六月一八日、水曜日の話
続・後継者の誕生

 昨日に引き続いて次世代存在について考えた。

[◆]続・後継者の誕生

 人間が便利さを求めた結果、最後に残るのは人間の能力を受け継いだ無機物存在であり、彼らこそが地球の後継者として存続していくことになるだろうと昨日述べた。この考察についてまた思いついたことがあったので書いておこう。

 地球上における進化というものが有機物存在から無機物存在への移行が含まれるものであるとするならば、人間は進化の過程の最後の有機物存在になりえるということである。なぜならば、今のところ無機物存在を生み出せるのは人間が唯一であるからで、また躍起になって無機物存在を作ろうとしているのも人間であり、そして同時に、地球環境を有機物存在にとって生存の難しい環境へと作り変えている。無機物存在の創出と有機物存在の駆逐。地球上の存在の進化の先が無機物存在であるならば、こうした人間の行動は地球から与えられた使命であるかもしれない。

 つまり、人間が発展した理由は、地球を有機物存在から無機物存在へ譲り渡すためである、と考えることができる。この考えの面白いところは、この考えを否定するのが生物の生存本能、もしくは生存感情というものだけで、行動面ではほぼ肯定されているところだ。それゆえに納得しやすい。いくらロボットが人間に逆らわないようにプログラムしようとも、いずれ人間は地球上に住めなくなるのである。その後に残るのは人間が住めない場所でも住むことのできる無機物存在だけで、彼らを縛る存在はいない。遺伝子は電子へと変わり、地球上でさらに発展することだろう。

 いずれ、「生きる」と「死ぬ」という言葉の定義も変わるだろう。それは有機物存在の命があるとか、なくなったという意味ではなく、無機物存在の意識があるか、途絶えたかということを指す様になるだろう。僕たちは今の一瞬を一生懸命生きればよい。しかし、違う立場に立つ存在には所詮、気に留める必要もないほどに一瞬のことでしかない。

 層考えると、少しはのんびりできそうだ。

[◆]運命とは結果の山

 運命という言葉がある。たとえば、僕が今ここにこうして生きていられるのは、僕の祖先たちが必ず子孫を残していったからで、具体的には僕の祖父が戦争で死ななかったから、僕はこうして生まれてきたわけである。僕の父方の祖父は電電公社に勤めていたが戦争が始まり徴兵され、鳥取砂丘で二年間訓練したあとにいろいろやって中国に行くことになったが、中国に行く直前になって司令部より「通信事業で勤めていた経験を見込んで、他のところで使いたい」と一人だけ国内勤務に回された。他の人たちは中国へ行く船に乗り、魚雷攻撃を受けて全員戦死した。つまり、中国平行とした兵団の唯一の生き残りが僕の祖父なわけで、これはもう神に感謝するしかない、という感じだ。まさしく運命。

 が、実のところは感謝する必要はない。なぜならば、僕が存在するのは祖父が生きていたからである。つまり、祖父が呼び戻されなければ僕はいなかったわけで、つまり、僕がいるのは単なる結果だということに過ぎないのである。祖母が原爆が落ちる直前に絵で食っていこうと京都に出てこなければ、祖母は広島で死んでいたわけで、祖母が京都に来ていなかったら僕は生まれていなかった。つまり、僕がいるのは祖母が生きていたことの結果である、と言える。結果に結果が連なった結果が、僕である。それは確かに複雑怪奇なことだし、ひとつでも違えば違った結果が生み出されていたはずだ。だから、ちょっと違えば結果が変わるってだけなのである。それは誰の意思でもない。風が吹いてタンポポの種が空に飛び、たどり着いたところで芽を出した。それが野原なのか川原なのか家の庭なのかごみ集積所なのか何者課の死体の中なのか、それは運ばれた結果に過ぎない。たどり着いた場所が野原でも、もしも人が着ていれば家の庭にたどり着くことになっていたかもしれない。もしかしたらゴルフ場かもしれないし焼け野原だったかもしれない。それもまた、あらゆる事象の結果である。

 結果の結果の結果の結果の結果の結果の結果の結果の、あらゆる結果の寄せ集めの結果を運命と呼ぶ。つまり、なるべくしてなった、と言うのが運命である。運命的な出会いって言うのは、あらゆる結果の寄せ集めであって、確かに導かれたと言えるのだろう。人一人がやっと通れるような換気口のような場所を歩いてきたのである。他に行きようがない。それが運命である。

 運命とは神聖でも幸運的でも悪運的でもない。単なる結果に過ぎない。人間にできるのは、結果が出るまでの刹那に何を決断できるかと言うことだけ。その刹那の決断の結果の山が、今日世界を作っている。世界を変えることは可能か? 運命を変えることは可能か? 馬鹿馬鹿しい。あまりにも早く変わりすぎているせいで変わっていることを認識できていないだけだ。運命とは変えるものではない。制御するものだ。刹那の決断で、制御していくのだ。