五月一一日、日曜日の話
のんびりした一日

 たまにはのんびりと風に当たるのもいい。

[◆]世界を叩き潰す可能性を

 世界を変革するには、世界を叩き潰すほどの可能性を持たなければならない。世界を叩き潰すほどの可能性がお前にあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのかあるのか。世界に縛られてばかりで何もできない存在ごとに気世界を叩き潰すほどの可能性があるっていうのか。可能性とはなんとも便利な言葉だな、可能性がない存在にも無責任な夢を与えることができる! それだからこそ、可能性というのはなんとも無責任な概念でしかないにもかかわらず――それを求めてやまない連中が後を絶たない。本当にそれがあるのか確証もないくせに。

 たとえば、僕は今日、車を持ち上げようとした。可能性の話をするならは、軽く持ち上げられてもいいだろう。しかし、車は少し傾いただけでまったく持ち上がらなかった。逆に体は疲弊をしてすぐに車から手を離してしまった。何回や伝も結果は変わらない。この瞬間、僕に車を持ち上げられる可能性は、なかった。つまり僕は可能性を夢見て世界に負けた。世界に叩き潰された。同様に、車よりも早く走れるわけでもなく、十階建てのビルの屋上まで飛べるわけでもなく、何も食べなくても生き延びられるわけでもなく、熱湯を浴びれば火傷して死に、瓦割すらできない。ああ、僕は弱い、弱い、弱い、視力すら回復できない。ずっとめがねをかけてなきゃ物もよく見えない。それはなぜだろう。今の今まで可能性を無視してきたからなのか。

 可能性があるからこそ、時間かをかけられるんだよなぁ。たぶん。落ち着いてきた。可能性の話をするときにたいてい無視されるのが「連続性」。可能性といえば目的がひとつみたいな事言われるけれども、実際には続けてこそなんだよなぁ。今は車を持ち上げられなくても、可能性を信じて体を鍛え続けていけば車を持ち上げたまま100m走で七秒台を出せるかもしれない。

 とりあえず、視力を浴するためにメガネを外す時間を長くしています。自分の体と言う世界の縛りぐらい外せないで、世界を相手に戦うことなんてできないからね。

[◆]のんびりと風に当たる

 今日の午後四時ごろに犬の散歩にいったんだけれども、なかなか風が気持ちよくて犬の散歩が終わった後もしばらくのんびりと風に当たってた。できることならばずっと風に当たっていたかったけれども、やらなきゃならないことがまだまだあるんだよなぁ。

 あーしんどい。

[◆]会社の先輩たちの姿は悪夢だ

 さて休日が終わる前に一言。現在の会社の先輩たちの姿は悪夢である。なんか、そこそこ上の人たちは土曜日も会社で仕事するとかいってたし、休まずに働くことにどんな意義があるというのだろう。彼らの姿は永久に僕の理想にはならない。つーか、僕の理想になりたかったら午後三時ごろに出社してきて午後四時ごろに帰宅しろ。それぐらいでようやく尊敬できる。自分の好きなことばかりをして金を稼ぐのが理想なのである。死にかけた顔で仕事しているやつのどこら辺が魅力的なんだっつーの。

 少なくとも、もっとのびのびと好きなことをいえるようなところだったらねぇ。「仕事きらーい」とか。「そりゃそーだ」という反応がほしいところであるが、そんな事言ったらマジ切れしそうである。みんな。

 やはり、自分の理想は自分で手にするしかないかー。これも求めるべき可能性だよ。ほんと。