十二月一七日、月曜日の話
またやってしまった

 土日という休日があったのに月曜日はもろに睡眠不足に陥っている。

[◆]月曜日が一番睡眠不足かも

 本日は類を見ない睡眠不足である。感覚的に月曜日だというのが分かっていても「月曜日」という単語が頭にすぐに浮かんでこないんだから相当なものて、本日は睡眠不足を原因とする記憶障害に悩まされそうだ。さすがに自分の頭が心配になってくる。

 んで、なんで睡眠不足になっているかと言えば夜遅くまでゲームで遊んでいたからである。午前二時まで遊んでしまったら睡眠時間はどうあがいても五時間しか取れないことは寝る直前まで理解していた。今日、とんでもない睡眠不足に悩まされることも理解していた。故に誰にも文句は言うまい。ただただ今日は遊ばずに早く寝ようと思うだけだ。どうせゲームの続きが気になってまた遊ぶんだろうけれども。

 プレイしていたゲームはすでに発売十二年前となるスーパーファミコンソフトの「天地創造」。十二年前の作品なのに睡眠不足を厭わないほどに遊んでしまうんだからその面白さは現代の作品をしのいでいる。やっぱ、3Dできれいなムービーがどうとかどうでもいいよ、声なしてもすべてドット絵でも面白さは天井知らずだ。現代の作品はむしろ制限だらけのような気がするね。このスーファミソフト、定価は一万千五百円と、現在のDVDロムソフトに比べるとやく四千円も高い。いやま、一万千五百円のうち、かなりの額が任天堂に巻き上げられていたはずであるからメーカー側だけで本当に売りに出そうとしたらやはり七千円ぐらいに落ち着いていたかもしれない。この1995年代、エンディングのスタッフロールのシンプルさは最近のゲームに比べると泣けるほどであり、かつ短いってか一人が何個も役割を兼ねているのが当たり前で、プログラマーと音楽作曲と監督が同じ人とかよくあるから(だから、人件費は全然かかってない)。ファミコン時代だとソフト作った人が三人だけとかざらだったからなぁ(だからこそ、ゲーム調整がちゃんとされていなくてクソゲーが伝説化したりしたのだが)。

 くそ、天地創造をしていたら主人公がかっこよく、なおかつ女の子に何気にもてていたりして普通に羨ましいんだが。故郷じゃ主人公の帰りを泣きながら待つ女の子がいて、旅先では一人身の逃亡者となった元お姫様の護衛かい。しかも何気にポイント上昇中だし。くっ、こんな気持ち、最近のゲームでは味わえないぜ。最近のゲームじゃ、登場人物が現実化しすぎていて幻想的なかっこよさが失われているからなぁ。あと、天地創造はゲームシステム上、ひたすら一人旅なので余計にかっこよさが際立つんだよ。アクションRPGだし。

 あと、天地創造はしょっぱなから失われた世界を復活させるというでっかいレベルの話であり、その復活させる世界と言うのが現実世界を模した世界である。アフリカ、南米、ユーラシア、北米、オーストラリア、ポリネシア諸島(復活させる順番)と進むため、いろいろと現実を模した部分が出てくる。日本を模した街も出てくるんだが、なかなか現実味があって笑った。道行く人に話しかければ「ノー、アイキャントイングリッシュ! ベリーウェル!」とか「こんな仕事辞めてやる! ……って言えたらなぁ」とか「急いでますんで……」とか、あーよく日本社会を表しているねぇって感じだった。てか、住宅には誰もおらず、みんな働いとるがな。スーツ姿ばっかりですがな。

 ちなみに、時代はごっちゃ混ぜである。ヨーロッパの方じゃ絶対王政で、ようやく民主主義が動き出したところだった。革命のような革命じゃないような、単に王様が暗殺されたから変わっただけだけれども。次はアメリカ大陸である。コロンブスである。けど、「新大陸、新大陸!」っつったって、主人公はそのその新大陸(北米)にある鳥の聖域から渡り鳥でアフリカに行って戻ってきただけである。あんた、むしろ新大陸から来たんだって! その時はまだ人間は存在してなかったけど。

 さて、ネタばらしはここまでとしておこう。気になるのはやっぱいなくなってしまったお姫様だよねぇ。あと、故郷の女の子だよねぇ。僕としては最終的に故郷の女の子とお姫様とで主人公を奪い合ってほしいのだが(楽しいから)、さてどうなることか。一応、何もかもハッピーというわけにはいかない、むしろ残酷さもプレイヤーに教えようとしているゲームなので先が楽しみである。何かを教えようとしているゲームはやはり面白いねぇ。最近のゲームは何かを教えようとしているわけでもなく、また先読みが簡単にできるから困る。

 あと、何回もゲームオーバーを繰り返しながら挑戦するゲームも久しぶりだ。回復アイテムを限界まで持っていてもあっさり死ぬ場合があり、やり込みがいがあるというもの。

 まだゲームクリアーしたわけでもないのにこれだけ感想が出るというのも、昔のゲームの力強さを物語っているようだ。

[◆]コスト削減ほどイラつくものもない

 コスト削減と言ったらどこでも当たり前のように行われているものの一つに違いない。企業における最大のコスト削減と言ったらリストラだろうし、ベンチャー企業なんてゴミの量まで削減しなくてはならない(法人の場合は普通、ゴミ回収業者にゴミを持って行ってもらうのだが、業者に金を払わずに無料で市に回収してもらうためにゴミを一定量以下に抑えるとか涙ぐましいコスト削減をしている。情けないとか言ってられないんだろう)。

 んで、プログラマーのコスト削減と言えば作業時間を減らすこともさながら、仕様書作っている工数がない(工数と言うのは作業時間のことであると捉えてもらって構わない。一人の全体作業時間のうち、複数作業のそれぞれに何時間ずつ振ったかの指標として利用される)とかで、ガイコツみたいな仕様書が作られ記録が取られずその場限りで中身が忘れられるような状態になる、らしい。一つに関わりすぎず次々と新しい仕事をこなしていかなければならないという、人の記憶力に頼ったコスト削減である。故にそれを作った人がいなくなると何をやったのかこのプログラムがどういう作りをされているのか分からなくなるわけで、その中でももがかなくてはならない。削減しすぎるからこうなるのだが、それを分かった上でさらに削減しろという企業体質はどうにもならない。企業も金持ちではないのである。

 当たり前であるが、コストが削減されると削減された分の負担はそこで働いている労働者にのしかかってくる。給料も上がらない。給料を上げることはコスト増大になるから。いくらなんでもやりすぎだと思うのだが、やりすぎないと赤字になって倒産する。企業は必至である。作ったものが売れないんだから仕方あるまい。一発当てれば大きいが、当たるまでが遠い。

 コスト削減はもろに労働者の負担となる。楽できていたのが普通に忙しくなる程度ならいいが、必要な肉までそぎ落とすとなると堪ったものではない。これによく似ているのが団塊の世代の一斉退職だったりするわけで、その影響と言ったら大騒ぎ。若い奴も少なくなってきているのにノウハウを持った連中までいなくなったらそりゃーもうしんどいだろうね。新しく新社会人になるはずの若者が労働者になるのを敬遠するのもある部分で納得するよ。まあ、敬遠している奴と単に本気で働きたくない奴の区別がつけづらいんだけど。

 コストなんて気にしない仕事がしたいもんだよ。何かを研究したりする、失敗することが前提の何かをするわけではないけれど。学力も足りなかったしなぁ。

[◆]ところで、暇

 ……新しい仕様書をもらうのを忘れた。故にすでに完成しているプログラムを見てバグがないかをチェックすることしか作業することがないんだけれど。早くSEの人戻ってこないかなぁ。今日は戻ってくるんだろうか。

 一つ気になったので。学力と言うのは、結局のところは人間を能力で振り分けるための基準なんだよね。どれぐらい知識を詰め込めるかを計っているわけで、詰め込むことができなかった人間から振り落とされていく。人間は幼少期の方が大人よりもはるかに記憶力がいいので、その時点で知識が詰め込むことができなくなったら脳が悪いの烙印を暗黙のうちに押されることになるのである。時代が進むごとに詰め込まなくてはならない知識の量は増えていき、振り落とされる人間は増えていくことだろう。そして詰め込むことができた人間だけが頂点へと上り詰める。頂点には必要な知識を持っていてさらに遊べるだけの余力を持った天才がいて欲しいものだが、どうやら現代では頂点に立ってくれる天才はいないらしい。残念。

 日本社会で言えば、社会を引っ張れる人材がいないのに生活水準を落としたくなくて余裕が全くないように見える。生活水準を落とせば楽になるんだろう。僕ならば、パソコンもゲームもお菓子もない生活を送ればずいぶんと楽になるから、別に今の仕事をしている必要もないはずである。ただし、いざ結婚なんかした日には今の仕事で僕自身の余分を無くしてもきつそうな気がする。少なくとも三人が住める家って、賃貸でいくらぐらいなもんかね……都心に住むのは無理だね。郊外も無理かも。田舎までいくと今の職場じゃ無理だねぇ。

 こんな金のかかりすぎる世の中じゃ、ぱっぱら平穏に暮らすなんて無理じゃないのかね……。

 ……と、プログラムの修正がきた。なんか細かい……。