四月二六日、土曜日の話
年二回の会社全体会議

 全体会議と言っても、経営的な会社の状況確認とレクリエーションです。あと歓迎会。

[◆]年二回の会議、なのだが

 年二回の会議であり、一応仕事ではない、と言うことになっているので僕もいつものスーツ姿ではなく私服です。だんだん暖かくなってきたので、なにか気軽な春〜夏物のジャケットが欲しいところ。一枚でいいっす。

 さて、開始時刻の九時ー。社長が遅刻。その後は上司の寝坊が発覚。わりと微妙なスタートですがあんまり誰も気にしてない。気にしたところで何かいいことがあるわけでもなく、むしろ平常時から普通のことなので着にならない。

 経営的な会社状況を聞くに、僕が入社した直前の二〇〇六年 十月〜二〇〇七年 三月は黒字だったけれども、二〇〇七年 四月〜二〇〇八年 三月の一年間は赤字だったようだ。社長の分析では二〇〇六年 九月前の二、三年間、赤字続きであったときの負債が現在出ているらしい。黒字になったのは新規契約が成立してお金が支払われたから。そんな赤字とか黒字とか行ったり来たりするもんのかどうかは経営学を知らない僕にはいまのところはさっぱり分からない。とりあえず、黒字になっていたのはあぶく銭を掴んでいたと言うことらしい。つまり、心象的にはずっと赤字続きなのである。

 次にそれぞれ社員の反省会。寝坊した上司もやってきてそれぞれ反省を言っていく。反省と言うよりは状況報告の人もいたし、反省を述べても間違いなく実践できないだろうなって言う人もいる。反省しようとしている部分がほとんど個人特性とも言うべきところで直しようがないのである。まあ、そんなことを真正直に言ったら仕事は続かんよねぃ。

 さて、僕の場合。実はここで一つ、僕が仕事を辞めるかもしれないと言うことを暗に伝えたかった。世界群歩行者達の実現をするためには絶対に会社を辞めなくてはならない。もとより、睡眠時間の問題や学びたい技術の違いにより、今の会社事情は僕個体に合ってないというのがある。

 が、どんなに言いつくろっても会社を辞めたいと言うことを言えばいい顔をされるわけがない。特にうちの会社は人材不足もいいところなのである。何があったか知らんけど。プログラムの発想はあっても実際にプログラムを作る人が不足している。営業もうまく行っているとは言えないみたいだし、ほんと、個人の能力に頼りきっている。それ、組織としてちゃんと動けているといえるのか? 一人を失えばあっさり空中分解してしまうような余力のない状態である。売上を伸ばすことにかまけて仕事を取りすぎなんだよ。多くの顧客を得るんじゃなくて、一つの顧客に力を集中、納期を劇的に早めて一つの顧客からたくさん仕事を得たほうがいいんじゃないか? それは無理なのだろうか。

 ……多分、無理だろうな。おそらく、現在のわが社を取り巻く顧客状況って言うのは、人が多かった頃のものをそのまま引き継いでいるのだろう。一度手に入れた顧客は手放したくないはずだ。しかし……昔に比べたら、一人の社員の利益率が半分以下になってしまっているんだろ? 不景気がどうのじゃなくて、残った社員が疲弊してしまってるんじゃないの? 過労働で。

 話が脱線してしまった。どのように暗に僕が仕事を辞めることを伝えるかである。物も言いようで角が立つ。つまり、仕事を辞めたいことを前面に押し出すのではなく、やりたいことがあるから結果として仕事をやめるという形にしたほうがまだいいだろう。と、いうわけで反省を述べた後に僕の夢を語ることにしよう。

 と、考案して反省点を述べ、息継ぎし、社長がバットタイミングで感想を述べ始めて僕は次の句が継げなくなってしまった。間を入れない社長にもしかしたら読まれているかもしれないと思いつつ、今回は見送ることにした。してやられた。まあ、どう転ぶか予想できないものだったから、ある意味では良かったのかもしれないが……。

 仕方ないので、ここで考えていた僕の語ろうとしていたことを書いておこう。

「僕には夢があります。それは家族が家族として同じ場所で働くことができる場の実現。夫婦で働き、その間を子供が走り回り、また別の家族と協力しながら動いていく。青空の下で野菜を育て、家畜を飼いながら、それぞれが人間としてのんびりと生きていく。そうした毎日を送れる場を、僕は実現したい。この夢は実に穴だらけで、実現できる可能性はとても低い。だからこそやりがいがある。自分の命を懸けるだけの面白さがある。――実現のためにもがんばります」

 我ながらに、若いからこそ言える言葉だなと思う。それだけに、若くないと実現できないことである。おそらくは全員に意味は伝わるであろう。そして、反対されるだろう。しかし、終身雇用に用はないのである。一度仕事を辞めたら、再雇用がとたんに難しくなることぐらい分かってます。しかし、ここは僕の居場所じゃない。

 そのあとは一年間がんばった表彰をしてもらい(優秀な成績なんか収めてないけどね)、お昼ご飯を食べたあとは新しいプログラム言語の概要説明を受け、レクリエーション的な経営の問題を解き、掃除をして、新しく顧問に来た人の歓迎会をしました。

 歓迎会では午後四時からお酒を飲み、焼き鳥を食べながらパソコンの話とかゲームの話とか飲み物の話とか地域社会についてとか聖火リレーについてとか話まくり、あっという間に二時間が過ぎて終了。お酒が入ると喋り捲ります。

 仕事は非常につまらないのだが、騒げるのはいいかもしれない。仕事のあとの飲み会の意味が少し分かったような気がする。

[◆]Like と Love の境界

 「 Like と Love の境界とは何か」という問いをいただいたので、ここでも答えておこう。

 Like とは好きであることを言い、Love とは愛することを意味する、とする。英語表記であるからには日本語では表現できないニュアンスがあるものと考えられるが、その辺をひっくるめて、僕の回答は変わらない。

 Like も Love も好意も愛も、すべては好きである濃度の問題である。一般的な「好き」というのは同じ場所にいるのが当たり前と感じることを言う。自分の心の中に、いつも相手がいる。そのような状態のことであり、その気持ちが高ぶればそれは「愛する」ことになるだろう。片時も離れたくなくて心も身体も一緒であり続けたいと思う感情のことだろう。この感情は好きでなければ成立しえず、またお互いに好きになる事は実に難しいものであると考える。

 境界線なんてものは存在しない。どこまでが「好き」であり、どこからが「愛する」ことなのか、それは個々人で相当に違う。他人が明示できるようなものではない。

 以上が僕からの解答だ。「好きと愛するは濃度の問題であり、明示できる境界線はない」、と。

 さて、以下は僕の雑感である。聞き流してくれたまい。

 境界線のあるなしを気にするって言うのはまさしく暗中模索という気がするねぇ。今、どこに自分がいるのかも分からないと言えよう。ただし、相手がそこにいることと、自分がここにいることは分かっているという感じだね。ただ、注意しないといけないのは境界のあるなしを気にするって言うのは暗中で相手との間に線を引きたいのかもしれないという心の動きがあることである。線を引いて、それを越える事にためらいを感じているのかもしれない。

 僕の恋愛感覚が違うせいが大きいのだろう。僕から言わせれば、恋愛なんていうのはずっと一緒にいた奴が勝者だと思うのであるが(ずっと一緒にいられるという事は、お互いに好きだということだから)、そこらへんがやっぱ違うのかねぇ。大抵はいつも一緒にいる人たちがそれぞれ手をつないでいくように見えるがねー。