三月二五日、火曜日の話
価値観と集団

 価値観とは、集団を形成するための共有精神体である。

[◆]価値観とは

 昨今では価値観が多様化したというけれども、それはつまり、個々人の指標がばらばらになったと言うことになる。価値観が原バラになった結果、社会を構成する最小単位である家族すらもばらばらになってき始めているわけで、僕の家なんか家族が集まる時って言ったら飯のときしかない。それは単に家族それぞれ、やりたいことがばらばらであるからというだけであるならいいけれども、それぞれが個室に篭っていたら価値観の共有を図る時間が取れようもなく、いずれは違う価値観を身に付けていくことになるのではないだろうか。まー、それはそれとしても十年以上手間隙かけてもらったおかけで、そんなに価値観がずれているとは思わないけれども、やっぱずれているところはずれているわけで。

 価値観とは物の考え方や感性を指し示すものである。大抵はそれまでの人生の中で培ってきた経験と知識、個体としての能力や生まれつきの気性、また取り巻く環境になどによって形成される。そして、そのほとんどが自分にとって、何が良き物であり、何が有意義であり、何が得かであり、何が悪いものであり、何が無意味であり、何が損かを指し示すものである。つまり、自身の行動を決定する大きな要因となる。この価値観の違いを手段に当てはめた場合、どのように作用するかは大抵の人が予見できるだろう。

[◆]価値観によって集団を形成する

 価値観が自身の行動を決定する大きな要因となる以上、価値観が合わない人間とは疎遠になるのが普通である。価値観が合わなければ、お互いの行動がお互いにとって邪魔なものになる場合があるからで、行動の害となる人間は排斥される。学校等ではこれがいじめの原因になる場合もある(ならない場合もある。念のため)。

 逆に、価値観が似ている、もしくは一致する場合は人間は集団を形成するに至る。同じ価値観に対して人数が増えれば行動の範囲が広がるからで、あらゆる物事、状況、環境に対して強力になるからである。これは大抵の場合、同世代同士の人間がもっとも価値観を共有しやすいようだ。つまり、価値観とは時代の流れを象徴しているとも言える。

 価値観の共有による集団形成で顕著な集団と言えば、宗教団体を挙げることが出来る。彼らは何がしかの象徴を持ち、それを価値観の根底に置くことで価値観の共有を図る。それは神であったり仏であったり、この世であったりあの世であったり、天国だったり地獄だったり、現世だったり楽園だったり、学力だったりお金だったりするのだけれども、必ず信じている人の間には共有される価値観が存在する。そして、価値観の内容如何によっては世界平和が実現したり戦争が起きたり、飢えに苦しむ人がいなくなったり虐殺が起きたりするわけで、それぞれの価値観において確たる得となる行動、損となる行動の規準は存在しない。オウム真理教のサリン散布は得か? 損か? 計画、実行した人達にとっては得だったのだろうし、被害にあった人達には損以外の何者でもなかったに違いない。

 さて、宗教団体のように根底にすえられる象徴がある場合は、価値観の修正という形で価値観を共有できる人を増やすことが出来るが、そういうものがない場合、同じ価値観、似たような価値観をもった人が集まることは珍しいのではないだろうか。

[◆]インターネットによる価値観探し

 普通、自然に培われた中で同じ価値観を持つ人を探し出すのは相当に難しいことである。普通に生きていて、三人、四人見つかればいいほうだろう。しかし現代において、断片的ながらも同じ価値観の人を探す、もしくは募集する手段が出来上がった。インターネットである。

 インターネットの意思疎通は、実際に人が出会いしゃべるに比べたら貧弱すぎる部分があるが、意思の伝達不足、反応の遅延、誤解の発生等を恐れなければ、二次元的な意思疎通は可能である(流石に三次元的な意思疎通は無理。情報量が足りなさ過ぎ)。また、価値観の共有もある水準までは可能である。ネットを通じた集団自殺などが典型例といえば典型例だろう。自殺を根底においた価値観が存在するわけだ。どこまで価値観を共有できていたかは不明だけれども。

 ある程度の価値観の共有を確認したら、後はのんびりと過ごすだけであるが、さらに何かをしたい場合は実際に会うしかない。実際に会い、価値観の齟齬を是正し、共有を確たるものにする必要がある。

 まずはインターネットを通じて仲間を探し、それから実際に会って確たる関係を築く。インターネットを通じた価値観探しは、こういう形になるだろう。

[◆]で、僕にとっちゃここからが肝なのだが

 ここまで読んだ人なら僕が何を言いたいのかってことに気がついている人が大半だと思うんだけれど、もう世界群歩行者達の話しかない。

 中公新書の正高信男著、「考えないヒト」という新書を読んでいるのだが、これは携帯電話のメール機能を多用する若者が、いかに言語的意思疎通をせずして記号的意思疎通に依存し始めているかをテーマにしているような感じで次第に右脳と左脳の話とか生殖活動における美人、美男の特長とかの話になんかずれているような事を書いている本なのであるが、その中に「文化による集団形成」に触れる部分がある。つまり、価値観を共有することが出来れば集団として成り立ち、価値観にそぐわなければ排斥されるというものである。本のテーマとしては、携帯メールを利用して複数のグループとの絆を作っている人はこの価値観というものがとても弱くなっており、それゆえに簡単にさまざまなグループとくっついたり離れたりするというもので、得てしてみんな能天気になっているというものだった。僕の理解が正しいのかどうか分からない。

 それはともかく、価値観の共有が組織にとって大切であることは間違いない。価値観の共有が出来ていないばかりにまじめに仕事しないやつが職場に紛れ込んでいるのである。つまりは僕だ。周りの人が働いているのに僕は何をしているのでしょうね。するべきことはしているつもりだが、それでも全力でやってないしなぁ。

 価値観の共有はとても難しい。現代のように多様な価値観の存在が許された結果、非常にまとまりにくくなったことは間違いない。小学校で習った道徳は絶対ではなくなり、親の言いつけは右から左に流されるような状態が生み出された。苦労を嫌いただひたすらに楽な道を進みたがる人が増えたことは間違いない。なんだかんだ言って。

 そのような中で、世界群歩行者達としての仲間を見つけることがどれだけ難しいか。携帯電話がなくなっても平気か? テレビや音楽がなくても平気か? 漫画やゲームがなくても平気か? 自分で農作業することに耐えられるか? ――青い空を望むか。星空を望むか。暖かい空気を望むか。寒い夜を望むか。これらに対し、すべてに頷く事が出来なければ、世界群歩行者達にはなれない。いずれは手に入るだろうが、最初は何もないのである。

[◆]それにしても気が滅入る

 なんか、頭にぴりぴり来るだるさがあって仕方ない。仕事へのやる気のなさにも拍車が掛かりっぱなしだし、プログラムは面倒だし、ほんと、どうしてしまったかなー。うーん。

 なんか、本格的にやばくなってきたと感じる。動的サイトの開発を速やかに行わなければ、夢の形を掴むこともなく力尽きる気がしてきた。今までに感じたことのない頭の痛みと眠気に、危険信号を感じて仕方ない。

 遊んでいる場合じゃなくなってきたな……ちょっと勉強する環境を整えよう。今使っているメインパソコンじゃモニターがでかすぎて最適な環境は得られないので、ノートパソコンに復活してもらおう。ハードディスクを買ってこなければ。あと、ノートパソコン用クーラーも。設置場所は居間にしてネットワークは引かない。ひたすらプログラムを組み続けることにする。

 しんどい。急がないと。