六月一三日、水曜日の話 [◆]強制分解者とは
地球の生物環境として、そこには分解者、生産者、消費者の三種類が存在する。生物などの死骸を分解し栄養を作り、栄養を吸って生産者が育ち、生産者を摂り込んで消費者が生き、やがて死んで分解者に分解される。具体的には、分解者とは細菌のことで死骸を腐らせて土に還らせ、生産者とは植物のことで動物に食べられ、消費者とは動物のことで生産者を食い散らかすのである。そして、最後は死んで土に還る。 さて、現在の最高の消費者は人類であると考えられるが(実際のところは確証はないが)、現存の人類の動向から見るに単に消費者と位置付けるのは視野の狭いことではないかと感じるようになった。人類は、消費者としての枠を越えて環境を破壊しつづけている。直接、食物連鎖に関係のない生物までが影響を受け、絶滅していっていることは注目すべきことだろう。 人類の生物としての特異な点は、その広大な社会性にあるだろう。海を越えて違う形をした社会と交流ができるというのは、海を渡る渡り鳥にもできていることかどうか。そして、広大な社会性に物を言わせて資源を取り、新しいものを作る傍らで環境を破壊していく。その中では生きている生物すらも殺していき、利用していくので、まるで消費者と分解者がくっついているかのように感じる。消費者の能力の延長だと考えるとこれもまた納得できるところではある。しかし、食べるわけでも、縄張りを守るわけでもなしに殺していくのは、生きているものを分解していると言えるだろう。 生きていようが問答無用に消していく。このような行為をするものを「強制分解者」と呼ぶことにする。 さて、人類を強制分解者と呼ぶことにしたところで、次に「愛」について述べることにする。愛とは、その実態は種族保存である。愛は世界を平和にするとはいうが、大抵のところではこれは人類しか対象にしていない。その他動植物にまで愛の対象を広げていたら、確実に大勢の人が餓死するであろう。さすがに、愛のために食べ物を与えないというのは聞いたことがない。食べ物を与えないのはむしろ、愛がないとして罵られるだろうね。 分解者は対象を分解するために、頭数を増やさなくてはならない。自身よりも何千倍も大きいものを分解するために、数億の数をもって分解していくのである。強制分解者もこれに漏れず、愛の名のもとに数を増やしてきたのである。 さて、では、頭数が十分にそろったとき、どうなるのかという話であるが。大抵の分解者は餌にありつけずに餓死するようであるが、強制分解者たる人類の場合、餓死することはその社会性の問題でなかなか起きることではない。結果として餓死以外の頭数の削減を求められることになる。つまりは、戦争による殺し合いを筆頭に、街中での喧嘩や社会的優位さを求めての謀略、少子化や中絶などが多発することになる。 最近の日本に限って言えば、「愛」という感情が捨てられてしまっているんじゃないかという気がする。特に若い世代に顕著で、やれ妊娠に気付かずトイレに産み落としてそのまま死なせたとか、子供の虐待死だって最近多いし赤ちゃんポストはどうなったー。 種族保存がいらなくなったとき、愛という感情は消えていくものなのかもしれない。つまるところ、頭数がそろったので増殖する必要がなくなり、愛が不必要となった。あとは思うさまに環境を破壊していくだけである。 さて、環境を破壊する以上は強制分解者たる人類も死ぬことになろう。すべての生物が死に果てたあと、はたして地球はどういう未来を歩むことになるのか。それを見てみたいねぇ。その前に死ぬのはわかりきっているのだが。 [◆]愛について
上の文章で、愛の実態は種族保存だと書いたが、逆に言えば種族保存をする気がない場合は愛を持たないということになる。納得できる。愛だの平和だの、聞こえはいいが人間という種族を保存しようとする動きのことだ。相手を憎むのは、相手を保存する気がないからだ。戦争が起きるのは、相手を保存する気がないからだ。 人類を保存する気がなければ、赤ん坊すら見殺しにできる。 そういう時代になったんじゃないかと思うねー。 |
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