四月一六日、月曜日の話
気が付いたら月曜日

 さて、土日も終わって月曜日である。

[◆]気が抜けてきた

 朝、布団から起きるのが非常に遅かった。七時二〇分とは起きるのが本当に遅くなったものだ。昨日の晩、遅くまで起きてたからなー。気合いが足りないのかもしれない。やれやれ。

 今や、空も飛べると感じていた万能感はなくなっており、あらゆる事がうまくいくだろうという有能感もない。環境の変化に慣れてしまってドーピング効果がなくなってしまったのだろう。ただ、そのドーピング効果がある時に感じた志までは消えていないので、今後はいかにしてそれを達成していくかが問題となるだろう。ひとまず、勉強である。

 さて、ここ最近は社会に新人が突入してそこかしこで新人の様子が情報として流れているが、どうにもなってない新人というのは少なからずいるらしい。全体がそうだとは思わないのであるが、新人の態度が悪い、という情報ばかりが目につく。まあ、立派な新人の情報なんか普通はニュースにもならないから目につくことはないのであるが。立派であること、それが普通だからである。

 目についた情報を並べてみると、一番に敬語を使わない、態度が横柄、などが挙げられている。まあ、これはおそらくは社会を大学の延長だとか考えている連中だろう。自分が保護されていると意識的にしろ無意識的にしろ、考えている。だから、自分を守るための手段を講じないわけで。誤った社会観もひと押ししていると思う。つまりは、管理社会だという誤った先入観。

 確かに会社には縦のつながりがある。支配される側、支配する側、強制命令、そういうものが飛び交っている。と、思われている。僕が入った会社はそんなことはない。電話応対をしていてもそう感じるし、飯屋で食事をしているときにも管理社会の認識は間違っていると思う。本当は、互恵社会なのだと思う。

 いるのは知っている人と知らない人。知っていれば知らない人に教えるし、知らなければ知っている人に尋ねていく。ただそれの繰り返してみんなは仕事をしている。それが僕の側にある社会の姿だった。電話口に耳を傾ければ、その先の姿を垣間見ることができる。同じだった。

 大企業ともなればいささか形は違うのかもしれない。しかし、仕事の質や量が違うだけで人付き合いの形はそんなに変わらないんじゃないかと思う。それが僕の感じた社会の姿であり――それがもしも社会の姿ならば、社会とは万能でも有能でもないことを感じてしまう。社会は何か大きな意思によって動いているのではなかった。ただ、人付き合いが生み出したものでしかなかった。

 つまり、社会とは人付き合いなのである。人付き合いは二人から可能なので、要するに二人いれば新しい社会を作ることが可能なのである。ただ、それだけではできることが少ないので、できる人と付き合いが始まる。そして社会は大きくなっていく。百人もいれば立派な社会が出来上がる。それで十分に動く。――つまり、今まで僕が感じていた社会にこだわる必要は、ないと考えてもいいのではないだろうか。捨てても、また別の社会があるのである。日本国内であっても、今まで感じていた社会とは別の社会があるだろうことは容易に理解できる。ま、それは今まで感じていた社会よりは貧相で、便利ではないことも解る。ただし、僕が求めているものがある可能性はある。

 僕が社会に求めるものとはなんだろうか。それが解るまでは、「そこに生まれたから所属していたに過ぎない社会」にいるしかない。ま、三年間は少なくとも滞在する予定ではある。