六月二〇日、金曜日の話
幸運の神と疫病神

 実は、神の中でも屈指の実力者。

[◆]続・運命はとは結果の山

 一昨日に運命とは結果の山と言う日記を書いたが、それを踏まえてよく考えると、運命とは如何に変えにくいものであるかということが見えてくる。結果の結果の結果の結果なのである。目の前の結果から新しい結果を出すのはとても簡単なことであるが、例えば自分望む結果が得られるように自分によってくる結果を操作する事は普通は無理だ。なぜならば、導くためには導きたい結果になるように他の結果を導き、さらにその前の結果を導いて導いて導いて導いて導いて導いて導いて導いて導いて導いていかなければならないからである。つまり、解りやすい幸運を得るためには過去を改ざんしなくてはならない。しかも、ひとつの結果はひとつの結果から導かれるものではなく、複数の結果が寄り集まって新しい結果が生まれるのであって、芋づる式に改ざんをしていかなければならない。一昼一夜の改ざんでは済まないだろう。世界が傾くほどの改ざんを施さねばならない。

 そう考えると、実在するかどうかはまた別問題として幸運の神、もしくは疫病神と言う存在がどれほど世界に対して改ざん力を持っているかと言うことが見えてくる。人が幸運に恵まれるのも並大抵のことではないが、不幸の海に突き落とされるのもまた並大抵のことではない。一万円を拾う人がいれば一万円を落とした人が絶対に存在するように、幸せになっている人間がいれば不幸になっている人間がいる。不幸になっている人間がいれば幸せになっている人間がいる。幸福一定論、運命調和論を語るつもりはないがバランスと言うものは存在するわけで、特定の人間を幸せにするために、また不幸にするために、どれだけ一つ前の結果群の一つ前の結果群の一つ前の結果群の一つ前の結果群の一つ前の結果群の一つ前の結果群の一つ前の結果群の一つ前の結果群をいじらなくてはならないことか。広範囲にわたって運命を操作できなければ人の幸不幸は操作できない。つまり、幸福の神と疫病神は世界でも屈指の実力者である、と言える。……まあ、幸福の神と疫病神が運命を操って幸不幸を招いている、と言う前提に立って考えた場合。目の前に一万円が落ちている、と言うのが、その辺を歩いていた人間の財布からこっそりお金を抜き取ってさま幸運のように道においておくとか、泥棒を家に招くとか、そういう単純なことをしているのであればぜんぜん話は変わるのだけれども。

 運命を変えることは容易ではない。運命とは過去の結果でしかなく、変えられるのは未来だけである。がんばりましょうってことだね。