五月二四日、木曜日の話
早すぎる個性完成?

 おそらく、今の社会は若者と相容れないものがある。

[◆]「ねばちっこい経営」を読んで

 今週の土曜日に会社において勉強会が行われる。会社の中で最も若い人三人に対し、社長自らが会社の経営について語るというものである。勉強会というよりは歴史伝道のような感じになるだろう。この取り組みの狙いは、会社の運営を若い人に伝えるという「会社の存続」を確かなものにするためのもの、だろう。たぶん。

 そういう意味では、僕の入社というのは本当に節目に当たったことになるのだろう。社長が年を取ったと感じているということなのだろうか、まだまだがんばる気満々のような気がするのだが、それはそれとしても十年後、二十年後を見据えてのことなのだろう。

 さて、その歴史伝道に使われる教本として指定された「ねばちっこい経営」という本がある(東洋経済新報社/遠藤 功、著)。これを本日読み終わったのであるが、これを読み終わって感じたことは「今の若者には相容れないものがあるな」というもの。というのは、どうにもこの本は洗脳を推奨しているように感じるのだ。つまり、企業が優良企業になれるように努力、改善することは大切も大切なのだが、それには人生を仕事に注ぎ込まなければならないことを明言していないとは言え、書かれているのである。これは今の若者には苦痛にしか思えないことなのではないだろうか。

 そもそも、企業とは何か。その前提が今の社会を支えている人と若者の間で違うだろう。いや、これは仮定であって確実なことじゃないんだけれども。まあ、僕の感じるところを述べると、前世代で言うところの企業とは、社会を支えて更に社会の質を向上させるものである。この社会で生きるならば企業に従事して、みんなで幸せになるのが理想と考えられていたと思う。だから、やりがいがあったのだ。

 今は違う。企業とは若者にとって、単に金をくれるところに成り下がってしまった。転職の時代と言われるのはこれに起因するし(転職サイトの謳い文句は「楽して金稼ぎ」)、フリーターの増殖も実のところはそういう見方が大半を占めているからだ、と感じる。フリーターの話でいつも話題の中心になるのは月の手取りでしかない。このように企業が金出しとしか思われなくなったのは、社会の質の低下がもっとも大きい。くだらない社会には誰も夢も希望も持たないってこと。首相のやる気のなさは政治的に正しいのかもしれないが、国民の士気に対してはマイナスにしかならない。あと、政治家の頭がお花畑となってはどうしようもない。民主のあのマスコットキャラクターは何さ。

 僕にとっても、企業とは所詮はお金の技術の獲得場所でしかない。僕がやりたいと思っていることを今の会社で出来ない以上、そういうものにならざるを得ない。本当はオンラインチャットゲームを作りたいのだが……うちの会社じゃ、そんなものは扱う予定はない。つーか、利用しているプログラム言語的にも僕のやりたい方向に進むとは思えない。せめて、C++を使わせてくれないとな……VBじゃちょっと無理っぽい。

 話が脱線した。「ねばちっこい経営」の話であるが、書いてあることは至極もっともで、納得も大いに出来るし実践できたならば優良企業になることも遠くないものになるだろう。書いてあることを要約すれば、「当たり前のことを何十年にも渡って、こだわりを持って継続する」となる。経営者が目標を持ち、しぶとくねばちっこく、一つずつ難関を越えていく。当たり前でありながら難しい。これが出来ている企業は、すべからく優良企業となっている……とされる。この優良企業の格付けが年収で行われていることが気になるが、まあ稼いでいるところは優良なのであろう。

 さて、年収で格付けされていることが気になると書いたが、つまり、僕は年収が大きい企業を優良企業と考えていないということだ。この時点で「ねばちっこい経営」の著者とは線が引かれるかもしれない。僕にとっての優良企業とは金を稼いで社会貢献している企業ではない。じゃあ、何が優良なのかというと難しいところではあるが、もっと僕のやりたいことをやれたならば、と思う。サイト運営もしたいし、C++の勉強もしたい。最近は睡眠不足だよ……。

 このように、僕は会社に人生を叩き込みたいと考えていない。「ねばちっこい経営」を読んだ今でもなお、「ねばちっこい人材ではない」と感じる僕は、果たしてこの先どのような人生を歩むことになるのであろうか。

[◆]早すぎる個性完成

 上でだらだらと書いたが、若者と社会の間の意識に溝がある、また相容れないとするのは、若者の意識に社会的意識が入り込む余地があまりない、もしくは拒絶されるだろうと考えるからである。これには情報化社会となったことが大きな理由だろう。つまり、社会に出る前にあまりに多くの方向性を手に入れることが出来るため、就職することが絶対的な方向性ではなくなったのである。おそらく、一昔前は就職しなければどうしようもないと思われるほどに絶対的な方向だったのだろうが。

 また、個性尊重ということで個人の価値観がむやみに成長促進され、社会に出る前に個人の価値観ががっちり固まってしまうという状態になった。それにより、社会的価値観を植え込むことが出来なくなってしまった人が増えたのではないかと考える。つまり、「ネットがあればいーやー」という人が増えた。情報が過多にあふれ、早熟してしまった結果、柔軟性を失い社会を受け入れなくなった人々。感じるに、社会の価値観を植えつけたいならば高校卒業辺りで社会に出さねばならない気がする。そこで植えつけないと、大学生やっている間にかちんこちんに固まる。僕のように。僕はまだ、社会に適応性があったから良かったが。

 でもって、もう生まれたときからパソコン、インターネットがあったような平成生まれの人は、下手したら中学卒業時に社会に出ないと社会的価値観は植えつけられないんじゃないかという気がする。情報があふれて価値観の早熟が早まっているのに、それに社会が適応できていない。最近の事件を見ているとそう感じることが多々。未成年がセックスして子供を人知れず生み、ゴミ袋に入れたり放置したりして殺す。おそらくは、未成年に性教育がどうしたこうしたとか卑猥だとかセックスは悪だとか言う前に、そういうことについて教えなければならないのである。もう、未成年といったら一四歳まででいいんじゃないか。そんな勢いが感じられる。もはや大人が設けた壁は機能していない。

 とどのつまり、社会が勢いよく発展しているのに大人が付いていけず、能力的についていける子供たちがぶん投げられているのである。そして、付いていけてない大人たちはこれを荒廃だとする。違う。子供が荒廃しているんじゃなくて大人が置いてけぼりを食らっているのである。そして、本当に社会というものを荒廃、または破壊しているのは、新しい時代に気がついていない大人たちである。気がついたら新時代だった。今は大人にとってそういう時期なのだと思う。

 ちなみに、社会性を身につけさせることが良いことかどうか、はまた別の問題である。今のところ、身につけた方が生活上、いろいろと円滑に進むと思われるが……何というか、本気になれない部分があるのがね。

[◆]むぅ……。

 うpろだの心配はすれども、誰も僕の心配をしてくれないとは。ま、最近顔を出してないから忘れられているんだろうなぁ……。寂しいっちゃ寂しいが。ま、詳しい話は明日に。