七月 九日、月曜日の話
風邪を引いた

 鼻詰まりもさることながら、筋肉の痛みやだるさ、一時的だとは思うが耳まで遠くなった。よく聞こえない。

[◆]風邪を引いた土日

 土日と言えば休日で日記を書く時間なんぞいくらでもありそうなものだが、実際には無理を重ねた夜更かしをするもんだから一日の活動時間としては少ない方なんじゃないだろうか。早寝早起きすれば、最も有効に一日を使えるというのに。

 それはそうとして、風邪をひいたらしい。喉の痛みをはじめとして、筋肉痛のような痛みとだるさ、極めつけが鼻水が止まらないこと。鼻水が止まらないという事実がなければ、のどの痛みは金曜夜の四時間ネットラジオ、筋肉痛は虚弱体質化によるもの、だるさはこの夏の暑さで片づけていたであろう。部屋の室温は32.7度である。

 扇風機の風を直で受け続けていたせいかもしれないし、やはりこの夏の暑さにやられてしまったのかとも思うのだが、とりあえず風邪。栄養剤を買いにドラックストアに行けば一本九百八十円の高麗人参のエキスを買わされ、これがまずいうえに効果的だったとは言えず、栄養剤を飲んで寝た方がいいだろうと寝る二時間前に栄養剤を飲んだら、ベッドに入ってから四時間も眠れなくなってしまった。寝たと思われるのは新聞屋が来てからである。

 まあ、それでも本日は出社し、睡眠不足に悩まされることなく仕事をしている。ちょっと耳が遠くなっているのが気になるが、そのうちに治るだろう。今日は家に帰ったらゆっくり寝たいものである。

[◆]生かされていることは悪いことか

 先日の僕のネットラジオ、「塊素の場当たりラジオ」において、ニートの人は生きているのではなく、生かされているという下りがあった。はたして、これは悪いことなのだろうか。

 ニートはその生活基盤の全てを親に依存している。親がいなくなれば共倒れする寄生人間でしかなく、社会の中では恵まれた浮浪者と変わりがないような立場となっている。

 彼らは時間において自由である。まあ、労働すべき時間を親に預けている分、自由っちゃ自由なわけで、あるところではそれが羨ましいようにも思う。就職すれば誰にも寄生せずに生きていける分、労働に時間を取られることは必然だからで自分のやりたいことなど本当にできなくなるものである。少なくとも、短期集中で何かを行うことは無理だろう。

 さて、社会的には嬉しくない存在であるニートであるが、人間としてその存在は悪いことなのだろうか。と言うことを考え始めると、ふと思い浮かんだのがキリスト教。彼らの教義では、神に尽くした人間は楽園に行き、神に守られて生きると言う。まあ、ちょっと理解が違うかもしれないなぁ。まともにキリスト教について調べたわけでもなし。

 で、まあキリスト教がそういう宗教なのかはさておき、神に守られて生きるのは神に寄生するということで、それってニートと何か違いがあるのだろうか。生きているか死んでいるかの違いでしかないように感じるが、どうなのだろう。もしもこの考えが正しければ、楽園で楽しく生きることを目的とした宗教類はニートの人をあんまり批判できないのではないだろうか。いや、生きているうちに周りの人間に迷惑をかけたかどうかは批判できる……宗教類の人は神に迷惑をかけるので、やっぱ批判できないかもしれん。五十歩百歩だ。

 と、いうわけで、生かされていることは何かしらの存在に寄生せねばならず、寄生された相手には非常に迷惑であるから悪いことである、とする。自由の形は様々だが、寄生するということは、相手から自由を奪ったことに相当する。与えられるのでもなく、勝ち取ったわけでもなく、奪っているのである。だめだろ、そりゃー。