十一月二〇日、火曜日の話
死ぬことは自覚している

 自分がどんな延命方法を用いようとも百年も生きられないことは理解している。ゆえに、焦る。

[◆]例えばの話、五百年生きられたならば

 本日はプログラム作成もあんまり滞りなく進み、しかし一日の終わりになって実は指示された覚えがないところまでやる必要があることが発覚し、一体一つの件を終了させるまでにどれだけ時間がかかるんだと頭をぽりぽりと掻いていたりします。最初に全体像が見えないのがもどかしい。あと、全体が見えてないために時間配分を間違えている。早くこなさなければならないところをまたーりとやっているため、最後に焦る羽目になる。全体像をはっきりさせておきたくても指示を出す人間がのらりくらりとやっている、もしくは指示したつもりでいるもんだから余計に進行が遅れる羽目になる。ちなみに、この人は本日社長に注意されていました。しかしどっこい、この人も社長並に重鎮であるため、注意をしたところでどこまで響くか分かりません。いや、響いてない。この人、僕とおんなじ匂いがするんだよね。裏でマイペースを貫く人間だ。いくら注意しても効き目は薄い。

 さて、最近は最後まで残っているのが僕かこの人かという状態になりがちで、それゆえにいろいろとしゃべることが多い。会社の人間の中では、この人が一番好きである。相対評価でしかないが。ゆえに、「二年もがんばればすごいプログラムだって組めるだろ。二代目○○になれるね」と我が社で一、二を争うプログラマーの後釜を提示されたりすると可哀想になる。おそらく、僕は自分の野望のためにこの会社は切り捨てることになるだろうから。予定ではあと一年半である。それまでにC言語とSQLはマスターしなくてはならない。これらはある程度、感覚になじんできたので関数――プログラムの機能を覚えればすぐに扱えるようになるだろう。まあ、最初のうちはデバッグが大変だろうけれども。

 なんとか、独力で資金を得る手段を手に入れなくてはならない。そうでなければ僕の人生は意味を成さない。今のままだと満足に人生を楽しめない。せっかく足かせを嫌う感性があるんだ、振り払う力を身につけなくてはならない。まー、孤独なもんだけれども。

 五〇人。僕が欲しいせめてもの仲間の人数。仲間とともに暮らし、仲間と生死を共にし、楽しく生きていける人生を送りたい。漫画のような娯楽小説のような絵に描いたような人生を現実にしたい。それを実現させる力が僕にあるのかどうか。僕が手に入れることが出来るのかどうか。人生を賭けた挑戦になるだろうからわくわくする。まずはC言語のマスターが先決か。まだ足し算引き算を選択して計算させるプログラムが作れる程度。道のりは長い。

 さて、一旦締めの空気を出したところで本題である。例えばの話、僕が五百年ほど生きられたならば、果たして野望のために会社をやめる選択をしただろうか。やめる確立は二割は下がるだろう。僕が五百年生きることが出来たって、仲間になってくれるかもしれない人々の人生が百年しかなかったらうかうかしていられない。それでも、流石に生きられる時間が五倍になったら気が長くなりそうだ。焦らなくてもいい気がするから。もしも五百年生きられたならば。しかし、五百年生きられることに夏的の長くなった僕自身を想像すると、なぜだか悲しくなる。それはそれで、なんだか生きる目的を見失いそうなんだよなぁ。

 まあ、僕自身の耐用年数はせいぜい五十年だ。それを考えると二五歳までに足場を固めなくてはならないだろう。

 僕はどこへ向かうのか。誇りを持って歩みたいものだ。五十年生きようが、五百年生きようが。