十二月三〇日、金曜日の話 [◆]ポイントは三つ
忘年会の時に、決まって「彼女はいるのか?」とか「好きな女の子のタイプは!?」とかやたらと聞かれる。しかもこいつら、自分の事は語らないで人にだけ語らせようとするわけである。この手のおしゃべりは嫌いだなー。そもそも、彼らと僕との恋愛感情にものすごい隔たりがあるようなのである。「付き合って一週間で別れた」と平気で話すような人間の心情を理解したくはない。いや、すでに理解はしているのだけれど。どーでもいいんだろ、相手の事なんて。 何か思うところがあり、お互いを見知った中で恋人同士になったならば、一週間などというスピード別離なんか起こるはずがない。原因は、おそらく相手の事をよく知りもしないのに付き合い始めたというところなのだろうと思う。そうでなきゃ、軽々しく話せるもか。 まあ、考えるにはちょうどいいだろうから考えておこう。考えたとしても、どの道80%ぐらいはフィーリングによるものになるだろうから考えたところで無駄という気もする。それはともかく。 おおよそ、必要なポイントは三つ。「聡明」、「希少」、「不計」。聡明である事は絶対に必須だ。馬鹿と量産型はいらん。 忘年会の席では聡明の部分しか言わなかったが、「ソウメイってどういう意味?」と聞かれた時に少なくともお前の事ではないと心の影で思いました。そーいや、過去にぜんがー殿が「今時の奴は『センパクな考え』という言葉を聞いて『船の事?』と聞いてくるから呆れたよ」と言っていた事を思い出す。少し難しい言葉になるとアウトな彼らは本を読んでいるのだろうか。 聡明な人の例として、「例えば少子化の講義を受けたあとに、自分の考える問題点を多角的に言える人」と言ったら、周りの人間はいきなり少子化について語ろうぜと騒ぎ始めた。例えとして使われた議題に対して、何でそんなに反応するのだろう。情けない。自分で考えられることが重要であって、なんか言えばいいってもんじゃないのである。 希少、というのは量産型の対比語として使っている部分が大きいが、どの道今の時代では僕の要求に答えられるだけの女性は希少であろう。高望みするなと言われそうだが、どんなものでも妥協したら妥協した分だけ何かの負債を抱え込まねばならないのである。恋人になる人材ぐらい、妥協しないでいきたい所だ。とくに相手は物ではなくて人間だ。自分の精神面に多大な影響がある事が予想されるため、選別する事は重要だろう。こうはっきりと言うと冷たい感じがするのだが。 ここで補足しておこう。最近、僕は今時の低レベルな人たちを「量産型」と呼称している。主な特徴は「現在、くらげのように一番多い人種」、「品がない」、「公害」というところ。分かりやすく言えば、「こいつら、社会に出たらまちがいなく問題になる」という人間達である。生息範囲は中学〜成人。大学生に一番多いかもしれない。量産型の低年齢化が進んできている事は由々しき問題だろう。量産型とはどういう人か分からない、という人は、量産型を見た事がないか、量産型の一人である可能性がある。 多分、テレビの芸能人に影響されすぎて、身の程知らずにも同じような化粧をした人間のなれはてではないかと思う。芸能人ごときに影響されて自分の姿を変えているようじゃ話にならん。ちょっとはいいと思うが、個人の限界を考えよう。 不計、というのは「計れず」という事だ。何か計り知れないものを持っていて欲しいものである。これは自分でも高望みだと思うが、底が見えていてはつまらないと思うのもある。扱い易い人間は喜ばれるだろうが、人生の伴侶になるかも知れない人間に扱い易い人間を持ってくる事は人生の面白みを台無しにする可能性がある。無論、この考えは僕自身の破滅を招く可能性がある。ここまで言って、もしも僕自身が他人から見て底の浅い人間だったとしたらどうだろう。 これはいわゆるパワーバランスだ。自分が先に力尽きるか相手が先に力尽きるか、均衡を維持しながらせめぎ合わねばならない。恋人=好敵手という構図はなかなか面白そうで好きなのだが、いかがなものだろう。 「あなたが無駄を残さず削除していく人間だった場合、あなた自身が削除されないことを願う」とどこぞの天気ライトノベルに書いてあった事を思い出しつつ、底を深められるように頑張らないとならない。 ちなみに、「可愛い」、「綺麗」というのはポイントに含む必要もない根幹事項なのであしからず(ぉ [◆]晦日の餅つき
実は、我が家にはこういうものがありまして。
石臼と杵でございます。これで搗くものと言えば無論、餅! 我が家では毎年、もち米から餅を搗いて元旦には自家製のお鏡様を頂きます。その昔は親の友人ともども一緒に搗いていたのですが、昨今では我が家のみの行事となりました。友人関係がこじれたり、子供がめんどくさがって来なかったりとか。まあいろいろ。 でー、ここ近年では餅を搗く主力は僕になっています。父も齢五十を越え、腰には湿布を貼っていたりするご時世でございます。僕としても、年に一度、持て余した力を発揮できる瞬間でございますし、とにかく杵を振り上げては振り下ろす労働に身をやつしていたのでございまする。 ……似非敬語に疲れた(ぉ 今年は二回餅をつきました。一回目は近所への配布物とお鑑さん用で、二回目のは本日食用です。搗きたてが一番おいしいんですよ。大体午後一時ごろから一回目を搗き始め、二回目が終了したのは四時ごろ。二回目のもち米は一回目に少し硬かったことを教訓に長めに蒸しました。結果として、餅になりやすかったけれど杵にべっとりと粘りつく餅になってしまい、全力で搗く事ができないという状態に。餅というか糊(のり)になってます。蒸し過ぎたんだーなー……(;´Д`) それはともかく、食べてみればなかなかおいしいものでした。時々入っている杵の欠片(木片)はご愛敬。一年に一度の仕事としてはいいものだと思いますね。 [◆]服の末路
つい先日、タンスの中でスペースを無駄食いしていた着ていない服をタンスの外に出していたのだが、本日、それをお母さんが見るや苦情を出されました。「ぜんぜん着ていない服なのに着ないつもりか」と。中にはまだタグが付いているものもありますが。 このようなもったいない結果になっているのは、単純にお母さんが頼みもしない服を買ってくるからです。僕にも服の好みというものがあり、それに合致しない服は大抵着ない。「安いから買ってきた」は単に資金と資源の無駄遣いだとなぜ分かってくれないのか。何回も申告しているはずなのだが。 さらに言えば、僕は服の持ちがかなりいいほうだ。乱雑に使うこともなく、おしゃれを求めて服を買っていない。着心地と耐久性。夏服なら通気性、冬服なら防寒保温性を見る。後は単に僕の感性に合うかどうかであり、他人からの目はまったく考慮にいれていない。 それはともかく、服がタンスからはみ出しているのは動かしようのない事実なのである。着ないだろうと思われる服は外に出してしまうしかない。ダンボールにでも詰めて、今着ている服が駄目になったら着るか、子供にでも着せるか。部屋をもう少し整理したら、なんとか服の入ったダンボールを片付けられるだろうか。 と、いろいろと考えていたのであるが、お母さんは「ダンボールに入れたら着られなくなるやろ!?」と、なんかとうの昔に処理された質問をしてくるわけです。そもそも着ないから出してあるわけで。あれもこれもなんて言ってたらタンスの戸が閉まらないんですが。そりゃ、僕だってもったいないと思うんですよ。中には一回も着てないようなものもあるんです。でも、着ないんです。 今回の件で安いからと言って服を買ってこないようにしてくれるといいんですが……「あんたには服を買って来ちゃ駄目なんだね」とは、いや確かにそれが一番いいんですけれど引っかかる言い方だなぁ。自分が良かれと思ってした事が裏目に出たら嫌な気持ちになる事は分かるけれど。 どこまで言っても反面教師なんですかね、うちの親は……。 |
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