六月一五日、日曜日の話
父の日

 父の日です。

[◆]祖父母の家へ会食に

 昨日は午前二時まで起きていたせいでお昼まで寝ていたのだが、父方の祖父母の家に行くからと起こされました。数日前から言われていた事だったので完璧に忘れていた自分にがっかりです。覚えていれば二時まで起きていることもなかっただろうに。やはり、深夜のゲーム実況は身体に毒だな……。

 祖父母の家に自転車で一五分ほどかけて行き、家についてからすぐに焼肉の会食が始まりました。今回の出席者は祖父母と僕の父の兄夫婦、そして僕の遅々と妹と僕の七人。年々参加者が減っています。まあ、おじさんの子供は東京行っちゃったりなんやりで、父の日だからと言って普通の土日に簡単に戻ってこれるようなものじゃないので仕方ない。

 焼肉を食べて祖父母の話をずっと聞いてました。祖父はすでに年老いてボケちゃっているので同じ話が繰り返されるんですが、基本的に祖父の若いころの話ばかりで面白い。まあ大抵は戦争中の話です。第二次世界大戦終戦時、日本は敗戦国でした。祖父は終戦時は東京にいて、各兵士はすぐに自宅に戻るように命令されたという。で、戻る際に汽車に乗ったのだけれどもその汽車は人がぜんぜん乗っていなくて楽々座れた。が、しばらくして車掌がやってきて「兵隊さん、あなたは次の駅で降りてください。この汽車は中国人が乗る汽車です」と言われたという。つまり、日本が戦敗国となったために中国は自動的に戦勝国となった。だから、中国人専用の汽車なんていうのが存在したわけで、そんなところに日本人が乗っていればどんな目にあうか分からない、とのことだったそうだ。それで、日本人が乗れる汽車といえばもう人がパンパンに詰まっているような汽車しかなく、出入り口は人の壁で完全に埋まっているもんだから窓から出入りするしかなかったという。かなりきつかったらしい。

 で、この話が五回ぐらい繰り返されるわけだが、繰り返されるたびに微妙に話が変わるのであまり飽きなかった。ボケてる祖父の話を聞いていると、若いころの記憶というのは割りと鮮明に覚えているもんなんだなーと感嘆とする。激動の時代であった事は間違いない。戦争とはむごたらしいものであるが、それは大局的に数字を見て感じられるものであって、意外と現場でやりあっている人たちはそこそこ気楽だった様だ。というより、思いつめてる暇はなかったんだろうって気がするが、死んだから死んだ、生き延びたから生き延びたで割り切って生きてきた人たちが僕らの祖先なわけで、ある意味じゃさっぱりしている。まあ所詮、反戦運動とかしている人たちは自分が死にたくないからしているのだろう。実際に戦争に行った人がどれぐらいいることか。

 それにしても、ボケているとはいえまだ祖父は完全にボケていしまっているわけではないらしいということが分かったのが大きい。祖父は僕の年を何回言っても覚えられなかったが、何歳だったかと聞いたこと自体は覚えていたので、「すまんねぇ」と言っていた。底力的なものを感じるね。

 二時間ほど会食をして「我が家」を満喫した父の号令で帰る事になった。体も弱った祖父母が外まで見送ってくれた事は大変嬉しかった。僕も身体が弱るまで生き延びたとき、家を訪ねてくれた人を外まで見送りたいもんだ。身体が弱る前に死ぬ可能性が高いけどねー。

[◆]気合不十分

 昼まで寝てしまうほどに夜更かしをしたせいか、家に帰ってから何をするにもやる気が出なかった。ネット→音楽→漫画→お菓子→ネット→音楽……の繰り返しだ。本来はデータベースの接続ユーザーを作成して PHP から接続確認をするべきなのだが、何にもしなかった。完全にだらけている。

 やはり睡眠を取る時間帯って言うのが大切なんだろうなー。何時間寝た、という長さよりも睡眠をとった時間帯のほうが体調に影響を与えている。やはり、十一時には寝るべきか……。本当は十時には寝たいところだけれども。

 一週間ぐらい、遊ばずに寝ることに努力をしてみるかなぁ。