一〇月 四日、木曜日の話
睡眠不足

 そろそろ睡眠不足も慢性化してきたな……。

[◆]睡眠平均時間、五.五時間

 分かっている。二三年七ヶ月生きてきて、自分が如何に睡眠不足に弱いか、徹夜できない体質なのか分かっている。必要な睡眠時間は最低七時間、ちょうど良い睡眠時間は八時間。睡眠時間が六時間程度になると次の日は眠気に苛まれ、記憶力は落ち、気力が削ぎ落ちる。五時間程度で簡単に白昼夢を見ることができるようになり、徹夜をすれば次の日はいつ睡魔に負けるか分からない。大学生の時は講義中に寝てしまっても重大な問題は起きなかったが、今は会社で働いている身である。ある程度は自己裁量でサボれるとは言え、昼休み以外の時に机に突っ伏すわけにはいかない。

 で。ここのところ睡眠不足が慢性化している。睡眠の平均は六時間であるが、昨日は午前二時に寝たから睡眠時間は五時間あるかないか。……記憶力なし、判断力なし、気力なし、やる気なし。つまりは仕事を進める上で必要な要素が今日は空っぽである。まずいなぁ。

 なぜ、分かっているのに睡眠不足に陥るのか。論理としてはこうだ。

 夜十時に帰宅 → 十時半に夕食 →
 十一時から遊ぶ → もう午前一時ですが何か?

 さて、現状を鑑みるに、遊ぶ時間を0にしないとまともな睡眠時間は取れなさそうである。じゃあ、遊ぶ時間を0にした場合。そこに待ち受けているのは「一体、僕は何のために生きているのか?」という哲学的でも社会学的でも何でもない、単純な疑問にぶち当たってしまう。「働くことこそが人間の基礎」というような言葉を何回か耳にしたことはあるが、なんで人生の伴侶でも、類なき親友でも、かけがえのない仲間でもない他人に自分の人生を譲り渡さねばならないのか? 遊びったって、単なる遊びと言ってもそれは僕がやりたいと望んでやるものであり、やりたいことができない人生などさしたる意味も持たない。

 金を稼ぐことが僕の人生の目的ではないのだ。どころか、金を稼ぐことは僕のやりたいことに反する行動かもしれない可能性を持っている。無償で何でもやりたいと言うわけではない。単純に言うと、社会のために働くのが嫌なのである。お金とは、建前としては社会貢献した人間に与えられるものであり、社会貢献したから社会から様々なものを受け取ることができる、その証書である。社会貢献したくない僕にしてみれば、お金を受け取ることは間違っていることになるだろう。

 社会貢献しなければ、社会からは何も得ることができない。食べ物すらも受け取れず、場合によっては餓死する。しかしそれは、社会貢献していないのに社会の中で生きようとする不格好から来るものであり、社会から独立すれば苦労はするが生き続けることは可能だろう。どーやって独立性を保たせるのかが多少気がかりではある。しかし、ま、今のところ日本の中には空白地帯がいくつかあるようなので見せかけでもある程度の独立性を確保できると考えている。事故に合っても誰も助けてはくれないが。

 日ごとに仕事を辞めて誰もいない過疎村に引っ越したい欲求に駆られている。都会に入れば少なくとも食うには困らないだろう。このまま仕事に就いていれば、いずれは結婚をして、子供を作って、家族を守りながら生きることもできるだろう。儲かろうが倒産しようが将来に興味が湧かない会社に人生を売り渡しながら、そこらへんにいる人間たちと同じように食べ物を食べ、子供を育て、パソコンでゲームでもしながら大けがしたら救急車を呼んでもらってお金は保険で軽くしてと、ありきたりで平穏な人生を歩むことになるだろう。あー、自分で書いていてなんてつまらない人生だと思った。

 本当に田舎でクワ振っている方がいいんじゃないか? 昼は畑を耕して、夜はたき火をしながら星を眺めて、真剣を振り回して草刈りをしたり、大声をあげて自分の存在を示してみたり。周りには誰もいないから、存在を示したところで人間相手には無意味なわけだけれども。

 第三次産業は、金は儲かるがつまらん。第二次産業は面白そうだがぱっと作りたいものが浮かばない。あと、自分だけの時間が取れそうにない。第一次産業は苦労もするし長く腰を据えなくてはならなくなるだろうが、社会と繋がりを絶って生活するならば自分の時間は取れそうだ。日本国内の話だから、どこ行っても税金取られそうではあるが。税金払うためにはある程度の資金入手も必要か? しかし、稼ぎ口なんてないと思うんだけれども。