九月 一日、月曜日の話
福田首相が辞任

 早かったな。

[◆]福田首相が辞任

 その報を聞いたのは僕が同人サークル「Next-soft+」さんのシューティングゲーム、「Flown.」を遊びまくった後のことである。九時ごろから十時半頃まで遊び続けていたせいでニュースとか全然見てなかった。まあそれはともかく。

 福田首相に対する所感を言えば、確かにあまりぱっとしない首相だった事は間違いない。この人は目立った政策も何もしなかった。元より首相に選ばれたときから何か心持があったわけではない。単純なパワーバランスの中で首相の地位を押し付けられた、ある意味で貧乏くじを引いた人だったと思う。官房長官やってた頃から基本的に長いものに巻かれろ、な人柄だったし、自分から進んで何かをやるような人ではなかった。ただ、バランス取りはそこそこうまかった。ゆえに、基本的には誰かの下にいたのである。上が勝手にこけたせいで日が当たったに過ぎない。

 おそらくは麻生さんが上ってきたので首相の座を降りることにしたのだろう。降りると言うよりは再び上に誰かを乗せることを選んだと言うところか。ただ、首相をやっているうちにべっこんぼっこんに叩かれたので再起できるかどうか。しばらくはへべれけになると思います。

 福田さんは「間に合わせの首相」を押し付けられて、何とか耐え切った。そういう気がするよ。

[◆]漫画って読むの辛くない?

 一般的に、小説よりも漫画のほうが読みやすいとされる。理由としては直感的に状況を把握でき、読み込む文章も少ないというのがあるらしい。そして、どうやら僕はこの辺り、一般的ではないらしい。漫画のほうが読んでいて疲れる。

 漫画を読んでいると、だんだん読んでいると言うより読まされている感が強くなってくるのである。情報の多さにどんどん疲れてくる。おそらくは一般人のような読み方をしていないのだろう、つまり、小説よりも漫画のほうが受け取らなければならない情報の量が多い、と僕は感じている。

 漫画は小説よりも想像力を働かせなくてもいい。想像とは既に自身の中に取り込まれている情報を利用して思いをめぐらせることである。書物を読む際に自身の中にある情報を再利用することで、書物自身から受け取る情報を比較的少なく出来るのである。漫画はそれが出来ない。著者の描いていることを描いているものそのままの形で受け取らなければならない。自身の中にある情報を再利用できず、ひたすらでかい情報を受け取り続けなければならない。これはパソコンで言えば、テキストファイルをそのまま受け取るか圧縮して受け取るか、BMP ファイルか JPEG ファイルかってことである。食べ物で言えば生ラーメンかカップヌードルかってことだ。受け取る際にはどちらのほうが楽だろうか。

 本から情報を受け取る、というのならば、僕は漫画よりも小説のほうが受け取る情報量は少なくて済むと思っている。しかし一般的には小説よりも漫画のほうが受け取る情報量が少なくて済むと思われている。この差は一体なんだろう。慣れの問題なのだろうかね。それとも、想像することは想像以上に難しいことなのだろうか。

[◆]作り手側の話

 さて、次は作り手側の話である。漫画と小説、どっちのほうが作るのが難しいかと言えば、断トツで漫画のほうが辛い。本を一冊仕上げるのに、どちらのほうが時間が掛かるだろう。おそらくは漫画家のほうが時間が掛かるに違いない。

 想像力も漫画家のほうが要求されるんじゃないだろうか。登場人物の性格から姿かたち、姿勢など、頭の先からつま先まで想像しなければならない。小説でも登場人物の性格や行動原理などは重要な部分であるが、実のところ姿かたちなどはあまり想像しなくていい部分がある。ぶっちゃけ、登場人物なんて名前があればいい場合すらある。名前さえ与えておけば後の不備は読者が勝手に想像してくれるのだから。漫画の場合はそういう手抜きは出来ないであろう。

 そういう意味じゃ、漫画と小説は誰が想像力を発揮すべきなのかが対照的だなぁ。小説の場合は想像力を発揮するのは著者ではなく読者。漫画の場合は想像力を発揮すべきは読者ではなく著者である。