二月 七日、水曜日の話
さびしいものだ、と思う

 ネット界では、接続しなければその人は存在しないも同然である。それがただ、さびしい。

[◆]日記の更新を忘れてた

 一昨日の日記、書いたのにスペースにアップロードするのを忘れていた。昨日と今日の分とあわせて更新することにする。

[◆]僕の人間性

 僕という人間は、どういう人間か?

 興味本位で動き、道徳心がかなり低く、自己中心的で歯に衣を着せるということを知らず、考えていることがそのまま顔に、態度に出る。マイナス要素が分かりやすいため人間関係は薄く、社会からは孤立する可能性が高い。周囲への迷惑を考えず、人をナイフで何回も刺して殺すことが狂っていることだとは思わない。むしろ奨励する。猫が死ぬよりも人間が死ぬべきだと思う。どうせ死ぬなら、とりあえず周りの人間を皆殺しにして、そして頭を打ち抜かれて死にたいものである。殺さなければ殺される、という環境を体験したい。そして、何もできずにあっさり殺されると思う。戦いの技術を何も持ってないから。

 まあ、そんな自己分析はおいといて、今日の話をする。

 本日、僕は飼い犬のビーンを連れて散歩に行き、散歩途中でちょっと凶暴な犬のいる家に近寄った。ビーンはためらわず僕を引っ張って凶暴な犬の入っている檻に近づき、鼻に噛み付かれた。ビーンは悲鳴を上げ、僕はとりあえず噛み付いている犬の口を開かせてビーンを開放。すぐさまビーンは逃走状態に入り、ダッシュでその場を離れることになった。

 で、このことを夕食の時に話すことになったのだが、親にしてみれば面白くないことだったようだ。僕としては、今回の件は不用意に他の犬に近づけば噛み付かれることもある、というビーンにとってよい教訓になることだと思ったが、親はそもそも近づけたことが間違いで、ビーンとその犬が喧嘩になればもっと事態は深刻になっていたに違いない、とはやし立てた。喧嘩になる前に引き離すことはできるのだが……双方、鎖につながれてはいるのだし。

 まぁ、僕の場合は喧嘩になってもいいや、と思うことはある。怪我を負った場合の保証等については心配していない、というか考えてないのであるが、そんなもの僕は金を払ってもいいと思っている。借金をすることになっても、百万二百万の話になろうとも、喧嘩になってもいいと思っている。後先を考えない興味優先の生き方というのは、刹那の面白さに長期間の苦痛を引き渡すものであることはもはや自明の理であるが、面白いのだからやめられないものである。

 さて、こんなものだから、親が「反省しているのか?」と聞いて「うん」と答えても、おそらくは親がして欲しい反省とは違うものであろうと思う。この当たりはうちの家族全員、気が付いていることだろう。少なくとも、親は噛み付かれたビーンに対して謝罪の念を抱け、という意味での反省を求めているだろうが、僕がいう反省とは単に「もうあの犬の近くにはビーンを寄せない」という行動修正のみである。ビーンが噛み付かれたことに対して、怒りもしなければ可哀想だとも思わないし、謝罪の念も抱かない。それよりも、今後のビーンの行動変化に興味がある。もう一度ねあの犬の子や近くに連れて行ったとき、果たしてビーンはどういう行動をとるだろうか。また近づこうとするか、今度はもう近づかないようにするか。他の犬に対しての反応も興味があるところだ。

 この点、僕はビーンを大切な飼い犬というよりは観察対象という感じ、いわば実験動物のように取り扱っているかもしれない。いや、そのように扱っているのだろう。親はいつまでもビーンと暮らしたいと思っているようだが、僕の場合ともなるとビーンが明日ぽっくり死んでもさして悲しまないだろうと思う。ちなみに、この突然死んでも悲しまない、というのは僕の家族全員にも当てはまる。親族にも当てはまる。命あるものはいつか死ぬもんだし、病院のベッドの上で死ぬのは分かりやすくていいことだと思うのだが。僕に決定権があるときに病院が遺体を研究用にしたい、と申し出てきたらさっさと渡してしまいそうだ。手首でも切り落として、それの骨を仏壇に飾っておけば問題ないだろう。……それはそれで、恨まれて化けられそうだなぁ。幽霊や魂の存在を証明できるかもしれん。僕は死ぬと思うが、証明された暁には僕も死に、幽霊になって思う様に親を殴りまくりたいものである。幽霊に殺された人が幽霊になってはいけないなんてルールはないですよね? ホラー映画もそういう風にすれば解決できるかもしれない。幽霊に呪い殺された人が幽霊になり、悪霊と戦えばいいのである。ホラー映画とかだと、大抵悪霊に操られる羽目になるのだが。

 話が脱線したのであるが、とりあえずのところ、一般的に求められる種類のやさしさと言うものは、僕の中には微量しかないであろう。ビーンが怪我しようがなんだろうが、それを予防することはあまりしない。血が出たら、とりあえず家に帰って消毒というところだ。このことから考えると、僕の人格は社会から求められる人格像から外れており、受け入れられないかもしれない。だから就職活動がうまく行かないんだといわれればその通りで、こうした僕の人格を隠し通すには僕はまだ若い。あと十年、しかも社会の中で培わねばならない。試練を乗り超えるために必要なものが、試練の先にあるとは何たる矛盾および理不尽。先にゴールしないとスタート地点に行けないってことである。

 この場合は何とかゴール前にあるスタート地点を見つけ出さねばならないが……僕がいる地点はゴールまであと三〇歩程度しかない(卒業まであと三〇日程度)。さて……。

 子供だと言われれば、その通りである。社会性のない糞餓鬼である。しかし、社会性というものが自分を殺して得るものだとしたら、そんなものは願い下げにしたいところだ。大人になりなさい、の言葉は今の自分を殺せっていうことに近い。なんともすれば、自分のわがままを押さえろってことだからである。

 自分の世界を保つことのできない低脳だから、こうしたストレスを抱え込むのだろう。他人に頼らずに生きていくことが出来たならば。それこそがユートピアであり、同時にヘブンである。永遠に一人で生きることになるだろう。そして勝手に死ね。自分の世界を保つという事は、そういうことなのだと思う。

[◆]掲示板で存在を忘れられ始めている

 さびしいものだ、と思う。人から忘れられるというものは。

 ハルヒのジャズ雑談らじおには去年の六月ごろからずっと付き合ってきたけれども、最近はサイト管理に忙しくてなかなか顔を出すことが出来ない。特に涼宮ハルヒのアスキーアート 保管庫の処理量と言ったら本当に泣きそうなもので、いったい何時になったら終わるのかと思うほどだ。こんな状態で就職すれば、間違いなく中途半端な状態でサイト更新停止状態に追い込まれてしまう。

 しかも、最近はハルヒのジャズ雑談らじおの住人からの僕に対する声もほとんど聞かれなくなり、役に立っているのか立っていないのかも分からなくなってきた。今日は挨拶をしなかったという僕の落ち度があるものの、書き込みに気が付いてすらいなかったという人もいて、モチベーションの柱が今にも折れそうである。僕はNGワードにでもされているのか、完全にスルーされていて空気のようだ。一時期は「このスレッドにはあなたが必要だ!」とまで言われたことすらあったが、栄枯盛衰、スレッドにとって僕はもう要らない存在にまで落ちているのだろう。書き込みをしないのだから当然の反応だと言えるのだが。

 ただのネット上の付き合いでしかない。実際にあったこともない。顔も、声も、名前も知らない。そんな人たちであるが、一緒にいて楽しかったし、会話が出来るのはうれしかった。だけど、今となってはもはや忘れられていくだけの存在でしかないのである。忘れている人もいるだろうし、僕を知らない人もいる。僕という存在は、2ちゃんねるという万人が集まる巨大掲示板の中の、ただの一接続でしかないのだ。

 僕を支持してくれる人はまだ他にもいる。しかし、そうであっても。僕が忘れられていくということ、僕という存在がかすんで行く事は、ひたすらに寂しいものだと思う。彼らの見ているものと、僕の見ているものはもう違うのかもしれない。それが悲しく、寂しい。よく、漫画などでは何百年も死なずに生きて、自分は生きているのに自分を知っている人間が死んでいく、いなくなっていくのは苦しいことだと何回も描写されているが、あれは真実だろう。僕は弱い人間なのだと思う。

 まあ、だからこそ、泣く事が出来てよかったと思う。

 それと同時に。

 でかくなってやろうと思ってしまうのは、何でなんだろうね?