五月二五日、木曜日の話 [◆]研究計画書の巻
卒業論文研究計画書。それはいわば、これから僕が書かねばならない卒業論文の概要である。先週、先生に付き返されたのを受けてもう少し中身のある研究計画書にしようとしたのだが、中身を持たせるための先行研究の論文を読み始めたのが二日前とあれば、早々うまく行くはずもない。昨日の晩は徹夜をしようとしたのだが、結局失敗してベッドに午前四時まで倒れていた。そこからまともに睡眠体勢に入り、起きたのが午前六時。まともな睡眠は二時間しか取っていないが、何とか頭は動いてくれそうだった。 ベッドから起き上がるのに、さらに二時間を費やした。苦行であった。 午前八時。あまりの進展のなさに、本日一本目の講義への出席をあきらめる。人間形成論……人間が人間らしく社会の中で生きていくために自己を形成していく様を、まったく人間形成できていない連中が聞きに来ている講義である。「出席は取らない。私語をやめないなら教室から出て行ってくれ」という先生の警告も空しい。あいつらはこの先も恥という言葉を知らずに生きていくのであろうか。彼らの行動を制御するには、即物的な連中らしく即物的な罰にしなくてはならないというのだろうか。単位取り消しを与えてもまったく問題ないと思われるが、それは先生の雇い主である大学側からクレームが付きかねない。留年生を大量に出されたとあっては大学のイメージを損ないかねないため、企業として大学は賛成すまい。 こうした連中を排除するには、もはや入学試験時に何かしらの防壁を張る必要があろうが、学力検査の壁を高くすれば僕がはじかれていたであろう。つまりは、講義もまともに聞けない虫ケラどもと僕の学力は同レベルだということである。悲しいがそれも現実。ただ、僕の今いる大学に入り、カズイ殿や中央杉谷旅客鉄道君や、焔朱先輩に会えたことはまごう事なき幸福であった。やっぱ人間、学力だけじゃ測れないものもあるよ。 友人からメールが来てた。いつもどおりの下ネタに末期的だなと思った。 それはともかく、先行研究を読み込んで研究計画書を……と思っていたのだが、書き始めて問題があることが分かった。 僕の卒論のテーマは「匿名性における印象形成(仮)」である。要するに、匿名性の保たれているインターネット上で他者とコミュニケーションする場合、相手に対してどのような印象を持つか、ということである。通常の印象形成は相手の外見から情報を読み取り、第一印象が決まる。それから非言語的なコミュニケーションと言語的なコミュニケーションを交えて印象が形成されていくのだが、匿名性のある環境ではそのコミュニケーションは言語的なものに限られる。顔も見えず、声も聞こえず、あるのは相手がいるだろうという情報と文字から拾い取れる情報だけである。 たとえば、掲示板等で今まで女だと思っていた人が実は男だったという「ネカマ」の存在を考えてもらうといいだろう。逆に「ネナベ」でもいいが、匿名性のある環境では相手に対して自分の印象を操作することは簡単である。なぜならば、印象を形成するには情報に制限がありすぎて、かなり単純な印象しか形成されないからである。「こんにちわー、私はリャンと言います。」、「こんにちは、僕はリャンと言います」。この二つの文は「こんにちわー」か「こんにちは」、「私」か「僕」、最後に句点があるかないかの違いでしかないが、前者は女の人、後者は男の人だと印象を操作された人は多いのではないだろうか。 そういうことは分かっている。しかし、僕の手元の先行研究論文にはインターネット上の匿名に関するものしかなく、印象形成まで手が回っているものはなかった。ゆえに、半分の要素が抜けおちた状態での研究計画書である。まともなものができるはずがない。しぶしぶ、あるもので書くしかなく、それと同時に匿名性における「印象」のあまりの脆さに、こんなのでまともに卒論書けるんだろうかね、と言うどうにも地に足が付いていない様な不安を抱える羽目になった。まあ、まともに取り組めばかなならず不安要素は出てくるものである。 友人からメールが来た。あいかわらずの下ネタに、悲劇的だなと返信した。 [◆]大学院に行くということは
最近、うちのゼミでは大学院をなめているとしか言いようがない会話がなされることがある。その場に先生がいたら、すかさず訂正が入るであろう。内容はこうだ。ゼミ生いわく、「就職しないんだったら院に行くとかー?」 就職の代わりに院に行く、というのははっきり言って大学院をなめている。なめているというか、そのゼミ生たちの常識を疑う。大学院に行くには最初から大学院に行くと決めて勉強している人たちだけであり、就職のことなんか考えている暇はない。さっさと英語の勉強をするなり英語圏に留学するなりしなくては。それぐらい、大学院の壁は高いのである。 就職しないんだったら大学院に行こう、とうちの大学生が発言するのは自分は馬鹿ですと叫んでいるようなものだ、と思う。何を夢見てるんだ。そういうのはもっともっとレベルの高い大学生しか言えない言葉である。うちの大学に入学している時点でそんな大それたことを言えるはずがない。もっと現実を見なさい。 大学院はなにも、うちの大学の卒業生しか入らないわけではない。うちにできた大学院がどの程度のレベルかはまだ分からないが、間違いなく別の大学院にもれた優秀な学生が来ることは間違いない。大学受験で彼らがどの程度苦労したかは知らないが、大学院に入ることは確実に大学に入るよりも難易度は高いであろう。 そしてその後、先生が大学院希望者に説明していた。「大学院は英語がほとんどの割合を占める。そして、競争率は五倍ぐらい」。ちなみに、僕が受けた入試の倍率は二倍をきっていた。一.四ぐらいだったと思う。これには入試形態が少し関っている。僕の大学の入試はA入試とB入試があり、A入試は英語、数学、国語の三教科から二つを選んで試験を行う。ようするに、最も嫌われる英語をスルーすることができるのである。倍率は二.五倍ぐらいだった。そして、僕が受けたのは三教科とも受験しなくてはならないB入試だった。みーんなA入試に流れて、挫折した人は挫折したのである。わはは。 わはは、で済むのが大学入試。問題は大学院入試で絶対にわははなんて言える場面はない。 と、いうわけで、院に行くと希望した四回生一人と三回生一人は、先生から英語の心理学の学問書をわたされてそれを訳してくるように言われていた。英語の世界では学問書というとまた言語としての体系が違ってくる。日本語の学問書ならば漢字の意味合いから辞書を引かなくても分かる単語は多いのだが、英語の学問書は英語圏で過ごしていた人にとっても、日常的に使われない専門用語がずらっと並んでいるために英英辞書が必要だという。要するに、大学受験までで習った英語が役に立たないことも多々にあるのである。大学院を目指して辞書と格闘してくれたまい。 そーいえば、使ったことはないのだが英英辞書は持っている。英語の単語の説明が英語でなされているこの辞書、眺めるだけで割りと面白いのだが眺める以外には使えないというのが難点か……。 とりあえず、英語の学問書の一部をコピーしてこいと言われて渋っているようじゃ、未来はないよ。'`,、(´∀`*) '`,、 [◆]涼宮ハルヒの憂鬱
涼宮ハルヒ、といえば最近人気のライトノベルであり、アニメもクオリティが高いと評判で、アニメのエンディングテーマをなんかのCD売り上げランキング(オリコン、というらしい)一位にしようと活動が広がっていた流行物の事である。実はこのたび、この涼宮ハルヒのライトノベルのほうを読むことになった。と言うのは、先駆けてこの小説を読んでいたイチノイカズイ殿から、内容に関して面白い情報を得たからである。 たこ焼きとたい焼きを食べながら得たその情報と言うのは、「この小説に出てくる未来人は、時間の流れを一枚一枚の静止画が連なったものだと説明している」と言うもの。思わず笑ってしまった。なぜか。ここでわかった人には僕から感謝状を贈りますよ? その、「時間の流れは一枚一枚の静止画」というのは、僕の書いた小説「私は電車に乗る」で使われた説明そのものだったからである。 --------------------------------------------- 「3Dアクションゲームは、やったことある?」 私はまた頷いた。私は最近、アクションゲームがやりたくなって、アクションゲームソフトを三個持っていた。 「あれってさ、コントローラーを動かせばすぐにキャラが動くし、ゲームの敵や物や街の人々なんかも動いているよね。何の違和感もなく」 それは理解できる。私は頷いた。 「普通に動いているように見える。けれど、あれって静止画面がたくさん連なってああいうふうに見えているだけなんだ」 知らなかった。私は首を傾げた。 「一枚の静止画面を一フレームというように呼んでいるんだけど、ゲームでは一秒間に六〇フレームぐらいが流れているんだ」 私は驚いた。一秒間に静止画面が六〇枚。多分、TVアニメよりも多い。 「僕らの現実も、もしかしたら静止画面の連続でできているのかもしれない」 私は黙って斉藤さんの話を聞いている。 「まあ現実がそうなっているのだったら、一秒間の静止画面なんて一〇〇枚や二〇〇枚じゃすまないだろうけど。ほぼ無限大、あると思う」 Block Element著 「私は電車に乗る」 第三章 静止画面 より引用 --------------------------------------------- ネットに初めてこの小説を出したのは二〇〇二年 五月一九日(日)である。涼宮ハルヒの憂鬱が出版されたのが二〇〇三年 六月らしいので、とりあえず僕が設定をぱくったとか言われることはなさそうだ。これが逆だったらやばかったかもなー'`,、(´∀`*) '`,、 それにしても、こういうのを知ると、結構みんな考えることは一緒なのかな? と思ってしまう。わりと僕が考えたことをほかの作家さんが書いた小説で目にすることがある。そういうものなのかもしれない。 ちなみに、別に僕は設定をぱくられたと言う気はない。そもそも本当にぱくられたのか怪しいレベルの考えでしかないし、向こうはより立派な本として出版しているのである。僕にしてみれば、出版できるほどのものを出したのだから向こうの圧勝で終わりだろうと思う。僕も出版できるほどのものを作っていたのならまた話は別なのだろうが、先駆けて出版したほうの勝ちである、これは。 まあ、小説家の力量としても間違いなく負けてるけれどねヽ( ´ー`)ノ 余談だが、涼宮ハルヒの憂鬱の未来人の時間の説明と自身の過去への割り込み状況の説明には、まさしくとってつけた様な感触がぬぐえない。この未来人、「何百ページもあるパラパラマンガの一部に余計な落書きをしても、ストーリーは変わらないでしょう?」と、自身をその余計な落書きに例えて説明しているが、どう見てもこの人自身がパラパラマンガの主要人物になってしまっている。思いっきりストーリーをつむぐ存在になっているのである。ぜんぜん余計な落書きじゃない。パラパラマンガでもアニメでもいいが、実際に余計な絵を入れてみよう。“すでに決まっているストーリー”に対して余計な書き込みをしても、その書き込みは物語の当事者たちには認識されることなく話が進む。認識されることはすなわち、決まったストーリーから外れることを意味するからである。 涼宮ハルヒに目をつけられてSOS団に入れられ、バニーガール姿までさせられてチラシ配りに駆り出された時点で、もはやこの未来人が存在していた未来には帰れないと思われる。なぜなら、主人公たちに認識されてしまっているから。もはや、監視しに来ましたとは言えない立場なのである。合掌。 |
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