとか来ないとか。何とか一つ仕事が取れるかも、と言うのがあったが、その仕事の入札においてうちの会社の提示した価格よりもさらに安い価格を提示した別会社に仕事を攫われてしまった。よって仕事なし。いろいろと社長が走り回っているようだが、仕事量が激減する事は確定のようだ。

 仕事がなければ金が入ってこず、赤字まっしぐらなわけであるが、てか既に赤字なのだが、まあ仕事がなければ社員が遊ぶだけであり、給料を払っていれば会社が潰れるって言うのは単純に考えると分かる話であり、おそらくは社長はこっちから言い出して欲しいのだろうが僕から退職を言い出すと社長らを喜ばせるようで癪に触る。まあ、どのみち僕のほうももはやそんなに時間がない。ひとまず冷やかしの製作に全力を傾けなければ。

 ここのところ、役員会議でも不穏当な空気が流れまくっているし、いろいろと手を考えているのだろう。ご苦労なことだ。

[◆]自分達のために動く

 今、就農ブームらしい。農業をやりたい人が増えていると言うことらしいのだが、実際に就農した人たちは長続きしているのか。現場はどうなっているのか。

 物のニュースを見る限りじゃ、就農したところで長続きする人はそんなに多くないようだが、僕が感じた限りじゃ農業企業と就農者との農業意識には溝があるようである。企業側はあくまで、野菜を売ってお金に換えるために作物を作っている。就農者は野菜を作りたいから就農する。野菜に対する思いが企業と労働者でまるっきり違うのである。企業側は野菜はその全てが売れないと困るが、就農者側はその全てが売れなければならないとは思っていないだろうし、中には自分で作ったものならば自分で食べたいと思っている人もいるだろう。

 この溝はモチベーションに強烈な影響を与えるだろう。他人のために作るのと自分のために作るのとでは気持ちも考え方もやり方もぜんぜん違う。だからニュースにも書かれていたように、最後には「自分の農業をやるため」に仕事を辞めてしまう。根本的に間違えてるんだよ。企業側も就農者側も。

 これはここ最近の全ての企業に言えることかもしれない。昔の人たちは他人のために(他人に売れるように)様々な努力をしてきたが、今の若い人たちは自分のために何かをなそうとする。僕も同じ口だ。こうなった理由はいろいろあるんだろうけれど、すぐに目に付く理由としては個々人の断片化が進んだことが一つ。地域社会どころか家庭という単位すらばらけてしまった時代である。他人とともに生きると言う意識は芽生えにくいだろう。芽生えなくて何とでもなるようになってしまったし。他には他人のために何かしても馬鹿を見るだけの風潮、どんどんひどくなる労働条件、頼りにならないマスコミ、政治家の横行、情報的社会接続年齢の低年齢化、ふんぞり返る高年齢者の増加など、得てして社会の発展に伴う問題ばかりのような気もする。

 今の人たちは働くのではない。動くのである。人のためではなく、自分のため。おそらくはそれは社会性の衰退を表すのだろう。逆に言えば、社会性が必要のない時代になったとも言える。人に直接会わなくてもある程度の意思疎通は出来るようになった。お店に行かなくても商品が買えるようになった。家から出なくても仕事ができるようになり、そのうち料理方法を忘れても料理を食べることができるようになるかもしれない。便利が金になる時代であるならば。

 社会性を取り戻したいのであれば、初期化することであろう。所詮、現在の社会は過去の人々が積み上げてきたものが存在しなければ維持できない社会である。発電所がなくなれば人々は何も出来なくなる。もう一度、そこから始めてみるのもいいかもしれない。人が集まらなければ大きいことが出来ない環境を作るのである。

 話がそれたが、就農者は「自分の農業」を求めている。これでは企業農業なんてそりが合わないだろう。しかし、だから農業が出来ないってことにはならないはずだ。自分の農業が出来る環境があれば、かなりの成果が出るのではないだろうか。そして、そのように導いていくのが人の上に立つ者の力量として表れてくるのだろう。

 さて、そんな時代に生きる僕はどうすべきか。だんだん楽しくなってきた。